第2話 -霞む未来-
ここに一人の幼き少女がいる。名前は江藤アケミ。歳は六つ。小学校にはまだ通っていなかった。
父親は軍人。元自衛官、現在の階級は将校。第三次世界大戦のさなか、各地で指揮をとっている。
厳格者ではあったが一人娘のアケミには優しく、叱られるときは怖かったがそれでもアケミは父親のことを好いていた。
ただ、父親は長く家を空けることが多かったため、父のいないあいだは寂しく思うこともアケミにはよくあった。
父が将校ということもあって、アケミの家庭は裕福な方だった。また、日本という国に生まれたこと自体、幸運なことだったのかもしれない。
それでも今は戦時中。家に居ることが多くなってしまうのは仕方のないことだった。
殺伐とする世界の中、アケミは一人床でうつ伏せに寝転がりながら一冊の本のページをぱらりとめくる。大きく、分厚い表紙の本を前にアケミは脚をぱたぱたと揺らしながら眺めていた。そばでは誰かがつけっぱなしにしたラジオの音が微かなノイズに混じって聞こえてくる。
『ザッ――今日の天気はハレ……のち、クモリでしょう――ではニュースです……先日、全世界にヒライした謎の隕石群は――現在は各国が調査隊をハケンして――』
「こら。そんなところに寝転がって本を読んでいてはいけないよ」
静かだった部屋の中で聞こえてきた優しく注意する声に、アケミはパッと振り向く。彼女の見上げるそこには優しそうに笑う父の姿があった。手には何やら小さなボウルのようなものが乗っている。
「パパ! ごめんなさい。この本おっきいし、重いから読みづらくて……」
アケミは床に座りなおしてしゅんとなる。
いけないとわかってはいたのだが、どうにも重いこの本を運ぶ気にはならなかったのだった。
「確かにそうだね。でも本はきちんと座って読まなくては。そうしないと、一緒にこれを食べられないからね」
しゅんとなったアケミの頭を父は優しく撫でてやると手に持っていた器の中身を彼女に見せる。途端、アケミの表情がぱあっと明るくなった。
「リンゴ! わーい! パパ大好き!!」
紅に染まる皮が色立つ、食べやすい大きさに切られたリンゴを見てアケミは元気よく立ち上がる。先程までの落ち込みようは何処へやら。
リンゴはアケミの好物だった。時に甘く、時に酸っぱく、それでいて皮のほろ苦さのあるリンゴ。あるリンゴは蜜のように甘く、またあるリンゴはほどよく酸味を抱く。果肉だけを食べるのもいいが、彼女はほんのりと感じる苦みのある皮も一緒に食べるのを好んでいた。
アケミは父に駆け寄り抱きつく。そしてすぐまた元いた場所に戻り、先程まで読んでいた大きな本を閉じるとせっせとそれをテーブルの上へ運び始めた。
閉じて露わになった大きく分厚い本の表紙。それは美しい模様で飾られており、大きく描かれた複雑な文字は何を意味しているかはわからない。アケミもまた、その本に何が記されているのかはあまり理解していなかった。
この本は本来、アケミの母の物だった。
彼女の母親はかつて学生時代に民俗学について学んでいた。また、その中でも特に神話に関しては強い興味を持っていた。そのため、今でも各地の神話や伝承などが記された本を多く持っていた。
そんな母親に育てられたからだろう。寝る前の子守唄はそれらの本に描かれた英雄譚を聞き、家を出られなくて退屈な時も母の膝の上で神々の宴に胸を踊らせることができた。
そんな風に育てられれば、自ずとアケミ自身も神話や伝承に興味を持つ。今では自分から本を母の本棚から引き抜き、それを読むようになっていた。
と言っても彼女はまだ六歳。ひらがなならともかく日本語自体も大して読めないような年頃。外国の文字など読めるはずもなく、もっぱら挿し絵などを見てはどんな物語なのだろうかと空想しているのだった。
もちろん、後から母にどんな話なのかは聞くのだが。
大きく重い本を一生懸命テーブルの上に乗せると、アケミは得意げに父の方を見てにっこり笑う。そんなアケミの頭を父親は再び優しく撫でる。
「よしよし、よく頑張った。アケミは偉いね。さあ、これをあげよう。パパが切ったからあまり上手じゃないけどね」
「やったー! いただきまーす」
本の横に置かれたリンゴにアケミは飛びつくように食べ始める。
「んんー! パパ、おいしい!」
嬉しそうに笑う娘を見て父親は柔らかく笑う。
「そうかい。それは良かった。本を汚しちゃいけないよ」
けれど、そんな言葉をかける彼の瞳には一抹の不安が見て取れた。
そんな時。
「旦那さん、そろそろですよ」
ひょっこりと部屋に顔をのぞかせてきた女性が父親を呼ぶ。父もまた、その声を待っていたと言わんばかりにバッと立ち上がる。
そしてそのまま女性のいる部屋の方へと入っていった。
そんな父などつゆ知らず、アケミはリンゴをおいしそうに食べ続ける。わざわざ運んだ本のこともすっかり忘れてしまっている。
「アケミちゃんもいらっしゃい」
そんなアケミを女性が呼ぶ。リンゴを食べ終えたアケミもまた、ぴょんとイスから飛び降りると父と同じく隣の部屋へと入っていった。
二人が入っていった部屋。そこにはヘッドの上で上半身を起こしている母ともう二人、先程アケミたちを呼びにきた女性ともう一人の女性が母親のそばにいた。
母親は苦しげな表情で、時折悶える声を漏らしている。
「それで、妻の様子はどうなんですか?」
父親が心配そうに女性に問いかける。
「ええ、もうすぐですよ」
女性はそう答えるが、父親は緊張が解けない様子だった。
「ねえ、なんでママ、あんなに苦しそうなの?」
父の心配そうな様子と苦しげな母を見てアケミもなんだか不安になってくる。
母に何かあったのではないだろうか。一体何が起きているのだろう。
現状を見ても、幼い彼女には何が起こっているのかわからなかった。不安な気持ちはどんどんと膨れ上がり、自然と涙がこみ上げてくる。
「うっ……だ、大丈夫よ、アケミ。ママはね、今からアケミの弟を産むのよ……覚えてる? このあいだ言ったタツミ。たっくんよ。これから我が家に迎え入れるの。ママ、頑張るからね……だからアケミも応援しててね……うう……」
母はアケミに笑いかける。表情はまだ辛く、痛みに耐えているのは明白だったが、母親は力強く彼女に笑いかける。不安なアケミを元気づけるように。
「ママ……うん! ママ、頑張って!」
アケミは目元に溜まった涙を拭うと母を応援する。彼女の泣き止んだ姿を見て再び苦しげな表情に戻った母だったが、どことなく先程までよりも苦しげな表情が和らいだかのように見えた。
そんな彼女を傍らで見ていた父親は驚いた表情で立っていた。
彼の見つめる先は妻であり、アケミの母親でもある人物。彼は彼女がこれほどまで強い人間だとは思っても見なかった。
彼は多くの戦場に赴き、多くの勇敢な人々を見てきた。それと等しく同じだけの屍も。
だが、あれほどまでに辛そうなのに彼女はアケミに笑ってみせた。およそ自分では到底理解できないであろう痛みを前に彼女は涙する娘を泣き止ませてみせた。なんという勇気なのだろう。
先程まで初めて出産に立ち会うからと緊張していた自分より、彼女は何倍も肝が座っている。
それほどまでに母親は強いのかと、父親は強く感じていた。
ならば自分もうろたえてはいられまい。一国の軍人として、いいや、ひとりの父親として威風堂堂といなければ。
父親がそう決意した時、部屋の中に力強い声が響き渡った。
それはまるで叫び声。今ここに、自身が存在していると証明しようとするかのような雄叫び。
それと同時に、部屋の中に明るい声がこだまする。
喜びの声。
祝いの声。
それらにかき消されるように隣の部屋では忘れられたラジオの音がかすかに聞こえてきた。
『ザッ――ただいま入ったニュースです……件の飛来物ですが、調査隊は全滅……各国によるとインセキの中から巨大な地球外生命体が……各国を襲っているとのこと……ザザッ――』