5 孤独な回顧録
「リラ、俺と結婚してくれないか?」
目の前の貴人はひとつの躊躇いもなくそう言った。いつになく真剣な眼差しが、これは本気なのだとリラの心に強く訴える。
正直、その言葉自体にはときめいた。リラだって年頃の娘だ。相手がよっぽど気色悪くない限り、人並みに心揺さぶられることもある。もともとアルナウトのことは好印象だったし、そんな相手からの求婚が嬉しくないなんてことは決してない。
けれど、今に至ったプロセスも理由も何度考えても理解できない。それも、こんな真っ昼間の衆人環視の中で。一体何がどうなっているのか。
今も周囲の令嬢たちの眼光がみるみるうちに鋭くなって、リラに突き刺さるのが全身で感じられた。アルナウトは貴族で、リラはただの街娘。当然のようにリラに非難の目を向けているのだ。
しかし令嬢たちの鋭い視線も、その時のリラには暖簾に腕押し。何の意味も為さなかった。それほどに、アルナウトが現れてからの怒涛の展開に混乱していた。家柄、容姿、人柄、その全てに非の打ち所がないような侯爵様が急に得体の知れない娘に求婚するなんて、にわかには信じがたい話だからだ。タチの悪い勘違い貴族が、何かの拍子に、血迷って、とかならまだ納得できるのだが。
普段のリラなら、何を言われたとしても表情が取り繕えただろう。冗談はお辞めになって、くらいは笑って言えただろう。でもこの時ばかりは出来なかった。
多分、少しでもときめいてしまったのがよろしくなかった。それから、偶然の産物だとしても困っているところを助けられたのもだめだった気がする。颯爽と現れたその姿は、今まで出会った誰よりも格好いいと思った。
そう思った自覚があるからこそ、彼の求婚を断らなければいけないことに切なくなってしまったのだ。
「あの、私は、、、」
アルナウトの目を見れないまま、なんとか返事をしようと口を開く。でも思ったように唇と舌が動いてくれない。
そんなリラの様子を見て、アルナウトは何か思うところがあったらしい。
「すまない。後でまたいつもの時間に来る。」
そう言って、アルナウトは店の出口へと踵を返して行った。
そして、アルナウトが一旦引き上げたことで、正味三十分もない嵐の時間がようやく終わったらしい。相変わらず店に居続ける令嬢たちは、リラのつま先から頭のつむじまで品定めしているようだったけれど。
それを可哀想に思ったのか、アスタが今日はもう休んでいいと言ってくれたのでリラは甘えることにした。いや、アスタの頬は明らかに緩んでいたので、降って沸いた人の恋愛模様に興奮していただけかも知れない。
自室に戻ってからは、らしくない、とリラは心の中で独りごちた。少しでも動揺したことが悔やまれた。誰が来たところで、どうせ断るのだ。たとえ相手がどんなに高貴な相手でも、振り回される必要性がどこにもない。
それから、アルナウトに同情せざるを得なかった。だって相手がリラでさえなければ、アルナウトは断られて貴族としての矜持を傷つけられずに済むのだから。
少しの間、寝台に腰掛けて思考を整理したことで、リラは段々と冷静さを取り戻した。まず、迷惑な客から助けてくれた感謝をしよう。それから、アルナウトには申し訳ないが求婚はお断りする。彼に想いを寄せる令嬢たちも多く通う喫茶店に迷惑がかかるようなら、別のどこかへ旅立つのもいいかも知れない。今のリラは自由の身、どこへだって行けるのだから。
そこまで整理したら、急に眠気が襲ってきた。まだ外は暗くなる気配などないが、朝から色々とありすぎたのだろう。
仕方ない、そう思ってリラは意識を手放した。
*****
その日の夜、リラ・エスキアは次の日の公務の段取りに目を通していた。夜更け過ぎも良いところだが、その日は目が冴えていたのだ。
昼間、庭園で宝石のように輝く花を見かけたからだろう。ありふれた花だが、とても気まぐれらしく花開くこと自体は珍しい。不思議なことに、エスキア帝国領内に自生している量が他の国に比べて多いので、人々はエスキアの花と呼んでいる。
そして、エスキアの花はいつも何かしらの予感と共に花開く。そういえば、どこぞの歴史家の書物に幸運をもたらすとか書いてあったなぁとリラは思い出す。
しかし、その瞬間。リラの眼下にはキラリと光るナイフがあった。もう少しで首をかき切られるところだったが、なんとか避ける。とっさのことだったので、ナイフを掴んだ右手からは血が流れているが、気にしている場合ではない。
そしてナイフを掴んだまま、後ろにいるらしい刺客にすごむ。
「こんな夜更けに国王の部屋に侵入とは、無礼にも程があるのではなくて?」
刺客は一瞬怯んだようにも見えたが、すぐに元の様子で、
「......お前はこの国の神聖な王座に相応しくない。その席は、本当はっ!」
刺客の声は今にも泣き出しそうで、思わずそんな調子で私を殺せるのかと問い詰めたくなってしまう。けれど、あまりにも聴き慣れたその声は、確かにリラの心を蝕んだ。
「一体どんなところが?即位して間もなく、先代から続く隣国ダロンとの戦争を国内外の協力を得て終結に導き、その後処理もつつがなく終わらせたことはそれなりに評価されていると思うのだけど。大国アランサバルと同盟組むのも楽じゃないのよ?」
見知った人物の裏切りにこちらこそ泣き出したかったが、生憎リラ・エスキアという人間は強がりなのだ。そんな思いはおくびにも出さないようにニッと笑って、そう言い切って見せた。
「......それはっ」
恐らく知人である刺客は、顔を隠していてどんな表情かは全く分からない。けれど何も言い返せずさぞ悔しそうにしているのだろう。剣技や体術は得意かも知れないが、弁はあまり立つ方でないので当然の結果ではあるのだが。
自分で聞いておいて、予想通りすぎる反応に少し笑えてくる。彼のその期待を裏切らないところを今まで信じていたというのに、こうなっては憎々しいかもと、そうリラは思った。
「ま、答えられないわよね。あなたは。」
リラが言うのと同時に、刺客はリラの手からナイフを抜いて再び襲いかかってくる。
(流石に…強いっ……)
リラと刺客の実力はほぼ互角、このままでは拉致があかない。というか外の護衛は物音に気付いたりしないのだろうか。
何かがおかしい。そう思いながら、リラは廊下に続く扉に手を掛けた。
(外に出てしまえば、こちらのもの……)
結構信頼していた人物だけに、後で処罰するのは残念だと思いながら扉のノブを回す。
しかし。外に広がる光景は驚くべきものだった。いつもリラの部屋を守る護衛がことごとく倒れていたのだ。その代わり、刺客のお仲間が数人待ち構えていた。
「……随分と準備が万端なのね。...ああ、騎士を多く輩出する家だものね。」
いつの間にか、再び背後をとっていた刺客に嫌味を言う。扉の外に控えていた仲間たちに出口を塞がれてどうにも逃げられそうにない。そう判断して、リラは観念したように両手をあげる。
「分かってもらえて何よりだ。」
「………」
「何か言うことはないのか?そうだな、例えば今は亡き兄に向けて、とか。」
今は亡き兄、その言葉を聞いてリラは何故最初に王座の正統性に言及されたのかを理解した。つまり、リラ・エスキアは王座欲しさに兄をその手にかけたと言いたかったのだろう。
しかしそんな話は事実無根だ。愛する双子の兄を殺すなどあるわけがない。というか兄が死んだのは事故で、その時両親も共に逝ってしまった。刺客の理論を受け入れると両親も手にかけたことになるのだがその認識はないのだろうか。
身の危険が迫っている状況で、少し間の抜けた思い込みの強い男に呆れなければいけないとは。情けないにも程がある。
ちなみに、リラは即位した当初から、自分の役割は先代からの戦を終わらせることだと認識していた。もう戦も、その後処理もあらかた片付いている。そしてまた、前例のない女王として君臨し続けるよりは、少し歳の離れた弟が王になるまでのつなぎである方がいいだろうとも思っていた。
そして、当時八歳だった弟も今年で十五歳。譲位してもなんとかなりそうな年齢になってきている。まあつまり、暗殺に来ずともあと数年の王座だったというのも背後に立つ男に呆れかえる理由である。
しかし、今現在の状況を文字列にするとこうだ。
“くだらない勘違いのせいで、信頼していた人間が全くもって無意味な暗殺にやってきて、こういう時に限ってやたらと手際が良いせいで私は死ぬ”
考えれば考えるほどこんなに馬鹿らしいことはない。こんなところで死にたくないと強く思った。そう思って仕舞えば、リラがもういっそ逃げてしまおうという結論に至るまでに時間はかからなかった。
逃げると決まれば話は早い。リラは何か目眩しに使えるものがないかと部屋の中にあるものを思い出す。
「何も言うことは無い、ということで構わないな?」
刺客の問いをすっかり忘れていたが、目眩しになりそうなものが部屋の中に無いことは思い出した。
となれば、今すべきことは何か。
「あるわ。ねぇ、私と取り引きをしない?」
隙を作れそうにない今、交渉をするしかないだろう。むしろ、この男にはそちらの方が勝算もあるくらいだ。今度は刺客が黙る番だった。
「……それは、どんな。」
何を厚かましい、くらいの罵声は覚悟していたので肩透かしにあったような気分になったが、なんとか第一関門は抜けたことにリラは少し安堵する。
周りにいる他の刺客たちは、困惑しながらも何も言わない。やはりリラの背後の男が決定権を握っているのだろう。
だから畳み掛けるように言葉を続ける。
「簡単よ。貴方が私を逃して、私の部屋を燃やしてくれればいいのよ。私は二度とこの国には帰らないから。」
「何の冗談だ?」
随分と訝しんでいるようだったが、構わずにこう続ける。
「部屋の金品の類は全て貴方に差し上げるわ。どうせ燃やせば価値がなくなるものだから、誰も気にしないでしょうし。それくらいの時間はあるでしょう?それに、私が王座に居座っているのが嫌なら悪い話ではないはずだけど。」
「………お前の遺体が無いことはどう説明しろというんだ。」
「燃えて原型を留めてない上に、燃えた残骸に潰されて分からないとでも言っておきなさい。ああ、王位は弟に行くようにしてちょうだいね。決して変な気は起こさないように。」
リラは息を飲む。この提案を受け入れてもらえなければ、今度こそ自分には死しか待っていない。
すると、背後からナイフを仕舞う音が聞こえた。その代わり、腰に刺している剣を抜く音がした。その剣は何のために使うのか、なんて野暮なことは聞かない。
そして刺客の男は口を開いてこう言った。
「今から、俺は何も見ていないし、聞こえてもいない。どこへでも行ってくれ。」
「感謝するわ。」
リラは部屋の中に戻って、王族のために作られた隠し通路の扉を開ける。
ふと刺客の男の方を見ると、廊下にいた他の刺客たちを口封じのために斬り付けていた。リラはそこまでしろとは言っていないが、予想は出来たことであるし、交渉成立のためには仕方のないことだ。
不思議な話だが、女王が女王でなくなればそれで良いらしく、それによって命拾いをしたのである。
(お仲間さんには悪いけど、私は全てを捨てて逃げるわ。)
「じゃあね。」
残して行く弟と妹に、決して届くことのない別れの言葉を呟く。
リラはもう、後ろを振り返ることはなかった。
*****
目を覚ますと、リラはまず自嘲した。まだ懐かしいとは言えない記憶を夢に見てしまうような、そんな自分が弱く思えたからだ。遠い未来でいいから、穏やかな気持ちで過去を振り返れたらいいのだが。
ぼんやりしながら窓の外に目をやると既に太陽の気配はなく、同時にアルナウトが来る事を思い出して一気に覚醒する。
「アスタさん、今何時ですか!?」
ちょうど、起きた物音が聞こえたのかリラの部屋を覗きに来たアスタに尋ねる。
「今十八時半過ぎたところだよ。下に侯爵様が来てるから、話しておいで。」
店の閉店時間は十八時。少し寝過ごしてしまったようで申し訳ないと、リラはアルナウトのいる一階へと急いだ。