第4話 -希望-
日も昇り、わずかに傾く太陽に照らされて世界が色づき始めた頃。
ぼんやりとしていた輪郭がはっきりとし、周囲の眺望が姿を現わす。
光が大地を這っていく。周りにあるのは鎮座する山々。高くそびえ立つそれらは壁のごとく、半円を描くように一箇所を除いた辺り一面の土地を隆起させている。
山々を覆うのは幾多の木々。そのほとんどが広葉樹である。
針葉樹も幾らかまとまって生えてはいたが、その多くは人の手によって植林されたもの。まだ人類の文明が発展していた頃に材木として植えられたものたちだった。
今の人類にそれを知る者はすでにいないだろう。ある意味これも失われつつあるかつての文明の悲しき遺物であり、朽ちることのない天然の歴史である。
まっすぐ伸びる針葉樹林に深緑の細い木の葉が青々と生えている。しかし、季節は春でも夏でもない。常緑樹と呼ばれる樹木だからである。
針葉樹林を囲うように辺り一帯に燃ゆるのは広葉樹。
広く平たい樹葉たちは赤かったり黄色かったりと艶やかな色で染められている。落葉樹、つまりは紅葉して葉を落とす樹木である。秋になると落葉し、次の年の春に新たな葉を生ずる。故に今は秋であった。
美しく鮮やかな紅葉が山々を覆うように一面を染め上げ、日の光を反射させて色深く煌めく。しかしてその葉は木々に力なくしがみつき、今にも儚く大地へ帰らんとしているようだ。
いつかは尽きる炎のように、最後は儚くも美しく散る花火のように、木の葉たちは最期を迎えようと盛大に景色を赤々と燃やす。
その光景は往年より何があろうとも変わることのないものだった。
山々の中に半円を描くように幾許かのひらけた部分がある。周囲を木々が囲い、地上からではそこに何があるのかは窺い知れない。
木々の広がりがふつと途切れた場所がある。露地より山々に背を向けた方角。そこには高々と切り立った崖がそれより先の行く手を頑なに拒むかのようにそびえ立つ。
断裂された大地の上部にはまた別の森林が広がっていたのだが、地上の木々とはわずかばかりに種類が違うようだった。どちらにせよ、下からでは崖の上の世界がどのように広がっているのか、見ることはできなかったのだが。
その崖の上から滾滾と水が流れ落ちてくる。さしたる量の水が流れているわけではない。崖の岩肌を伝い、程よい水量が涼やかな音を立てている。
ささやかな滝は尽きることなく流れ続け、地上に落ちる。そこには滝壺ができており小さな池が広がっていた。時折、水面に漣とは違う小さな波紋が広がる。
かすかな気配。そこに生命を感じる。
小さな波紋と水音を立てて魚が跳ねる。滝を遡上するわけではない。また、海から上がってくる魚などいるはずもなかった。居心地の良い池に住み着いているのだろう。
魚たちの住処はここだけではない。流れ落ちる滝。その下に溜まる池。池に溜まる水はどこに流浪するのだろうか。
答えは簡単である。
溢れる水はさらなる流れによって旅を続ける。池から流れる小川はずっと向こうの山と山の合間に流れていく。どこかで別の川と合流するのだろう。それはどんどんと水量を増し、最後には大河となって海へと向かう。
そこで水の旅は終わる。海までが魚たちの住処だった。
その池のほとり。ひらけた露地に一つの小さな小屋が佇む。
古びた外見、くたびれた建物は遠い昔に建てられたのを物語っている。けれども手入れが行き届いているのか、まだ崩れる気配は見られない。静かに小屋が佇んでいる。
日がすっかり昇り、辺りがさわやかな朝日とも違う昼近い日で満たされてきた頃。
閑静なその場所に金属と木の軋む音が元気に広がった。扉が開かれた音である。
「よし! 今日も元気にお仕事しますかっ」
元気よく扉の前で意気込む少女の声が扉の音に次いで広がる。作業着に着替えたアケミである。
動きやすく、かつ汚れても良い格好。頭にはタオルが頭巾のように巻かれている。
アケミは家から足軽に飛び出すとスタスタと歩く。
数メートルほど歩いた先だろうか。その場所にはそこそこ広い耕された土地が広がっており、畑の畝には等間隔にいくつかの種類の植物の葉っぱが青々と生えている。
アケミが栽培している野菜の畑だ。春から丹精込めて育ててきた。そろそろ収穫の時期である。
「さてと、どうかな……」
アケミは一番身近にある野菜の下に膝をつくと葉の根元をそっと掘り起こしてみる。
土の中から現れたのは直径五、六センチほどの綺麗なオレンジ色したニンジン。葉の形を見るにその列の畝に植えられているのは全てニンジンのようだった。
「うん、いい感じね」
アケミは短く呟き頷く。その表情は自信に溢れている。
アケミはそのままニンジンの葉の根元を掴む。そしてグッと力を込めて真上に引っ張る。
「ん、よっと――」
しっかりと根付いたニンジンは地に力強く留まり、簡単には抜けそうもない。……はずだった。アケミは思い切りニンジンを引き抜く。
「ひゃっ!」
小さな悲鳴とともに小柄な少女が尻餅をつく。もちろん、小柄な少女であるが故、ドスンという音を立てて尻餅をつくはずがない。
トンッと小さな音を立ててアケミがその場に座り込む。驚いたのか、その表情は目をぱちくりさせてキョトンとしている。
彼女の手に握られているニンジンは太さこそあれど、酷く短く十センチにも満たない長さしかない。下に細く伸びる根が続いてはいるのだが、明らかに収穫に適した状態ではなかった。
「あいたた……ちょ、ちょっと収穫が早かった……かな?」
アケミは出来かけの不恰好なニンジンを見てあははと苦笑いする。ちょっとどころかかなり収穫が早かったのである。
「はあ。なかなか栽培って難しいのね。何年経っても収穫時期がわからないわ。幸い、病気とかはまだ大丈夫だけど……」
自信満々にやってみたはいいものの、まだまだ家庭菜園の道は長いとアケミは悟る。今年こそはと意気込んだが毎年のようになにかしらの問題を抱えていた。
「ま、まあ、これはこれで食べられないこともないし……ほ、ほらっ、ちょうどニンジンが食べたいなーって思ってたところだし。うん。とりあえず、これは持って帰って……」
別に誰が聞いてるわけでもないのにアケミは自分自身に向かって言い訳を並べる。まだ子供と言って十分いい年頃の少女には羞恥心が捨てきれないのだろう。言い訳でも言わなければさっきまで自信満々だった自分が恥ずかしすぎる。
うん、うんと自分に言い聞かせて納得したアケミはその短いニンジン一本を持ってとりあえずは家に帰ることにした。まだまだやることは多いのだ。洗濯、薪割り、エトセトラ。食料だって出来かけのニンジン一本では今晩の空腹すらしのげない。
数メートル先の家に帰ったアケミは次に洗濯をしようと衣類や食器をカゴに入れて持ち上げる。
華奢な少女には少々重そうな荷物をアケミはフラフラしながらもなんとか持って家を出る。重労働だが仕方がない。今日は起きるのが遅かったからあまり時間がないのだ。いっぺんに運んだ方が効率がいい。
家を出たアケミは今度は畑とは反対方向に歩いていく。家から畑までの距離よりもいくらか遠い距離を歩いたのち、滝が流れる池のふちにたどり着いた。池の水は澄んでいてとても綺麗な状態だ。
ふとアケミはその池で水遊びをしたい衝動にかられる。こんなに綺麗な水なのだ。今すぐ飛び込んで泳いだり水の掛け合いをしたい。
(はっ……! だ、ダメよ、そんな子供みたいなこと。私はお姉ちゃんなんだから)
正気に戻って頭を横に振るアケミ。今の彼女に年相応の遊びをしている余裕などなかった。
また、今は秋。とてもじゃないが水遊びをするような季節ではなかった。水温だってかなり低い。
気合いを入れ直し、地面にアケミはカゴを置くと池の水で衣類を洗い始める。このご時世に洗濯機などはない。もちろん手洗い。
秋のひんやりとした空気にさらされて冷え切った水がアケミの手をこわばらせる。かじかんで思うように動かせない指を一生懸命に動かしてアケミは洗濯を続ける。眉間にしわを寄せて冷たさに耐えながら。時折冷え切った両手を吐く息でわずかに温めながら。
それでもアケミは決して音をあげなかった。アケミの中にあるのは姉としての強い信念。母の残してくれた姉という存在定義。
――アケミはお姉ちゃんになるんだから、やさしくしてあげなきゃダメよ。
母の言葉が脳裏に浮かぶ。
(私はお姉ちゃんなんだから、姉らしくしっかり弟の面倒を見てあげないと。私はもう子供じゃないんだから、ママみたいにもっと強く、しっかりしないと……)
姉として、保護者として、アケミはタツミのために強くあらねばならなかった。あの子を守るため、あの子を育てるために。
だからだろう。しっかりものであろうとした彼女はいつの間にか強気な性格になっていた。
彼女は震える手を抑え、洗い物を続ける。ただひたすらに弟のために。
やがて衣類、食器ともに洗い終えた。アケミはすっかり冷え切った体で次は何をしようかと考える。暖炉の前で温まる時間などないのだ。それに、そんなことのために使えるほど薪は余ってはいなかった。
次は薪割りにしよう。アケミはそう決める。
薪が少ないからという理由もあったが今年の冬は持つにしろ、来年の冬のことも考えて今のうちに多めに用意しておいた方がいいと考えたからである。
だが、これは結構一苦労な作業である。
薪を作るにはまず木を切り倒し、細かい枝を除き、残った幹をちょうどいい大きさに切ってから割らなくてはならない。もちろん、その後は一年ほどかけて乾燥させなければならないのだが。
すでに切り倒した使いかけの木はある。しかし細かく切って割るとなるとかなりの重労働だ。さすがに手伝いが必要と判断したアケミは辺りを見回す。
「たっくーん! ちょっと手伝って欲しいんだけどー」
辺りに聞こえるように声を張って呼びかけるが返事がない。どうやらこの辺りにはいないようだ。
「はあ。またあの子はどっかに行ってるのね。まったく……いつも遊んでばっかりで全然手伝ってくれないし……」
アケミは呆れたようにため息をつく。しかたない、と一人で薪割りをするために洗濯物を再び持ち上げると家の方へ歩いていく。
「うい、しょっと。あの子、山を越えてないといいけど」
アケミがポツリ心配そうに呟く。子供が到底越えられるような山ではなかったが、それだけがいつも気がかりだった。
周囲を囲む山々。背には高くそびえ立つ崖。そんな場所にひらけた土地があり、小さいながらも小屋が建っていたことはアケミたちにとって幸運と言わざるを得なかった。もちろん、その場所にたどり着いたことも。
周囲から隠れるようにしてあるこの露地は周りからは見えず、また、周囲にある山々によってたどり着くのは非常に困難な場所だった。地上からではこんなところに人がいるとは思えない。
それはケモノにとっても同じことで、ケモノたちから隠れることに関しては非常に安全な場所と言える。空を飛ぶケモノもいたが、それはまた別のお話。
ケモノは全部で七体。それが世界中で殺戮を繰り返している。どんなに強大で不滅のケモノたちもたった七体では殺戮にムラが出る。特に日本のような小さな島国は中国から渡ってきた一体のケモノによって壊滅させられたが、それ以降はあまりケモノの気配はなかった。同様に世界中の小さな島は比較的安全な場所なのかもしれない。
また、この土地は森に近く春になれば山菜が採れ、夏や秋になれば木の実などが実を結ぶ。冬はあまり食料はないが野生の動物もいくらか生息していて、とりあえずは保存しておいた食料とそれで食いつなぐことができた。
近くにある池の水も綺麗で飲み水に困ることはなく、池に泳ぐ魚も取って食べることができる。
小屋にはある程度の必需品が揃っており、生きていくには最低限、困らない環境だった。
おそらく、かつてここも誰かの別荘か山小屋だったのだろう。
しかしここの所有者はもういない。彼女たちがここで暮らすことを咎める者は誰一人としていなかった。
それでもケモノが闊歩する世の中だ。安全だったとしても安心はできない。
ひとたび山を越えればいつケモノと出くわしてもおかしくないと考えるべきだろう。
ここは外界から隔離された楽園のような場所。その外に出るということは死地へ飛び込んでいくようなもの。
けれどタツミはまだ幼い。おまけにケモノの恐ろしさもまだ知らない。そんな彼に山を越えてはいけないと言っても素直にいうことを聞くかはわからないのだ。
だからいつもどこへともなく遊びに行ってしまうタツミのことをアケミは常に心配していた。
家事を手伝ってくれる方がまだそばにいる分安心はできるのだが、幼い彼にそれを強要するのはかわいそうだし、遊びたい年頃だ。ましてや、やんちゃなあの子が好奇心旺盛に森へ遊びにいくのをアケミに止める気概はなかった。
そんなこんなでアケミは洗濯物を干し、食器をしまうと一人で薪割りに行こうと三度家の外に出る。しかし気分は憂鬱だ。これから一人で薪割りをしなければならないかと思うと気が重くなる。
「っ! ダメダメ! 私はたっくんの親代わりでもあるんだから頑張らなきゃ!」
そう言ってアケミは自分を鼓舞し、自身の頬をパンパンと軽く叩く。よしっ、と憂鬱な気持ちを追い払いアケミは薪を割りに行こうとする。家を出て二、三歩、有名な童謡のごとくまさかり担いで歩き出したアケミの前に突然タツミが現れた。
「あ、姉ちゃん!」
いつものように元気ではしゃいでいる様子。なんだか嬉しそうにアケミの前に駆けてきたタツミの服は遊んでいたのか土やら小枝やらが付いている。まったく、洗濯をしたそばからこれだ。
「たっくん。ちょうどよかった。今から薪割りをするからちょっと手伝って――」
「姉ちゃん、姉ちゃん! いいもの見せてあげる! やっと完成したんだっ! ついてきて!」
アケミが言い終わるよりも先にタツミは捲し立てるようにアケミの手を引く。
「えっ、ちょ、待って。今から――」
「はやく、はやく!」
アケミはわずかに抵抗してみるがタツミは構わずグイグイと彼女の手を引いてどこかへ連れて行こうとする。アケミの言葉など聞く耳を持たない。
こうなるともうどうしようもないことを彼女は知っている。結局、アケミが折れることにした。担いでいたまさかりをその場におろす。
「わ、わかったから。そんなに引っ張らないでよ」
アケミは引かれるがままにタツミの後をついて歩いていく。
やんちゃでわがまま。その上、遊んでばかりで手伝いなんてしやしない。ちょっと甘やかしすぎたかな、とこの時ばかりは彼女も後悔した。
それからしばらく歩いた。景色はすっかり森の中に変わり、紅葉した枯れ葉がチラホラと舞っている。
「ねえ、たっくん。まだ着かないの?」
「もうすぐだよ! ほら、すぐそこ!」
タツミは歩きながら前の方を指差す。彼の指差す先にアケミが目を向けた時、そこに大きな木が見えた。他の木々よりもひときわでかい大木。その木のすぐ根元近くに大きなウロが空いており、そこを、おそらく隠すかのように木の枝や枯れ葉で覆っている。
「じゃーん! ここがボクたちの隠れ家だよ! 姉ちゃんを驚かせようと思って内緒で作ってたんだっ」
タツミは自慢げに『隠れ家』をアケミに披露する。
しかしどう見ても目立つ。ウロを覆っている枝葉は不自然だし、何やら木の幹にも枝や葉で何かを作ってある。とても隠れ家とは言い難いものだ。
けれどタツミが一生懸命作ったのだろう。幼い子供が一人で作ったにしては上出来である。そこは褒めてやらなくては。
「へ、へえ、すごいわね。これ、たっくん一人で作ったの?」
他に誰がいる。
「うん!」
「へー、よくできてるわ。でもなんで隠れ家なんて作ったの? お家ならあそこでいいじゃない」
至極当然のことを言うアケミ。住んでいる家があるのにわざわざ家を作る必要があるのだろうか。
女の子にはわからないのだろう。秘密基地を作るのは男の子の性である。
「そうだけど……でも、ここはもしもの時に隠れるためのものなんだ。ここなら見つからないし、色々な機能がついてるんだよ!」
全然隠せてないし。というか見つからないという自信はどこから来ているのだろう。そんなことを思い浮かべながらアケミは苦笑いする。
「もしもの時……?」
「うん、もしケモノがうちに来てもここに隠れられるように作ったんだ。ここなら絶対安全だよ!」
タツミは自信満々にそう言う。それを聞いたアケミは一瞬キョトンとする。タツミの奇天烈な発言に驚きを隠せない様子だった。
だがすぐにアケミはくすっと笑って微笑む。正直こんな隠れ家ではケモノから隠れ果せることはできないだろう。むしろここにいるよと言っているようなものだ。
けれど彼女の笑いはタツミの作った『隠れ家』が滑稽だと思ったものではない。
ケモノは残虐で、情もなく、無秩序で、恐ろしい。そんなケモノを知らない子供がケモノから隠れるための隠れ家を作った。それはあまりにも稚拙で幼稚なもの。
だけど、それがいい。今、目の前に自信満々でいる男の子は本気でこの全然隠れていない隠れ家でケモノから逃れられると信じてる。
それでいいんじゃないか、とアケミは思う。
この不恰好な建造物を見るとケモノとはその程度のものなんだと、そう思えてくる。
この程度の隠れ家でも見つからない。ケモノはそんな幼稚なものなんだと思うたび、心の中に深く刺さったケモノへの恐怖が抜けていく。ケモノなんか怖くない。そう思えてくる。
だからアケミは笑ったのだ。今までずっと拭えなかった恐怖が和らいで、初めてちょっと安心して。
「ふふっ。そうだね。ここなら絶対安全だね」
「うん! あ、そうだ! 姉ちゃんに中も見せてあげなきゃだね」
タツミはそう言って隠れ家の入り口の前に立つ。アケミもそれに続いて入り口の前まで移動する。
「姉ちゃん先に入ってよ」
タツミがアケミを先に入るように促す。
「え? うん……」
それに従い、アケミが入り口に向けて一歩踏み出した時だった。
――キィィィ……
突然頭上から聞こえた金属音にアケミは気づく。しかし上を見上げる時間はなかった。
「ッ! 冷たっ!」
彼女が見上げるより早く、大量の水がアケミめがけて降り注いだのだ。アケミは一瞬にしてずぶ濡れになってしまう。
「わーい、引っ掛かったー。対ケモノ用秘密兵器! 名付けて『撃退用水バケツ』!!」
タツミが嬉しそうに目をキラリと光らせながら決めポーズをとる。そんなタツミをアケミは見ようとはせず、ただ無言で、無表情で水が降ってきた頭上を見上げる。
「へー『撃退用水バケツ』かー。そっかー。道理で最近バケツがないと思ったー」
その声に覇気はない。そうだった。この子はイタズラ好きだった。
アケミは静かに下を向く。体がプルプル震えだす。どうやら寒いようではないらしい。
「ね、姉ちゃん……?」
いつもと違う姉の様子にタツミはアケミの顔を覗き込む。しかし俯いているためか前髪に隠れて彼女の表情は窺い知れない。
タツミが一歩、アケミの方に近寄った時だった。
「うがああ! よくもやったなぁ!」
アケミは勢いよく顔をあげると腕を振り上げて猫のように爪を立てて、タツミに襲いかかる。大声をあげて飛びかかるアケミにタツミは驚いてとっさに避ける。しかし彼女の猛攻はそれで終わらなかった。
「おりゃー! 必殺、雨ふらしー!」
離れたタツミに向けてアケミは自身の腕を振り回す。その手は届きそうもない。しかし彼女の濡れた腕から水滴が雨のごとくタツミに飛んでいく。
「わっ! 冷たい! 姉ちゃんやめてー」
タツミは辛抱たまらず叫びながら逃げ惑う。けれどそれを彼女が逃すはずもない。アケミはタツミを追いかけ回し、彼の背中に猛追撃を食らわせる。
「まてまてぇー!」
タツミを追いかけるアケミの表情はどういうわけか楽しげに明るい。まるで年相応の女の子のようだ。
……いや、これこそが本当の彼女なのだろう。中学生ほどの女の子のように楽しげに笑い、はしゃいで遊ぶ。それが彼女の本心。先のタツミのいたずらでその本心がむき出しになっただけに過ぎない。
ただ彼女は強くあろうと、弟を守るためにしっかりものであろうとしたために大人になろうとしてしまっていたのだ。だからアケミはどんなに辛くても、どんなに大変でも、どれほど子供らしく遊びたくてもずっと我慢してきた。ずっと変わろうとしてきていた。
けれど人はそう簡単には変わらない。彼女はただ、年相応の幼き少女だったのだ。
口紅でこっそりおめかししてみたり、池で水遊びをしたいと思ったり。だから今、彼女は心から楽しそうに笑っている。
「まてー!」
「ひぃぃぃ」
アケミは一心不乱にタツミを追いかける。タツミはタツミで引きつった顔でひたすら逃げ続ける。しかし、どことなく彼の表情に楽しげなものが垣間見える。
結局はこれはお遊びなのだ。お互いに本気で追いかけ、逃げている訳ではないとわかっている。
やがてタツミはサッと藪の中に隠れる。追いかけっこの次はかくれんぼのようだ。それはアケミにもすぐわかり、同じく藪の中に入る。
「どこだー」
アケミの声が森に響くたび、カサカサッと藪が揺れる。
ザッと藪をかき分けタツミが顔をのぞかせる。そして辺りにアケミがいないことを確認すると再びザッと藪の中に引っ込む。
次に藪の中から顔を出したのはアケミ。同じく周囲にタツミがいないかどうか確認してから藪の中に戻る。
カサカサ、カサカサ、藪の中を移動する音がかすかに聞こえ、何度となしに藪から交互に顔を出す行為を続ける。
やがてガサガサッと音を立てて二人同時に藪から顔をのぞかせる。周囲を確認する二人の目が合う。
「「ぷっ、あはははは!」」
何がおかしかったのだろうか。二人同時に短く吹くとそろってお互いの顔を見て笑い合う。
しばらく笑い声が続く。先に笑いが収まったのはアケミの方だった。
「観念しろー!」
アケミはまだ笑っているタツミに飛びかかる。笑っていて一瞬判断が遅れたタツミだったがそこはやっぱり男の子。サッと避けるとすんでのところでアケミの攻撃を躱す。
「やーい、つかまえられるもんならつかまえてみろー!」
アケミの攻撃を躱したタツミは調子付いてあっかんべーしながら彼女を挑発する。もちろん、それに乗るほかない。
「言ったわねー! 待ちなさーいっ!」
また追いかけっこに逆戻り。二人は遊ぶのに夢中で、いつのまにか傾きかけてきた太陽に気づかなかった。
しばらく追いかけっこを続けていた頃。いつのまにかアケミはタツミを見失っていた。自分では必至に追いかけていたつもりだったのだがどうやらタツミはどこかに隠れたらしい。
アケミは空を見上げる。いけない。そろそろ帰らないと日が暮れてしまう。
太陽がだいぶ傾いてきたことに気づいたアケミはいつもの彼女の様子に戻る。急いで帰らなくては。けれどまだタツミがいない。もしもどこかに隠れてて、アケミが探しにくるのを待っているのだとしたら。
アケミは焦る。もしも隠れている場所が夜になると真っ暗になる場所だったとしたら。そうなればナイトメアに襲われるかもしれない。
アケミは急いで通った場所をたどっていく。自分がふざけたばっかりに。夢中になって油断した。そんな後悔がふつふつとわく。
(たっくん……無事でいて……!)
一方その頃。
タツミは目元に涙を溜めて泣き出しそうになっていた。
必死に逃げてる最中に足を滑らして坂から転げ落ちてしまっていたのだ。身体中には擦り傷が付き、左脚の膝は擦り切れて血が出ている。
「姉ちゃん……」
タツミは姉のことを呼ぶ。さっきまで後ろで自分を追いかけていたはずなのに。なぜすぐに助けにきてくれないのだろう。
痛い……寂しい……怖い……
気づけば日も暮れ始め、木々に覆われた森の中はうっすらと暗く感じる。この時、初めてタツミは一人でいる寂しさを感じた。
いつもは一人で森の中で遊んでいるのに。薄暗い森の中で姉が来てくれない。それだけでタツミはここから今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。
「姉、ちゃあああん……わああああん」
ついには目元に溜まっていた涙も溢れ、タツミは泣き出してしまう。声を張り上げ、力一杯泣き叫ぶ。
「やだよぉ……怖いよぉ……姉ちゃああん!」
いつも遊びなれたこの森も、今日はタツミを睨んでいる。
「たっくん!」
力強く彼の名を呼ぶ声が聞こえる。聞きなれた声。
タツミは声のする方へ振り向く。そこには息を切らしながらタツミを安心したように見つめるアケミの姿があった。
「姉ちゃああああん!」
タツミは思わずアケミに飛びつく。アケミもタツミを受け止めるとやさしく抱きしめながら頭をなでてやる。
「ごわがったよお……」
アケミの胸の中で泣きじゃくりながらずるずるの鼻声なタツミ。
「よしよし。そうだね、怖かったね。もう姉ちゃんがいるから大丈夫だよ」
アケミはやさしくタツミをなだめる。タツミが安心できるように。もう怖くないってわかるように。
アケミはタツミの擦り切れた膝を見る。タツミがこれほど泣くことなんて滅多にない。それだけ痛くて怖かったのだろう。
アケミは抱きしめる腕をほどき、タツミの顔を見る。
泣きじゃくってぐちゃぐちゃになった顔。恐怖と安堵で止まらない涙と鼻水。そんな顔を見るたびに愛おしくてたまらなくなる。
(この子のそばを離れてはいけない。この子のそばにいられるのはもう私だけなんだ)
アケミはタツミの頬を伝う涙を手で拭う。
「うっぐ……ねえぢゃん……」
「さっ、もう泣き止んで。帰ろ、お家に」
アケミはタツミを離すと背を向けてしゃがむ。
「ほら。おんぶしてってあげるから」
「うん……」
タツミはずるっと鼻水を一つすするとアケミの背中に寄りかかる。アケミは彼の脚を掴むと家に帰るべく立ち上がる。
(うっ……意外と重い……)
気安くおんぶを許したが結構重い。正直、今後はあまりおんぶはしないようにしよう。タツミを背負うその裏でアケミは静かにそう決心する。
「姉ぢゃん……」
タツミのガラガラ声が背中から聞こえてくる。
「ん? なに?」
「……冷たい」
その一言でアケミは思い出す。自身が今、びしょ濡れだということに。夢中で遊んで、夢中で探して、夢中で慰めてたから気づかなかった。
「なっ!? それぐらい我慢しなさい! ていうかアンタが最初に濡らしたんでしょ!?」
アケミはとっさに顔を赤くして猛反論。こっちは気を使って重たいタツミをおんぶまでしてやってるのに。
そんなことを考えてふてくされながらもアケミはこの生意気な弟を背負って歩き出す。帰ったら姉として、いや保護者としてしっかり咎めておかなくては。
幾許かの時が過ぎた。まだ日は暮れていない。
アケミは怪我をしたタツミを背負って家に向かって歩いている。
先程まで泣いていたタツミだったがどうやら泣き止んだのか、時折鼻をすする音だけが彼女の背中から聞こえてくる。
無言で歩く二人。ただ枯れ葉の散る音だけがかすかに聞こえる。
静かな二人だけの世界。
「…………ズズッ。姉ちゃん」
沈黙の後、タツミが目の前の背中に問いかける。
「んー?」
夕暮れ時のさなか、アケミは今晩の夕食はどうしようかと考えながら生半可な返事を返す。
「……ケモノって、いついなくなるのかな」
唐突にタツミはアケミの背の上でつぶやくように疑問を口にする。
「んーどうなんだろうね」
何の気なしにアケミは答える。その答えを知るものは誰一人としていない。
「……どうしたらいなくなるのかな」
「んーやっつけるか、地球の外に追い出さなきゃかな」
至極当然な方法である。しかし奴らは不滅。その答えは限りなく不可である。
「…………」
わずかな沈黙が続く。タツミの口が開く。
「どうしてケモノって、いるのかな」
誰もが疑問し、疑う事実。その答えをアケミは持ち合わせていなかった。ただ、一つの物語を思い出す。
「んー難しい質問するのね。うーん……そうだ。多分ね、ケモノっていうのは匣から飛び出した災いなんじゃないかな」
「災い?」
タツミの不思議そうな声にアケミは小さく頷くと背負う彼のことは見ようとせず、ただ前を見据えて語り出す。
「そう。パンドラの匣から出てきた災い。神話にね、こんなお話があるの。神々から火を盗んで人間に与えてしまった神様がいたの。そのことに怒った主神は人間に災いをもたらすためにパンドラという名の美しい女性を作った。そしてその女性に一つの匣を渡してこう言った。決して開けてはならないと。でもね、その女の人は好奇心に負けて匣を開けてしまうの。匣の中にあったのはさまざまな災い。それが匣を開けたことによって世界に広まってしまった。そんなお話」
かつて母が読み聞かせてくれた物語。異邦に伝わる古き神話。
「ひどい話だね」
「ええ、そうね。だからきっとケモノたちは怒った神様が人間に与えた罰なんだと思う。パンドラが人間。災いがケモノ。きっと人間が開けてはならない匣を開けてしまったんだと思うわ」
「じゃあボクたちが悪いの?」
タツミの疑念にアケミは苦笑いする。事実、そうなのかもしれない。
「んーそうかもしれないわね。私たち人類全体が悪いことをしたのかもしれない。でもね、たっくんは何も悪いことしてないんだよ。私だって悪いことなんて何にもしてない……と思う」
けれどこの子が何をしたというのだろうか。この子はやんちゃで、イタズラ好きで、でも神様に怒られるようなことなんて何一つしてない。
ただこの子は愛されるために生まれてきただけなんだ。ケモノの恐ろしさも知らず、ただ今を精一杯楽しく生きている。
そんな彼がケモノから隠れ、ただ死を待つだけの人生であっていいのか。否、そんなことあってはならない。
タツミが罰せられる理由はない。
「じゃあ、どうして神様はそんなひどいことするの?」
「きっとね、人類に気づいて欲しいんだと思う。自分たちが何を間違えたのか。なんの匣を開けてしまったのか。きっとそれが分かった時、もう一度人類はその匣を開けるんだと思う」
「どうしてもう一度開けるの? また災いが出てくるんじゃないの?」
「災いはもう最初に開けた時に全部出ちゃったから大丈夫。ただね、パンドラの匣のお話にはもうちょっと続きがあるのよ」
「続き?」
「匣を開けてしまったパンドラは災いたちが匣から出ていくとその匣を閉めてしまうの。でもその匣の中にはまだエルピスが残っていた」
「エルピス?」
タツミは聞き慣れない言葉を繰り返す。
アケミは思い出す。かつて自分も母に同じことを聞いたのだと。
アケミは微笑みながら言葉を返す。あの時、母が自分に言ったように。彼女がいつもやさしく説く、子供に聞かせる語り口のように。
「エルピス。つまり“希望”よ。希望だけが匣の中に取り残されてしまった。きっと神様はそのエルピスを見つけて欲しいんだと思う。罰せられた人類にも希望はあるんだって。災いの中にも必ずエルピスがあるんだって。そしてそれはきっと、災いと同じ匣に入ってる。誰かが開けて匣から出してくれるのを待っている。私はそう思うわ」
「希望……」
タツミが小さく呟く。それっきりアケミの背に顔を埋め、語ろうとはしなかった。
「姉ちゃん」
最初に沈黙を破ったのはタツミだった。彼はアケミの背中に顔を埋めたまま隠れるように姉の名を呼ぶ。
「ん?」
「…………」
タツミは黙ったまま、何も言おうとしない。出かかった言葉を躊躇するように、言おうと勇気を奮い立たせるように彼のアケミの服を握る拳に力が入る。
「ケモノがいなくなったら、山の向こう、行けるかな……」
その時、彼が何を思ってそんなことを聞いたのか、アケミにはわからなかった。ただ、タツミの言葉にアケミは強く頷く。
「うん! きっと何者にも邪魔されない自由な世界、“希望”が待ってるわ。いつか、観に行きたいわね」
アケミは振り返り、タツミに向けて満面の笑みを浮かべる。
そんな彼女の笑顔を見てタツミの表情も明るくなっていくのがわかる。
「うん……うん! 二人で一緒に観に行こう! 姉ちゃんと一緒に世界を見る!」
タツミは嬉しそうに笑う。さっきまで泣いていた面影はなく、すっかりいつものタツミの様子だ。
タツミは嬉しそうに世界を見る。ちょうど木々の枝葉がなく、ぽっかり穴があいたように空がわずかに見える。何故だろう。いつも見慣れた空なのに今日はなんだか広く感じる。それはきっと、この空が世界につながっているからだろう。
そして今、彼はその世界を見てみたいと思っている。自身を背負う、姉と一緒に。
タツミは空を見上げる。やがて歩を進めるアケミによって木々の切れ間から覗く空は見えなくなってしまった。
しかしタツミは代わりに別のものを見つける。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
いつもと同じように元気いっぱいにアケミを呼ぶタツミ。
「ん? どうしたの?」
「あれなに!? 食べられるの!?」
タツミは発見したものに向けて指をさす。
アケミもそちらを見る。
視線の向こう、一本の木に鮮やかな赤い色の小さな実が沢山付いている。
綺麗で美味しそうな実。それを見た瞬間、アケミの表情が悪い方の笑みに変わる。
しかし、ニヤリと笑う彼女の表情を背におぶさるタツミが見えるはずもない。
すぐにアケミは笑みを抑え、自然に振る舞う。
「あーあれね。食べてみれば?」
そう言ってアケミは実のついた木に近寄っていく。
木になっている実は高いところにもあったが、アケミの背に乗ったタツミでも届くくらいの高さにもいくつかなっている。
そのそばでアケミは立ち止まる。タツミはなんの疑いもなしに目を輝かせながらその実を一つ採り、口の中に放り入れる。
その瞬間、タツミの表情が年老いた老人の顔のようになっていく。
「うへえ、にがい……」
ベエっと舌を出してタツミは顔をしかめる。口の中に広がる渋みと苦味。たとえ大人が食べたとしてもこれはおそらく“不味い”だろう。
「あははっ! 引っかかったわね! さっきのお返しよ」
アケミは見事に引っかかったタツミのしかめっ面を見て嬉しそうに笑う。
ついイタズラ心でタツミに仕返ししてやったのだ。結局は姉弟ということなのだろう。同じ血は争えない。
彼女もまた、本心ではやんちゃ小僧のいたずら好きということだ。
「それはね、ナナカマドっていう木の実よ。来年の春になるまで苦くてとても食べられないの」
ひとしきり笑ったアケミはタツミの食べた赤い実の正体を告げる。ちなみにこの苦味は決して体にいいものではないので、春になって苦味が抜けるまで良い子のみんなは食べないように。
「うへえ、ひどいよ姉ちゃん……」
「ごめん、ごめん。でも赤い実かぁ。リンゴだったら美味しいんだけどなぁ」
アケミは目を閉じ、リンゴの味を思い出そうとする。もうずっとリンゴなんて食べてない。タツミが生まれた頃だから何年くらい前だろう。そんな物思いにふける。
「リンゴってなに?」
タツミが背中から頭に『?』を浮かべながら聞いてくる。
「そっか、たっくんは食べたことないんだよね。リンゴってのはね、時に甘く、時に酸っぱく、それでいて真っ赤な皮のほろ苦さのある果物なのよ。あるリンゴは蜜のように甘く、またあるリンゴはほどよく酸っぱく――」
リンゴのことについて聞かれたアケミは饒舌に語り出す。
リンゴはアケミの好物だ。リンゴへの愛はその果肉と同じくカリッと固く、リンゴについて語り出したらその果肉に蓄えられた果汁の水分のごとくあふれんばかりに尽きることはない。
家に着くまでの間、タツミは逃れられない彼女の背中で延々とリンゴについての語りを聞かされていた。
二人がいるのは森の中に空いた楽園。ここは小さな匣の中。じゃあ一体、希望はどこにあるのだろう。