王太子を救わなきゃ
私は、ハッと我に返ると、淑女の礼をした。挨拶をしなければ、不敬罪だ。
「殿下。私は、エミリー・ド・アヴェーヌと申します。王家専用の場所に勝手に立ち入ったこと、お詫び申し上げます」
「良く知っていたな。王家専用だと」
しまった! 普通の令嬢は、この場所の存在を知らない。ここが王家専用だと知る由もない。私も、王宮暮らしで知ったんだった。
「お、王家専用の、スズランの美しい場所があると、お父様を通じて聞いておりましたので」
「アヴェーヌか。商人はやはり情報通だな」
良かった。何とか誤魔化せた。早く立ち去らなければ。
「私は、これで失礼いたします」
アンドレの横を、足早に通り過ぎようとした時。
「待て」
アンドレが私を呼び止めた。
なぜ、呼び止めるの? 放っておいて欲しいのに。
私は、下を向いたまま、恐る恐る振り返る。
「はい、殿下」
「エミリーと言ったな。所作がとても綺麗だが、どこかで教育を受けたのか?」
ええ。王宮で妃教育として、みっちりと。とは、口が裂けても言えない。
礼儀作法は、教育係から、これでもかというほど叩き込まれた。
「はい。礼儀作法の家庭教師にご指導いただきました。お褒めに預かり光栄です。それでは失礼いたします」
足早に歩き出そうとした時、またアンドレが呼び止めた。
「エミリー嬢」
今度は何? 思わず睨みつけたくなる。
「エミリー嬢は、なぜ、香水をつけていない?」
香水? そうだ。アンドレは、香水が苦手だった。
だから、私も自然と付けなくなった。付けなくなると、香水の匂いが鼻につくようになった。
前世の私なら、香水をふってと、ハンナにお願いしたはずなのに。今日、ハンナが香水をふらなかったことに、何の違和感も覚えなかった。
「香水は、周囲の迷惑となることも、ございますので」
アンドレは、少し間をおくと、口を開いた。
「良く分かっているな。僕は、香水が苦手なのだ。夜会は様々な香水の匂いで溢れかえっている。頭が痛くなる」
私は、拳をグッと握った。
アンドレに名を明かした。僅かだけれど関わりを持ってしまった。
このままでは、まずい。好感を持たれては困るわ。
こうなったら、何としても嫌われなくては。失礼な令嬢だと思わせれば、今後、アンドレが私に関わることはない。
「では、夜会の香水を禁止されては? 皆、嗜みだと思っています。殿下の頭痛を引き起こしたい訳ではありません。皆、知らないだけです。知れば、誰も香水を付けたりしませんわ」
どうだ! 男爵令嬢ごときが、王太子に意見するなど言語道断!
アンドレは、一瞬、驚いた表情を見せた。直後に、眉を寄せた。
やったわ! 嫌われた!
「なるほど。皆、悪気はない。言わなければ、僕はいつまでも我慢しなくてはならないな」
えっ? アンドレ、ここは怒るところよ。納得してどうするの?
このままじゃ、ダメだわ……。もっと失礼な言葉を浴びせなきゃ。
「殿下、本日の夜会では、匂いを吸い込まないために、チリ紙を鼻に詰めたらどうです? 香水が苦手だと、遠回しにアピールできるかも知れませんわ」
決まった! こんなバカなことを言う令嬢とは関わりたくないでしょう?
アンドレは、きょっとん顔の後、大声で笑い出した。
私は、アンドレの笑う姿を初めて見た。しかも、大爆笑。
……こんな風に笑うのね。
私は、小さくフッと息を吐いた。
あの頃、こんな笑顔を側室には、いつも見せていたのね。
皮肉よね。あの頃、見せて欲しかった笑顔が今、ここにあるなんて。
「殿下、私は夜会へ戻りますので、これで失礼いたします」
もう一度、淑女の礼をして歩き出した瞬間。
アンドレが、私の右手を掴んだ。
何!?
私は、呆然とアンドレの顔を見つめた。
あの頃、公式の場のエスコート以外で、私に触れることなど、なかったのに……。
アンドレが、優しく微笑んだ。
「エミリー嬢、君、面白いな。もう少し、僕とここで話をしよう」
こんな優しい笑顔も、初めて見た……。
あの頃、こんな笑顔を向けてくれていたら、少しは違っていたかしら……。
次の瞬間。
アンドレが、私を庇うように引き寄せた。
えっ! 何!?
草陰から何かが飛びかかって来るのが見えた。
蛇だ! 蛇は、アンドレの手首にガブリと噛み付いた。
「殿下!」
アンドレの顔が、苦痛に歪む。
そうだ。思い出した……。
前世の私は、大広間にいないアンドレを、ずっと探していた。
大広間の窓から、中庭を歩くアンドレの姿を見つけて、後を付けた。自分が聖女だと、いつ明かそうかとワクワクしながら。
すると、アンドレが毒蛇に噛まれたのだ。
パニックになった私がオロオロしている間に、アンドレの噛まれた手首は、赤く腫れ上がり、呼吸はどんどん荒くなっていった。
その時、聖女である自分なら治せるのでは? と思い立ち、左手を翳した。アンドレの噛まれた傷は、見る見る治癒した。私が、聖女の力を初めて使った瞬間だった。
後に、猛毒を持った毒蛇に噛まれたことが、症状から判明した。命が危うかったと。
あの時は、周囲を見渡す余裕などなかった。この場所だったのね……。
毒蛇……。
アンドレが、その場に崩れ落ちた。
「殿下!」
私は、アンドレを咄嗟に支えた。
噛まれた手首は、赤く腫れ上がり、呼吸はどんどん荒くなっていっている。
どうしよう……。このままでは、死んでしまう。
けど、聖女の力を使う訳にはいかない。
私は、焦って周囲を見渡した。
「誰か! 誰かいませんか!」
ここは、人がほとんど来ない場所。誰もいるはずない。
今なら、聖女の力を使っても……ダメよ。アンドレには分かってしまう。
助けられたのに、助けなかったことが後にバレたら、死罪だ。
聖女の力を使わずに、助ける方法……。
そうだ! 以前読んだ小説に書いてあった! 何か縛る物……。
私は、手首のリボンに目を留めた。これはダメ。絶対に外せないわ。
他に何か……。周囲に目を巡らした。これだわ!
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