運命の歯車
「お前はどうする。」
「どうするとは、どういう意味さ。」
「だから、これから何処で生活するかってことだ。ようは美沙子のところへ行くか、ここにいるかだな。おれと一緒というのは勧められん。」
「いまさら、おふくろのところに行くのはないだろう。俺はここにいるよ。」
「いいのか、おれは父親として失格だぞ。」
「失格ではないだろう。俺は生きているんだからな。失格なら俺は死んでいるだろう。」
「生きているって、それは親として最低限の役割を果たしているってだけだろう。」
「それでいいじゃねえか。失格じゃねえだろ。逆に俺は子供としてどうなんだよ。良く言って可じゃねえか。下手すりゃ不可だぜ。所詮、似たもの親子だろう。」
親父は苦笑していた。俺も苦笑していた。久しぶりの親子の会話だったが、婆さんの葬儀の場だというのが、俺たちの関係を如実に表していた。
離婚しておふくろは娘達を連れていった。ようは俺の姉貴と妹だ。俺は親父のもとに残された。中学2年の夏のことだ。詳しい事情は知らねえ。知ろうともしなかった。おふくろが親父に文句を言っていたのはよく見掛けたが関わりにならないようにしていた。俺は、おふくろに話かけられた気もするが無視を貫き通した。気が付いたら俺だけが家に居た。
親父は技術者で一年中あちこちを飛び回っている。腕は良いらしい。一つプロジェクトが完了したら、すぐに別の現場へ移動している。家に戻ってくるのは、仕事の合間に時間が出来たときだけだ。それも短期間。下手すりゃ数時間ということもある。実質上、いないも同然だ。おふくろにしたら夫婦とは言えなかったんだろうな。会話もねえしな。そもそも居ないんだし会話も出来ねえ。
おふくろが居なくなってから、俺の面倒は婆さん、親父のおふくろ、が看てくれていた。婆さんは、自分のことは出来る限り自分でするように俺に言った。洗濯や掃除、飯の用意なんかも俺一人でも死なないように鍛えてくれた。生活していく上で必要な手続きもいろいろと教えてくれた。だが、それも終わりになった。婆さんが癌であっけなく死んだ。体調が悪いといって病院に行ってから一週間だ。もっと前から体の調子は悪かったのかも知れないが、今更言っても仕方ねえ。ただそうなら自分が死ぬ前に孫を独り立ちさしてくれたんかもしれねえ。俺は感謝するべきだろうな。
婆さんは死ぬときまで俺のことを気に掛けてくれていた。強く生きるんだよ。親父は当てにならない。息子の育て方を間違えたわ。ごめんね。良いお嫁さんを貰ったのに別れちゃってね。別れたっていうか、捨てられたが正しいのかしらね。美沙子さんが聡史ちゃんだけを置いていったのは、どういう理由があったのかしらね。やっぱり男の子だからかしらね。女の子は置いていったら、どうなるか心配だったんだろうね。男の子なら、なんとかなると思ったのかもね。お前のお母さんは。
事実は俺が話を聞かなかったからだろう。俺は親父と同類と思われたんだろうな。親父も話を聞かない。おふくろが何を言っても返事もせず消えていた。考えたらよく結婚したもんだよな。それとも昔は違ったんかもしれねえな。まあどうでもいいや。俺もおふくろが話かけてきていたのを聞き流して消えていたからな。俺がグレていた時代のことだし、どうしようもねえ。いまもグレているといってもおかしくはねえんだろうけどな。
中学に入ってから少しして俺は夜遊びを覚えた。こんな楽しいことがあるのかと、徹夜で遊んだり仲間の家を泊まり歩いたりもした。おふくろは俺を叱ったが、俺は反発するだけで変化もなかった。そのうちに俺が何をしていても何も言われなくなっていた。俺は透明人間になっていた。それでも離婚するまえにはと、最後の話をしようとしてくれたのかも知れないが、俺が拒否したからどうにもならんかったんだろう。
婆さんが死んで葬式をしなくちゃならなくなった。家には俺以外いねえ。俺が喪主をしなくちゃならねえのか。普通は親父だろうが。婆さんには、姉さん、俺からみたら大伯母さんが生きている。大伯母さんに連絡をした。婆さんが死んでからだ。急だったから呼びよせる時間もなかった。そもそも入院したときには婆さんが連絡しないでいいといったから連絡してなかった。だもんで、「妹が死んだ。」と突然連絡を受けた大伯母さんが卒倒したのもわからないでもねえ。
大伯母さんの一人娘、俺から見たら何になるんか判らねえが、伯母さんでいいだろう。電話を代わった伯母さんに事情を聴かれて、掻い摘んで説明した。伯母さん達は遠くだ。親父も遠くだ。親父に連絡したがいますぐ帰るのは無理だという話だった。病院に迷惑を掛けるわけにもいかねえ。俺は病院の人に聞いた葬儀屋に連絡して婆さんを葬儀会場に運んで貰った。葬儀屋に誰が喪主を務めるかと聞かれて、面倒だったんで俺がすると答えた。葬儀屋は高校一年生の俺が喪主になると知ってびっくりしていた。親父には事後承諾を求めたが、返ってきた返事は「助かる。」の一言だった。
身内は少ない。大伯母さんの家の人間と、俺の家の人間だけだ。親父は一人息子だし、婆さんは大伯母さん以外の兄弟はいねえ。俺は姉妹がいるが連絡先は知らねえ。親父に聞いたら親父も知らねえと言った。まあ仕方ねえだろうということで連絡は諦めた。身内の参加人数は10人に満たねえ。だが近所の人が来てくれていた。婆さんは近所付き合いは悪くなかったからな。葬式は仏式だった。坊さんが読経してくれて、婆さん極楽浄土に行けるんじゃないかな。特別悪いことはしてなかっただろうしな。繰り込み初七日法要を終えてから、火葬場に行き、時間潰しをしているときに親父としたのが冒頭の会話だ。
「おれはこれからも現場一筋だから、家にはいねえ。それでもいいのか。お前は一人になるぜ。」
「構わねえ。婆さんが鍛えてくれたから、餓死したりはしねえよ。」
「そうか。」
「それより、高校やめていいか。」
「構わんが、何をするんだ。」
「決めてねえ。だが働こうと思う。俺には学校は向いてねえと思う。」
「学校っていうより、勉強がってことじゃねえのか。」
「まあそうだな。机に向かうより体を使って覚えるほうが楽だ。」
「好きにしろ。金は必要なだけ言え、無限とは言わんが出してやるから。」
「ありがとうよ。だが、婆さんが俺に小遣いをくれていたから、しばらくは大丈夫だ。バイトも始めたし、そのうち自分でちゃんと稼げるだろうしな。」
「そうか。わかった。あと、また勉強したくなったら言え。おれに出来ることなら手伝ってやるからな。この世は学があったほうが役立つことは多いぜ。」
「そんときは泣きつくから、頼むわな。」
俺と親父の会話を伯母さんが聞いていたが、何も言わなかった。親父は伯母さんからしたら従弟だが、付き合いが深いわけじゃない。喧嘩しているわけじゃないが仲良くしているわけでもない。だいたいが大伯母さんの家は、遠く離れた街にあるから日頃の行き来もない。
時間が来て熱い骨を壺に詰めたら、三々五々分かれた。俺は壺を持って家に、親父は現場に、伯母さん達は自宅へ向かった。祭壇は婆さんが使っていた文机を代わりにした。真ん中に遺骨の入った壺を置いて、周りに遺影と位牌と線香を並べた。二段でもねえし、香炉や燭台なんかはない。ろうそくに火を付けてから、線香を焚いた。そのあとで、ろうそくの火を手で扇いで消す。明日になったら婆さんが好きだった団子でもお供えにしたらいいだろう。
翌日は曇り空だった。夏休みだから学校に行く必要はねえ。終業式の3日前に婆さんは病院に行って、そのまま入院になった。終業式の3日後に死んだ。あっけないもんだ。だがほとんど苦しむことがなかったのは、良かったんじゃねえかな。長く苦しいのは辛いしな。そんなわけで、バイトも休みですることもない俺は、これからどうするか考える時間だけはあった。そうだ忘れんように団子を買ってこよう。わりと世話になったんだ。せめて毎日線香を焚くぐらいのことはせんと、ばちが当たるだろう。
親父には高校やめて働くといったが、本当のところは迷っていた。勉強が詰まらんから逃げているだけかもしれんしな。始めているバイトは居酒屋だ。注文を取って調理場に通して、出来た料理を客のところまで運ぶ。誰にでも出来るが、酔っ払いもあしらわんとダメだ。ただ俺には向いているらしい。酔っ払いの姉ちゃんやおっさんを捌くのも苦にならん。店のオーナーや店長が割とまともな部類にはいる人種だからかもしれん。あまりにもひどいのは叩き出してくれるしな。居酒屋で働いて、調理師免許を取るか。厨房に入り浸って二年後に試験を受けるのもいいかもしれんな。
高校をやめる手続きは面倒だな。ばっくれてしまうか。それは人としてダメか。とりあえず退学届をださねえとだめだな。そのまえに担任を通さんと話が進まんな。親の意思確認は、親父はここにはおらんから担任から電話でもしてもらうしかねえわな。逆か親父に担任に電話してもらうのが筋か。事務室で退学届を売ってねえかなあ。世の中そんなに甘くはねえか。それ以上に、退学して何をするんだ。そこ俺の人生的に大事な部分だよな。働く。まあええわな。何をして働く。
俺は悩みながら学校へ来た。休みだし誰もいねえのかと思ったら結構いるじゃねえか。部活の連中か。それと部活の面倒を見る顧問の先生とかか。仕事は結構あるみたいだな。先生ってのは休みだから休みってわけじゃないらしいな。担任を探して職員室にいったら、ラッキーなことに居たじゃねえか。
「先生、すんません。中森聡史です。」
「おお、中森か。どうしたんだ、夏休みに。」
「ちょっと時間もらえませんか。話したいことがあるんですが。」
「かまわんよ。ちょうど休憩しようと思ってたところだからな。」
どうやら担任は仕事がひと段落したところだったらしい。
「それなら、ここではなんなんで、人がおらんところでお願いしたいんですが。」
人が少ない夏休みとは言え、職員室には他の先生も何人かはいた。触れ回りたいわけでもないんで、担任とサシでけりをつけたいところだ。
「なら近くの茶店でもいくか。」
「いいんですか。」
「夏休みだし、構わんやろ。」
「わかりました。」
担任と俺は、正門から徒歩30秒の喫茶店にやってきた。学校の先生のなかには結構利用している人もいるらしい。主にタバコを吸うためらしいが。学校内敷地は全面禁煙になっているからな。昨今の県の条例で愛煙家は居場所がなくなってきている。担任もその一人らしい。奥のほうのテーブルに向かい合って座った。まわりには客はいない。
「すまんが、吸わしくれ。」
「いいですよ。」
俺は当たり前のことだが吸わないが、親父は吸う。臭いは好きではないが、他人が好きなのを邪魔するほど嫌いなわけじゃない。まともに吹きかけてこなければ問題はない。担任は俺の返事を聞いて、タバコを取出しライターで火を付けた。深く吸い込んで、ゆっくりと吐いてタバコを楽しんでいた。
注文したアイスコーヒーが二つテーブルにならんだ。少し口をつけたところで担任が尋ねてきた。
「で、なんの用事だ。」
「ええ、学校やめたいんですわ。」
担任は予測もしていなかったことを言われたようで、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしていた。
「もう1回言ってくれ。先生の聞き間違いか。」
俺が同じセリフをもう一度言うと、担任は頭のなかで俺の言葉をリフレインしているようだった。そして、ようやく理解できたらしい。
「学校やめたいってのは理由はなんだ?」
「勉強つまらんですわ。向いてないですわ。俺は身体を使って何かをしているほうが性に合っていると思うんですわ。とりあえず飲食店で働いて調理師免許を取ろうと思ってます。」
俺は、ついさっき思いついたばかりの近未来の適当な青写真を、学校をやめたい理由として担任に告げた。
「べつにそれなら高校出てからでも出来るやろ。」
「高校出んでも出来るでしょ。高校いく意味ってなんすかね。」
「まあ学歴やな。高校出てることが要求される仕事は多いからな。あとは高校くらいはという世間的なもんもあるやろ。義務教育やないから強制はせんが、出といたほうがええんちゃうかな。」
「親父はやめても構わんといってます。」
「親父さんは高校は出てるんじゃないのか。」
「大学を出ていますね。」
「それでやめても構わんと言ったのか。」
「ええ、好きにしろと言われました。」
俺は親父に電話を掛けた。めずらしくone callで出た親父に、学校やめる許可を出したことを担任に伝えてくれと頼んでから、担任に電話を渡した。親父の言葉は簡潔だった。
「退学さしたってください。」
「いや、お父さん。そんな簡単に。」
「放校でもいいですわ。」
「でも。」
「忙しいんで切りますわ。すまんですけどお願いします、先生。」
何も得ることのなかった親父との会話で担任は気落ちしているようだった。
「親父さん、退学させてくれとさ。」
担任はなにやら亡羊と俺に向かって言った。夏休みにやっかいごとを持ち込んですまんな、先生。手続きだけしてくれたら俺は消えるからさ。
「はあ、分かった。高校はやめたらええやろ。ただ転校にせえへんか。転校いうても通信制という意味やけどな。」
そこで担任からは、学校には行かんでもええ、自宅で勉強して試験だけ受けたら高校卒業の資格が得られる通信制高校という選択枝を聞かされた。通学が不要というところが、俺としては選択の余地があるような気がした。最終的に成績証明書をやるから、通信制にいくのならそれを出したら入学許可が下りるということで決着がついた。俺は高校1年の一学期で「一身上の理由」で高校を退学した。
「いらっしゃいませ、何人様ですか。」
「5名様、ご新規です。」
「テーブル通します。」
「オーダーはいります。」
「おまたせしました。」
「ありがとうございました。またの御越しを御待ちしております。」
夕方から始まって夜中まで、同じことの繰り返しだ。店が繁盛していることはいいことだ。団体客がどんどん入る。仕事は忙しいが給料も悪くない。頭は使わんでもいい。レジ打ちは俺の仕事にはない。もっとベテランの責任ある立場の人がやっている。俺は注文を受けて運び、洗いものをして掃除をするだ。時間があるときには、下ごしらえの手伝いをする。今日も無事終わった。
「よっしゃ。おつかれさん。これから遊びにいこか。」
元気な大学生バイト達は、店が終わってから遊びにいこうと誘ってきた。まかない飯を店で喰ったので腹は満ち足りている。まかないが付いているバイトはありがたい話だ。俺は一も二もなく了解した。元気が有り余るバイトメンバーは、バッティングセンターからバトミントン、ボーリングから最後はカラオケとALL NIGHTで遊びつくした。さすがに疲れた俺は家に帰りついたら風呂にも入らず寝入ってしまった。
昼間は適当に家事と勉強をして、夕方からバイト。夜中は遊び、というライフスタイルを続けていた。何回も遊びに行くうちに仲良くなったバイトメンバーとは、バイトのない日にも遊びにいくことが出てきた。時は夏休み。海やプールに遊びに行ったりもした。バイトメンバーは男が多いが女もいる。割と綺麗な女子大生と二人乗りウォータースライダーで仲良く遊べたのは楽しい。俺も男だから仕方ないだろう。
担任に言われたこともあったので、通信制高校のパンフレットを手に入れて読んでみた。俺にも可能な気がした。ただ問題となるのは、通信制高校というのは高校卒業の資格を手にいれることがメインの目的になっている。高校レベルの学力を手にいれることは目的になっていない。ようは大学受験は眼中にないってことだ。大学に行きたい奴は自分で勉強するか予備校に行くか何かをしないとダメなわけだ。ちなみに調理師免許には高校卒業の資格は不要だ。俺は何のために通信制高校へ行くんだ。
親父はやりたきゃやれば良いし、やりたくなけりゃやらんでもええと言っている。通信制高校は別に年齢制限はないから何歳になってからでも入れる。今すぐ入学する必要はないわけだ。あと大学に行きたいのなら、高校に行かなくても受験する資格を手に入れる道もあるわけだ。どっちが楽かは別問題として、大学に行くのなら結局努力する以外はないってことだけは事実だ。俺は通信制高校に未練がないわけじゃなかったが、行きたいとも思わなかったので手続きはしなかった。
惰性で人生を謳歌していたが転機が訪れた。婆さんの49日の法要を済ませて永代供養を寺に頼んで納骨した時だ。伯母さんが、俺の実情を知り、家に来るように言ったんだ。住む場所も変わるし、何より伯母さんと言っても疎遠だし、一から人間関係を築くのは俺には重荷だった。だから断った。だが運命は転ぶ。親父が海外に行くと言い出した。それに伴って親権を伯母さんに頼むと言ってきたんだ。俺は迷惑だと言ったんだが、未成年の16歳にはどうにもならんことがある。俺の親権者は伯母さんになった。
伯母さんには娘と息子がいる。俺より年下で小学生6年と4年だった。思春期になる女の子と他人同然の俺が一緒に住むのは難しいだろう。だから俺は親権者の件は譲歩したが、住み込みバイトをすることは強引に認めさせた。伯母さんの世話になることと、俺がしでかしたことで損害や謝罪などを必要とすることの、二つの意味で迷惑は掛けたくないんだと約束して。住み込みバイト先は旅館を選んだ。食事の心配をしなくても済むし、調理師免許を取るための実務も可能だ。俺的にはGOODな選択だったと思う。退職を申し出た居酒屋のバイト仲間には惜しまれた。短い期間だったが、二つ返事で遊びに参加する俺は重宝されていたんだ。最後のALL NIGHTでは、みんなで目いっぱい暴れまわった。良い思い出になった。
住んでいた家は親父の持ち物になっていた。もとは婆さんのものだったが、受け継ぐやつは親父しかいない。親父は放棄しようとしていたが、それをされると俺が住む場所がなくんるのでやめてくれと頼んで相続してもらっていた。親父はジプシーをしているので家がなくても困らないというか、あると迷惑そうだった。少しくらい俺のことを考えてくれと思ったが、考えられないのが親父だよな。家族のことなんか頭の中にはないんだろう。なんで親父は結婚して子供を作ったりしたんだよ。聞いたらおふくろに惚れられた。人生一度は結婚をしたほうが良いと婆さんに言われた。それもそうかと思ったんで結婚した。だが家族とどう付き合ったらいいのか分からなくて、仕事にのめり込んでいたら、おふくろに出て行かれたとさ。ある意味、親父の育った環境に問題があったんじゃねえだろうか。ただ婆さんが、そこまで家庭状況を悪くしていたとは思えないんだが。死んだ婆さんに聞くことも出来ないし、いまさらだ。ともあれ戸締りをしっかりとして俺は育った実家を出た。
身の回りの手荷物だけで旅館に住み込んだ。そこそこ歴史があり、部屋数も多いので、従業員も多い。住み込みは俺だけではなかった。意地の悪いやつもいたが、何処の世界でも同じことだ。捌けば済む。捌けなければ、別の手段で決着をつけるまでだ。俺流のやり方で住みよい住環境を整えていった。旅館の支配人は厳しい人だった。良い意味で仕事にプライドを持っていて、理想とするものを俺たち働いている人間に分かりやすく説明し、実践して見せてくれた。俺は調理だけじゃなくて、接客を含めた宿泊施設というもの全体に興味を持つことが出来た。会計にも初めて携わることになった。1円単位まで間違いなく締める重要性を教え込まれた。お客さんに御釣りを間違えただけで、これまで築きあげてきた旅館の地位がいとも簡単に落ちるんだ。評判というものの怖さを理解した。
二年間旅館で働いたおかげで、試験を受けて調理師免許を取ることが出来た。また徹夜で遊ぶこともなかったし、チップを含めた副収入も多くあったので手持ちの資金はかなり暖かくなっていた。それだけじゃなく副業として始めた伝統工芸品が、一流には程遠いもののそれなりの評価を得て、驚くほどの財産を築くことが出来た。そんな俺に対して、支配人が、この世界で生きる気があるんなら別のところでも働いてみたらどうだと、新しく開業するホテルを勧めてくれた。旅館とホテルでは違うことが多いが、接客という根本は同じだ。若いんだし経験を積むことは将来の糧になると言われた。紹介されたので見に行かないというのも悪いと思った俺は、見学だけの積りで出掛けた。そこで様々な業種の集合体であるホテルマンに憧れた。18歳にはなっていたものの未成年である俺は、伯母さんに頭を下げて転職を願い出た。伯母さんは快く賛成してくれた。そのときに知ったんだが、旅館のオーナーと伯母さんは知り合いだそうだ。問題も起こしていない俺は、オーナーからは高評価をされていたらしい。ホテルへの紹介状はオーナーと支配人の二人が用意してくれた。ホテルからは是非ともと二つ返事で入職が認められた。
俺は住み込みで旅館で働いていたから、伯母さんの家族とは左程仲良くはなっていない。伯母さんの子供たち、俺視点では再従姉弟になるんだが、とは誕生日や盆暮れなど節目節目でしか逢っていない。それでも親戚としての扱いは受ける程度にはなっていた。新しい職場は少し離れた土地になるので伯母さんの家で送別会が開かれた。家族の温かさを感じさせてくれたことには感謝した。俺の親父は海外を転々としているようで最近は音信不通になりつつある。
新しく職場となるホテルは、新規開業のため系列のホテルから人材が引き抜かれていた。そこに俺のように新入職の人間が混じる。経歴も経験もまちまちな混成部隊だ。ホテルマンたる支配人たちの苦労が始まる。一つの戦闘部隊に仕上げるのは大変だろう。鬼軍曹がダース単位で必要ではないだろうか。だが俺は扱かれる立場ながら、結構たのしんでいた。一つには新しいことに触れてワクワクしていたのもある。あとは将来の目標というか、人生で何をするのかということが見えて掴めてきたような感じだったのも大きいだろう。俺はホテルマンになりたいと思ってきていた。
開業して二年ほどたち、仕事を覚えた俺はフロント業務につくようになっていた。ある日、夏休み期間中だった。女性グループが宿泊にきた。代表者が宿泊カードを記載している間に、俺はチェックインに必要な物品を用意していた。そのときに、グループのうちの一人に見つめられていることに気が付いた。知り合いかと思ったが記憶にはなかった。そして代表者に説明をして担当者に引き継ぐと、そのグループは部屋に案内されていった。
ホテルの最上階にはラウンジが設けられていた。俺は成人したこともあり、ときどき夜景の見えるカウンターでグラスを傾けるようになっていた。バーテンダーはもちろん知り合いだし、酒のプロでアルコールの飲み方を教えてくれる先生でもあった。スマートなカクテルの嗜み方など、生きた知識を植え付けてくれもしていた。ときどき同じホテル仲間と一緒に飲んだり食べたりして親交を増やしていた。
その日も充実した一日を過ごした俺は、いつものように寛いでいた。たまたま独りだった俺はネオンの瞬きを眺めながら感慨にふけっていた。ようやく20歳になった。16歳の頃に遊び回った一時期のことが懐かしい。あのときのメンバーは元気にしているだろうか。もうとうに大学を卒業して就職しているだろうな。過去のことを思い出しては顔を綻ばせて飲んでいた。少しピッチが速かったことや、食事なしで飲んでいたこともあったので酔いが回っていたようだ。バーテンからは、ほどほどにしとけよと忠告されてしまった。
そろそろ自分の部屋に戻って、風呂を浴びて寝るかと思っていたときに、不意に声を掛けられた。顔を向けるとフロント業務をしていたときに俺を見つめていた女性グループの女性だった。連れはいないようで、一人でラウンジに来たようだ。
「聡史だよね。わたしのこと覚えている。」
女性は俺の顔を見ながら言葉を掛けてきた。さっきも知り合いかと考えたが、もう一度考えてもやはり記憶になかった。だが相手は俺のことを知っているようだ。何処で会ったんだろうか。一緒にウオータースライダーに乗った女子大生ではないことだけはわかった。身長が違うんだ。年齢もだぶん違う。旅館からホテル勤務をしているうちに、人の年齢は結構わかるようになってきていた。
「申し訳ありません、お客様。お顔を御存知あげないのです。」
俺は丁寧に返事を返した。プライベートな時間と言えども、俺はホテルの一員だ。言葉一つであろうとも、お客様に不快な思いをさせることは出来ない。
「わからないか。悲しいな。4年ぶりくらいかな。最後に逢ったのは・・・。正確に言えば、7年くらいと言ったほうがいいのかな。」
女性は俺の返事を聞いて落胆したようだった。俺が覚えていると思っていたようで、悲しそうだった。だが俺には本当に記憶にない。4年前というと、やはり居酒屋メンバーか。でも7年くらいと言うのなら違う。中学時代か。姉貴や妹ではないな。さすがに実の姉妹を、・・・忘れているかも知れんな。正直、俺は中学に入ってから姉貴や妹ともほとんど口をきいていないからな。
「フロントで中森くんの名札を見たの。ひょっとしてって思って顔を見たけど良く分からなかった。でも、あとでホテルの人に聞いたの、下の名前を。そしたら聡史という名前を教えてくれたわ。」
「誰が私の名前を教えたのでしょうか。」
俺は酔いも手伝って、名前を教えたやつが誰か聞き出そうとした。不用意に名前を教えるもんじゃない。でもこれでわかった。中森くん、だ。姉妹ではない。姉妹で、中森くん、と呼ばれたのなら、単なる知り合いでしかない。万一そうなら、仕方ないとは言え、他人として接するだけだ。
「怒らないでね。知り合いだと思うけど、名前が思い出せないから教えて頂戴ってわたしが頼んだの。」
カウンターの上にチェイサーがコトっと音をさせて置かれた。わすかな火種を感知したのか、持ってきたバーテンが密やかに俺に言った。
「のめ。酔いを醒ませ。」
酔いを自覚していた俺は素直にグラスに口を付けた。
「御嬢さん。お席にお座りください。飲み物は何がよろしいでしょうか。」
バーテンは俺に声を掛けたのに続いて女性に向かって営業スマイルで尋ねた。
「何かおすすめはありますでしょうか。」
「そうですね。カシス・ソーダは如何でしょうか。」
「では、それをお願いしいます。」
「畏まりました。」
バーテンは一度バックヤードに下がった。次に出てきたときには、タンブラーに氷とカシスとソーダを入れ軽くステアした。仕上げにベリーを添えた。
そして音も立てずにグラスを女性のまえに滑らせた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。綺麗ですね。」
「ええ、甘すぎず爽やかな飲み口ですっきりと楽しむことができるカクテルです。」
丁寧にカクテルの説明を行ったバーテンは言葉をつづけた。
「ところでカクテル言葉というのを御存知でしょうか。花言葉みたいなものですがね。」
「まあ、そうなんですか。このカクテルにはどのような言葉があるのでしょうか。」
「聡史。先ほどの失礼の御詫びに説明して差し上げろ。」
バーテンが俺に振ってきた。何を言ってんだ。カシス・ソーダを勧めたのはバーテンだろうが。俺が女性に向かってカクテル言葉を言うのかよ。
「それとも知らないのか。それならホテルマンとして少し修行が足りないんじゃないか。」
バーテンが微妙な笑顔で俺を煽ってきた。なんの意味があるんだよ。女性が誰かわかっていないのに。誤解を招くような言葉だろうが。だが、女性が興味深い目線を俺に向けていたので答えないわけにはいかなかった。知識不足と取られるのも癪だ。
「カシス・ソーダのカクテル言葉は、『貴方は魅力的』でございます。」
水を飲んで少し頭がすっきりした俺は穏やかに説明した。
「ありがとう。素敵な言葉ね。そして嬉しいわ。で、確信出来たわ。あなたがわたしの知る聡史だと。昔から変わらないわね。むっとした時の顔は。聡史は顔に気持ちが出過ぎよ。」
俺はもう一度女性を眺めた。薄い唇を軽く釣り上げており、笑みが浮ぶようで瞼が重く見える泣き笑いの顔を。記憶の中から浮び上がる同じスチル。年齢は違うが。たしかに7年ぶりというほうが正しいか。やっと気が付けた。俺に向かってくる気が付いてほしいという憧憬も。
「早苗か。」
眼から涙が溢れ早苗の頬を静かに伝って流れていった。
「すまんかった。気が付かなかった。言われるまで。」
名前を呼ばれた早苗が声に出さず身体ごと俺にぶつかってきた。その後しばらく俺は胸のうちで声もなく泣き続ける早苗の頭を撫でていた。俺のワイシャツの前を池にしたところで早苗が顔を上げた。少し口を尖らせて前に出し眼を閉じて何かを待っている。黙って笑うバーテンを睨んでから、俺は甘い唇をやさしく味わった。あえぐように口から息を漏らした早苗が眼を見開いて俺を見つめた。「やっと、摘んでくれたね、聡史。」
何事もなかったかのように仕事を続けるバーテンがカクテルを作っていた。出来たカクテルを俺の膝の上で落ち着いてカシス・ソーダを呑んでいる早苗の前に置いた。そして不思議そうな顔をする早苗に向かって言った。
「そのカクテルを聡史にプレゼントしてやってください。御嬢さんの願いが叶うような気がします。」
はああ、何を言っているんだ。しかもそのカクテル。
バーテンの言葉を聞いた早苗は期待を込めた弾んだ声で言った
「聡史、どうぞ。」
「早苗、そのカクテルのカクテル言葉しっているのか。」
「知らない。教えて。」
「そのカクテルはXYZと言ってな、カクテル言葉は『永遠にあなたのもの』だ。」
俺の説明を聞いた早苗は実に嬉しそうな顔をして抱き着いてきた。
中学1年のとき、早苗は俺に向かって言ってきた。
「告白された。どうしたらいい。」
俺は早苗と近所で小学校のころは仲が良かった。だけど俺は早苗のことだし早苗が好きなようにしたらいいと言った。俺の答えを聞いた早苗は固まっていた。そのときは俺は早苗の反応が良くわかっていなかった。今ならわかるが。早苗は俺に引きとめてほしかったんだ。そんな男とじゃなくて俺と付き合えよと。でもそうはならなかった。俺は自分の気持ちより早苗の気持ちが優先だと思ったから。結局、早苗は告白してきた男と付き合うことになった。だが何も進展なく直ぐに別れたそうだ。俺が嫉妬もせず振り向いてもくれなかったから。けれど、それ以降、俺と早苗の間には溝が出来て埋められることはなかった。俺がグレていったことや、中学2年のとき両親が離婚して俺を諌めるものがいなくなってからは更に遠くなった。そしてなんとか一緒の高校に行くことになったものの、俺は一年の夏休みを機に居なくなった。親父が逃亡生活の真似事を始め、伯母さんが親権者になって、俺は遠く離れた街で旅館の住み込みバイトを始めたからだ。
早苗は二学期も9月末になってから、俺が居ないことに気が付いたそうだ。同じクラスだった同中の女友達に俺が高校を退学したことを聞いて直ぐに俺の家に来たらしいが、もぬけの殻。連絡先も分からず、俺の担任に聞いても担任も知らない。家を見張っていても誰も帰ってこない。でも何処かで連絡をくれるんじゃないかと期待をずっとしていた。そうだ。でも連絡もなく諦められないけど諦めないとダメなのかと思うようになっていたときに俺に再会した。だから失いたくない気持ちが爆発したと言った。早苗は高校を卒業してバイト生活をしていた。そのバイト仲間と旅行にきたホテルで俺を見つけたんだ。
再会した日から俺の部屋に無理やり住み込んでいる早苗の告白だった。俺たちは20歳を超えて成人になっている。俺にすべてを捧げた早苗は、これで満足と言っていた。しかも旅行に出かけた状態で家に帰っていない。
そういうことで片づけられんだろうが。俺は早苗を連れて、早苗の実家に挨拶にいった。ホテルの支配人が俺に肩書きを付けてくれて名刺を作ってくれた。レベニューマネージャー補佐という、俺に務まるのですか、と言いたくなる役職だった。でもおかげでご両親には認めて貰えた。秋にはホテルで挙式を予定している。
俺の将来はホテルマン。早苗の夫で、よき父親になりたいもんだ。手本にする人には沢山出会ってきた。親父じゃねえ。あれは論外だ。旅館のオーナーや支配人。当然、早苗を連れて挨拶にいってきた。伯母さんにも再従姉弟にも早苗を紹介した。ホテルのメンバーにも御披露目した。俺の名前を早苗に教えた野郎は通りすがりのバーテンだった。まあ感謝しておいた。運命の歯車は一つでも欠けていれば回らなかっただろうから。
それから、おふくろと姉貴や妹にも久しぶりに逢った。どうやって逢ったのかっていうと、なんと早苗が連絡先を知っていた。おふくろは家を出るときに早苗に連絡先を教えていったらしい。なんだかんだと言っても俺のことを託す相手は早苗だと考えていたそうだ。ただ早苗は婆さんが亡くなったことは知らなかった。知っていれば展開は変わっていただろうが、そうはならなかった。俺が消えたあと、おふくろに連絡を取ったらしいが、おふくろは親父の連絡先はしらない。俺の家の電話は俺が居なくなる時に廃止したから繋がらん。残念なことと言ったらいいのか、婆さんの家族の連絡先、大伯母さんや伯母さんの連絡先も、おふくろは知らなった。なので早苗からは俺に繋がる線が切れていた。親父は海外に行ったので会社も変わっていたし。偶然以外にパズルは埋まらなかったんだ。それでも早苗には、おふくろへの連絡ラインは俺に繋がる唯一の糸だと思っていたという。
おふくろは早苗を連れた俺を見て変わったね。違うか、もとに戻ったんかな。と言った。グレた俺のことなんかな。最初に狂った歯車は中学1年のときの俺かな。もうちょっと大人だったら、あるいは俺が自分の気持ちに素直だったら。いまの俺はいなかった。結論からすれば必然で、このルートを歩いたらこそ俺は早苗と結ばれたんじゃないかな。別ルートなら早苗と交差しない世界もあっただろう。
姉貴と妹は、かなり他人だった。初めまして、クラスだな。おふくろが取り持ってくれたが、お見合いのカップルかよ。姉弟や兄妹の人間関係じゃねえな。これから新規に人間関係を積まないとダメだわ。その点、姉妹と早苗は違っていた。そりゃ女同士遊ぶことも多かっただろうしな。と一人納得していたら。それだけじゃないわよ、と三人に揃って言われた。まあ早苗が接着剤になってくれるんじゃないかな。
親父には連絡は取れんだろうからと放置しておいたら、ひょっこりと帰ってきやがった。だけど、昔と同じだ。数日間、日本に滞在していたらフライバイしてしまった。俺と早苗に、おめでとうと言っただけましか。おふくろには会わせる顔がないからと言って逢わず仕舞い。逃げるようにどっかの国にいってしまった。娘達のこともいいのかよ。連絡先を置いていったのが救いか。だけど、なんで衛星電話を個人で持っているんだよ。何処に行っているんだよ。
秋晴れのなか、チャペルでフラワーシャワーだ。早苗が声を掛けた、俺と早苗の共通の知り合い達、小学校からの同級生たちも参列してくれている。おふくろや姉貴に妹。なんと親父もいる。早苗の両親に、俺の大伯母さんに伯母さんに再従姉弟。全員に祝福されて俺たちは夫婦になった。
「早苗を妻とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓います。幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることをここに誓います。」 fin。
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