1 ただの人助け
その日は、いつもと何ひとつ変わりのない朝から始まった。
目が覚めてからすることは決まっている。まずは、お世話になっている喫茶店の主人アスタに朝の挨拶をする。
「おはようございます、アスタさん。」
「ああ、起きたのね。おはようリラ。朝ご飯を用意しているからもうちょっと待ってね。」
アスタは人のよさそうな笑顔で名前を呼んでくれる。
アスタとは、リラが喫茶店の上の階の空き部屋に居候させてもらうようになってからの付き合いだ。そろそろ2年目に差し掛かるといったところだろうか。早くに旦那さんを亡くしていて、息子もいるにはいるが騎士の道へ進んで宿舎もあるためかなかなか帰ってこないらしい。だからかリラのことを実の娘のように思ってくれているようだった。リラの両親は既に他界しているので、そんなアスタの接し方は本当に嬉しい限りである。
「それじゃあ、私は下の掃除してきますね。」
アスタに挨拶をしてからは一階の喫茶店の掃除に向かう。居候させてもらっている代わりに、お店の手伝いをするという決まりだからだ。
二年もあれば慣れというのが目に見えてくるもので、手際よく客席の隙間を箒で掃いていく。次に、テーブルを少し濡らした布巾で丁寧に拭く。前日の汚れが残っていないか念入りに確認することも忘れずに。
「よしっ、こんなもんかな。」
掃除を終わらせたリラは朝ご飯を食べるために、再び居住スペースの二階への階段に足をかけた。リラが自慢することではないが、喫茶店の主人なだけあってアスタの作る料理はとてもおいしい。加えて喫茶店の一日は忙しく、温かいご飯が食べられるのは朝ぐらいしかない。だから冷めないうちに食べてしまおうと、リラは階段を上る足を早めた。
そして朝ご飯を食べた後は喫茶店の一日がいよいよ始まる。立地のせいか少し忙しすぎるきらいがあるものの、リラにとってそれなりに幸せで、穏やかな毎日である。
そんな日常に、とあるきっかけが訪れたのはお昼過ぎのこと。いつも通りに給仕に励んでいた時だった。
「お待たせしました。タルトタタンとレモンパイ、それからアイスティーが二つになります。」
「わぁ、おいしそうですね。」
「ええ、本当に。見た目も可愛らしくて、評判を聞いて来てみて正解でしたわ。」
どうやら目の前にいる貴族らしい令嬢たちは、初めて来たお客さんらしい。お菓子を前にきらきらと目を輝かせながら談笑している姿がとても可愛らしい。
リラが働くこの喫茶店は、ラルエットという国の王都にあるためか、他の喫茶店と変わったところが特別あるわけではないのだが貴族のお客さんの方が多い。今目の前で談笑するご令嬢たちもそんなお客様の一人というわけである。
ただ他と変わったところがないとは言ったが、味や見た目が年頃の令嬢たちの心を掴んでいるというのは言っておこう。この店の主人であるアスタは料理に関して全方位隙がないので当然の結果だとは思うけれど。
そういうわけでリラはすぐに別の席の客に注文を聞きに行こうと足早にメニューを取りに行った。
そのすぐ後のことだった。カランコロンという音がして店の入り口の扉が開くのと同時に、店内にいた女性たちが色めき立った。皆がその白く美しい頬を色付かせて入口の方に熱い視線を送っていた。
喫茶店の形式として席は自由に座ってもらっているので、いつもならリラは扉の音が鳴ったくらいでは振り返らない。
しかし、店内の視線が急にどこか一つに集まれば気になってしまうのは普通のことだろう。ふと扉の方を見やれば、普段ならこういった喫茶店には来なさそうな、いかにも貴族然とした青年が立っていた。
よく見るとその青年の髪の毛や肩のあたりはびしょ濡れになっていて、ついでに窓の外を見ると朝の晴れ間はどこへ行ってしまったのか、土砂降りになっていた。
リラは青年が店を訪れた理由を悟って、店の奥へタオルを取りに行った。青年は相変わらず扉の前で立ちすくんだままだったが、自由席であることの説明は水気を拭いた後でも大丈夫だろうと、その時は思ったのだ。
しかし、その判断には少し後悔せざるを得なかった。なぜならタオルを手に戻ってくると、さっきの青年が店内で自分達の席に座っていたはずの令嬢たちに囲まれていたからだ。
これでは青年に客としてのもてなしができない。かと言って、周りの令嬢たちをかき分けていくのも気が引けるほどの様子だ。少し考えた末に、リラは少し事が落ち着くのを待つことにした。ついでに店の主人アスタに彼が何者かを聞いてみようと思った。
「アスタさん、彼、いったい何者ですか?」
「ああ、ご令嬢方の言うのを聞いてると彼はフィーレンス侯爵家の御子息みたいだよ。家柄に加えて顔もいいしかなり優秀ときた。彼を狙ってる御令嬢は沢山いるみたいだよ。ま、これは風の噂に聞いた程度だけどね。顔がいいのは本当みたいだ。」
「ああ、なるほど...」
今の状況を見てふさわしい説明をくれたアスタのおかげで、ようやくリラは何が起こったのかを正しく理解することができた。つまりは優良物件を捕まえるために皆必死だという何処の世界にもよくある話だった。囲まれている青年自身は令嬢たちを鬱陶しそう見る顔がその全てを物語っているように見えた。
とはいえ、このままでは店の運営にも差し支えが出てしまう。なにせ事が起こっているのは店の出入り口だ。もっとも土砂降りの外を見る限り、しばらくの間は出入口として使われることはないのであるが。
思案したリラは、アスタに許可を取って傘を渡すことにした。喫茶店の者としては客を帰すという言語道断の発想ではあるが、このままでは店も青年も何も得をしない。彼に店を出る理由を与えた方が早いだろうと思ったのだ。
「あの、宜しければこちらをお使いください。お返し頂かなくても結構ですので。」
相手の青年はというと随分と驚いた顔をしていた。土砂降りにあった人間に傘を渡すことのどこに驚く要素があるのかリラはまるで分からなかったけれど、すぐに、実は彼の後ろにずっといた従者の分も受け取ってくれたのでそんなリラの疑問はすぐに強い雨音の中に掻き消えてしまった。
それからは随分と早かった。青年は従者と一緒に再び外へ出て帰って行き、いつの間にか令嬢たちも自分達の席で他愛もない話に花を咲かせていた。
その様子を見てリラも通常通りの仕事に戻った。空になった食器を片付ける途中、確かに格好良かったと青年のことを思い返したのだけど、時間が経つにつれてそんなことはしなくなった。
それくらい、リラにとってはなんて事ない話のはずだった。
驚いたのはその一件の翌々日のこと。見るからに高そうな傘が二本と、それを持ったあの青年が再び来店したのだった。今度は騒ぎにならないように、既に客足の途絶えかけた閉店間際にという気遣いも加えて。
アスタもリラもこんな高い傘はお礼だとしても受け取れないとかなり粘ったが、最後には押し切られる形で傘を受け取った。まあ侯爵家からの厚意を無碍にすることもできないので、結局受け取ることになったのだろう。後日、豪華すぎて喫茶店に置いておくには似つかわしくないし、悪巧みするやつはどこにでもいるので店の奥にしまわれてしまったことは内緒である。
そしてさらに驚くべきは、その青年がリラの目の前で直立不動になっている事だった。傘はもう返してもらったし、これ以上いったい何があるというのだろう。
失礼な態度を取った覚えはないし、強いて言えば傘を渡して帰るという有無を言わさないような選択肢しか与えなかったことが気に障ったのだろうか。でもそれは彼の得でもあったはずだ。何か言われる程のことではないとリラはその時を思い返す。
しかし、しばらく待っても青年が話し始める気配はまるでなく、リラの思考もそろそろ堂々巡りになってしまっていた。助けを求めるようにアスタの方を見ると、なぜか目配せをして去ってしまうのが見えた。仕方なく先程までいたはずの彼の従者に事情を訊こうとしたのだが、そちらもいつの間にかいなくなっていることに気づく。その姿を探して窓の方に目をやると、外に控えているのが見えた。
本当に一体なんだというのか。
先に沈黙を破ったのはリラの方だった。
「...まだ何か?」
おずおずと、それでも聞きたいことは聞けるように青年に問う。
するとようやく青年が口を開いた。
「お前、名は何というんだ?」
予想外の質問に、その時のリラは随分と呆けた顔をしていたと思う。正直そんなものは店の主人であるアスタとの会話を少し聞けば分かっただろうし、もしそれで分からなかったとしても、今みたいに黙った後で聞く程難しい質問でもないはずだ。
「名前を聞きたいのなら、まずはご自分が名乗るべきではないのですか?」
実を言うと、リラは少し苛立っていた。いざ内容を聞いてみれば大したことではなかったし、青年が黙り込んでいたせいで気付けば店の終業時間も過ぎてしまっていたのだ。リラとしては終業後も多少仕事が残っているし、早く晩ご飯を食べたいと言うのが本音だった。
だからまずは自分が、などと言う失礼にも取れるような応対になってしまった。青年に悪いと少しはリラも思ったが、言ってしまったものは仕方がない。
しかし青年は、そんなリラの物言いを咎めることはなく、むしろ先程よりも背筋を伸ばして、リラをまっすぐに見た。
青年の綺麗な瞳が射抜くように見つめるので、リラは苛立っていたことをすっかり忘れて思わずドキドキしてしまったが、そんなことは気取られぬように平静を装って見つめ返す。
「確かに君の言う通りだ。俺の名前はアルナウト、フィーレンス侯爵家の者だ。君にこの間の感謝をどうしても伝えたかった。あの時は助かった。礼を言う。」
アルナウトはそう言って柔らかく微笑んで見せた。これはちゃんとしなければとリラも先程より姿勢を正す。
「失礼な物言いをして申し訳ありません。私の名前はリラと申します。」
リラはアルナウトにスカートの裾をつまんでお辞儀をした後、間髪入れずにこう続ける。
「この間のことは大したことではないのでそんなに気にされることはありません。傘も頂いてしまいましたし...」
「いや、本当に助かったんだ。気にしないでくれ。」
先日の令嬢たちのことを思い出したのか、あんまり切実そうに言うアルナウトを見て、感謝の言葉を素直に受け取ることにした。アルナウトの立場上、なかなか強く言えないこともあって苦労しているのだろう。
そしてその日最後の驚きは、もう店の外に出ようかというときのこと。アルナウトがこんな申し出をしたからだった。
「今度は本当に客として来てもいいか?」
リラは目を丸くして一瞬きょとんとしてしまう。
店としては願ってもない申し出だが、明らかに見た目も中身も女性向けの店に、また気まずそうに入ってくるのを想像すると少し面白いとも思った。男性のお客さんがいないわけでもないので、別にそこまでおかしい事ではないのだけれど。
「それは勿論です。店内は自由席ですので、ご来店の際にはお好きな席にお座りくださいね。」
「そうだったのか、分かった。」
今度こそちゃんと自由席の説明もして、リラはにっこりと営業的な微笑みをアルナウトに向けたのだった。