21、ハルの秘密
(言い逃げをしてしまった……)
宵が迫る暮れの道を歩きながら、真白は頭を抱えていた。里子に言いたい事はあったけれど、それを上手く伝える言葉が分からなかったし、伝えて伝わるかも分からず、言い逃げるような形になってしまった。
(やっぱ、人ってそんなすぐ変われないよね)
それでも、よし子の事を信じようと思えるのは一歩進んだ証拠だろうか、と真白は空を見上げる。海の向こうに一番星が見えた。
手提げが震えた。幸斗からのLINEが来ていた。
(ゆき)「マジ?」
(真白)「うん。LINEじゃ上手く伝えられないから、直接話したい。っていうか、今、お屋敷向かってる」
今度はすぐに返事が来た。
(ゆき)「何だよ、その行動力。ま、俺もよし子さんの日記見つけたから、それ一緒に見ようぜ」
(真白)「早く伝えたかったから。おばあちゃん、日記書いてたんだね。もうすぐ着くから」
その日記を読めば、どうして家族と会わなくなったのか分かるかもしれない、と真白は胸を弾ませながらスマホを手提げに直した。
屋敷へ続く坂道に入る前、人魚と会った洞窟が見えた。宵が訪れる直前だから、洞窟の中は暗くて見えない。けれど、ぱちり、と水音がした。
(人魚が、いる)
ユキでもハルでも、今の真白は聞きたい事があった。二人を嫌いにしたくなかった。
(幸斗くん、ごめん。ちょっと待っていて)
溺れた時の記憶に怯える体を叱咤して、真白は砂浜に降りた。
カモメの鳴き声は聞こえない。波とサンダルが砂を潰す音だけがする、静かな空間だったからこそ、それは聞こえた。
(女の人の泣き声……?)
そこまで分かって、真白は走り出した。すぐさま洞窟に入れば、いつもの岩で、ユキが伏せて泣いていた。
「ユキさん、どうしたんですか?」
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
焦点の合わない目で謝り続けたまま反応を返さないユキの尋常ではない様子に、真白は水底に沈められた恐怖を忘れてユキに駆け寄った。
「ユキさん、大丈夫ですか? 私が分かりますか?」
「私が悪いのよ。全て、私が。ごめんなさい」
ユキの隣にしゃがみ込む。真白がユキの肩に触れてもユキは頭を振るばかりで、真白に気付かない。
「ユキさん……、小雪さん!」
「っ!」
ピタリ、とユキの動きが止まった。体の強張りが解けて、ユキが顔を上げた。一昨日会った時の白磁の顔は酷くやつれていて、艶やかな黒髪も地面に投げ出されてボロボロになっていた。
「どうして、その名前を?」
海に響く唄を歌っていたとは思えない、掠れた声だった。そして、ユキが白鷺小雪だという事に真白も驚いていた。
「いえ、ただ、何となくです」
日記にあった唄とハルが語ったユキの事。小雪の変死と屋敷の小雪をしらないユキの事。ハルが未だにこの海岸に居続けている事。よし子がずっとここにいた事。色んなものが見つけた時とは別の意味を帯びていく。
(証拠も確信も無い思い付きだったけど、当たってたんだ……)
真白が素直に言えば、ユキは申し訳なさそうな顔になった。
「そう。私もね、ついさっき思い出したの。あなたの栞とよし子の話を聞いたおかげよ」
「忘れていたんですか?」
「ええ。ただ、ここに来るととても懐かしくて嬉しくなって。私はまだなりたての人魚だから、情緒不安定になるのは仕方のない事だけど、不思議だったわ。それが今、分かったの。あなたのおかげよ。そして、本当にごめんなさい」
再び涙を流し始めるユキに、真白は何をしていいのか分からなかった。
手提げが再び震える。焦って何度か落としながらも見れば、幸斗からだった。真白は縋るような気持ちでメッセージを送る。
(ゆき)「道にでも迷ったの?」
(真白)「ユキさんが、大変なの。洞窟に来て。お願い」
そのままLINEを閉じて、ユキに向き直ると、細い腕が真白に向かって伸びてきていた。深い水底、引きずられて水が体を巡り回ろうとする痛み、首を絞めつける冷たい何か。真白の脳裏にその時の記憶が蘇る。
「っ!」
固く目を閉じた。けれど、やって来たのは、場違いな軽い鈴のような声だった。
「はーい、そこまで。ユキも落ち着いて」
ぱちり、ぱちりと何度も水の跳ねる音が響く。恐る恐る目を開けば、ユキを抱きしめて頭を撫でるハルがいた。
「やぁ、栞のお嬢さん。再会を喜びたい所だけど、ユキをなだめてるからちょっと待ってね」
有無を言わせぬ金の瞳に、真白はただ頷いた。ユキをなだめるハルの髪は、今日も重さを感じさせないまま金に輝いていた。真白はそれをただ見つめていた。
「真白!」
聞きなれた低い声に振り返れば、洞窟の中に幸斗が入ってきた。後ろからはハルにしては珍しい重いため息が聞こえた。
「あーもう、うじゃうじゃと来ちゃって。面倒ったらありゃしないよ」
「よぉ、また会ったな、クソ人魚」
「無粋な呼び方は止めてよね。それに、ユキがこんな風になったのは元をたどれば君達のせいなんだよ。文句を言いたいのはこっちだよ」
落ち着いて眠ったユキを壁の方へ寄せて、ハルは真白と幸斗を見た。光の無い瞳で睨み付けられて、二人は背筋を震わせた。
「それは、小雪さんが記憶を取り戻すきっかけを与えた事、ですか?」
真白の言葉に驚く幸斗に、真白はユキが白鷺小雪であり、今まで記憶を失っていた事を伝える。合点がいった、というように幸斗は頷いた。
「そうか、だから……。じゃあ、小雪おばあ様を人魚なんてもんにしたのはあんたか」
「口の利き方に気をつけてよね。ボクは人間があんまり好きじゃないんだよ」
頬を引きつらせる幸斗を見て真白がハルに謝れば、ハルはすぐ笑みを浮かべた。
「うんうん、栞のお嬢さんは良い子だね。お嬢さんが言った事は微妙に違うかな。ユキの記憶を刺激するものをくれたのには、ボクは逆に感謝しているんだよ」
「ハルさんもユキさんの記憶を探していたんですか?」
「うん。ユキの悲しみに満ちた美しい唄を聴きたかったからね」
そう、満面の笑みでハルは告げた。真白と幸斗は一瞬、何を言われたのか分からなかった。意味が分かっても、頭がその考えを受け入れようとしなかった。
(悲しい唄が聞きたいから、記憶を取り戻す? それじゃあ、あの時、どうして)
「悲しい唄が聴きたい? ふざけてんのか」
「ボクはボクの欲に忠実なだけだよ。ボクは人間は嫌いだけど、人間の奏でる音は好きなんだ。ユキはその中でも格別に美しい音を奏でるんだ。人間には感情があるだろう? あの感情の種類と量によって音は無限に変わってね、特に楽しい時よりも悲しみや孤独に満ちて、それに耐えようとする時が一番心地良い音を奏でてくれるんだよ。だから、今でも十分美しいユキがそうなったら、一体どうなるんだろうって君達は気にならないかい?」
ハルの口調は滑らかで、好きな食べ物を語るように軽く、真白達が理解できないのが理解できないと言うようだった。
「おい、だから小雪おばあ様を人魚にしたっていうのか?」
「ちょっとどこからそんな発想が出てくるのさ。小雪が人魚になったのは、小雪自身の願いだよ。この酷い世界から逃げ出したいって。それこそ言ってしまえば、小雪が人魚になったのは、君の家のせいって事になるね。まぁ、ボクは美しい声の持ち主が儚い命で無くなる事にならなくて感謝したいくらいだけど」
ふふふ、と可笑しそうにハルは笑う。砂利が転がる。幸斗が一歩前に出た。
「屋敷でよし子さんの日記を見つけた。よし子さんは小雪おばあ様が人魚になっている事にどうしてか気付いたようだった」
驚いて、真白は幸斗を見上げる。次いでハルを見ればさらに笑みを深くしていた。
(本当にハルさんの言っている事が正しいの?)
真白の視界の端で、黒いものが動いた。
「そうだね。気付いちゃったね、あの人」
「よし子さんを殺したのはあんたか?」
「殺すなんて物騒だな。だから余計なしがらみから解放してあげたんだよ。人魚にはしてあげなかったけどね。だって、どうやったのかボクの居場所突き止めて、ユキに会わせろってしつこいんだもん。昔、ユキに酷い事したし、あの人いなくなったらユキは悲しむかなって」
「じゃあ、真白の事も」
「お嬢さんは本当に可哀想だったからだよ? 声は綺麗な方だけど音は聞いてないからなぁ。聞いてから考えたかなぁ。ま、今はそうでもなさそうだからもう過ぎた話だけどね」
「なっ!」
あはは、と笑うハルに幸斗は拳を振り上げようとする。ハルはそれを嬉しそうに見返す。そして、真白は、幸斗の腕を掴んだ。
「なっ、真白。何して」
「ハルさん、嘘をついても無駄です」
「嘘?」
「……何が言いたいのかな、お嬢さん」
真白はワンピースに入れていた栞を取り出して握る。栞を見てハルが一瞬、笑みを崩した。真白はそれを見逃さなかった。
「幸斗くん、私、あの日私を沈めた人が分かったかもって言ったよね」
幸斗はただ静かに真白を見つめる。その様子を認めて、真白は安心した。
「私を沈めたのはハルさんじゃなくて、ユキさんだったの。ですよね、ユキさん」
ハルが目を見開いてユキを見る。ユキは起き上がって、ハルを見つめる。愛おしさに溢れた瞳だった。そして真白と幸斗を見て微笑んだ。




