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19、暗闇のキャンバスに広がる


 白磁の扉を前に真白は耳を澄ませる。音はしない。中の様子は分からなかったが、小夜の頑張りを無駄にしないように、深呼吸をして扉に手を添えた。そして、視界の隅で見守る小夜に一度微笑んで、そっと扉を開いた。

 光が射しこむ。一度目を閉じて開けば、目的の人物はすぐに見つかった。後ろ手に扉を閉める。ベランダへ続く大きな窓の傍に置いてあるキャンバスの前に、幸斗は立っていた。

 朝陽に揺らめいて細く陰影を生む金糸の髪。いたずら小僧のような笑みを浮かべる翡翠の瞳や口元は、一昨日よりも暗く落ち込んでいた。目元にはうっすらと熊が出来ている。ただ、定規を添えてあるかのように、真っ直ぐな背中だけは変わらない。落ち込んでいても崩れないくらい、体に馴染んでいるのだろうと、真白は息をついた。

(やっぱり、綺麗なんだよなぁ)

 傍にいるのが勿体無いくらい。けれどその綺麗さがどこから来ているか分かって、前よりももっと傍にいたいと真白は思った。

「幸斗くん。何を見ているの?」

「っ! 真白? お前、いつ」

「ついさっき。一日ぶりだね」

「……体は、もういいのか?」

「うん。いっぱい寝たから。もう、大丈夫だよ」

「そうか……。それなら、良かった……」

 そこで会話が途切れる。会話が無くなるのは今までにもあったけれど、今は幸斗の方が苦しそうな顔をしていた。だから、真白から歩み寄る事にした。

「月と虹の、絵?」

 夢で見た、記憶の中でよし子が描いていた絵と同じものだった。けれど、そこには新しく小さな白い星達が、たくさん散りばめられていた。真っ暗闇に月と虹だけでは淋しいと思ったけれど、これなら淋しくない、と真白は嬉しくなった。

 衣擦れの音がした。幸斗が真白を見る。

「真白、この絵、知ってんの?」

「うん。一度だけおばあちゃんに会った時、見せて貰ったの。その時は月と虹しか無かったんだけどね」

 少し黙った後、幸斗が口を開く。

「よし子さんは、俺にこの絵を見せようとしなかったんだ。俺にきっと必要なものだから、完成したら見せてあげるって。完成の知らせが来る前に、あの人死んじまったけどな」

 幸斗を見れば、見ている方が胸が苦しくなるくらい険しい顔をしていた。

(どうやったら、笑ってくれるんだろう)

 もう一度、絵に視線を戻して真白は考える。真白が見てきた幸斗の事、幸斗を嫌いじゃない人もいると告げた小夜の事。月と虹の絵に星々を足したよし子の事。

 少しだけ逡巡して、真白はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「前にね、この絵を見せてもらった時、これは自分には見えない世界を知るために描いているんだって言ってたの。この世界の見えないしがらみに取り込まれないようにって」

 幸斗が息を呑むのが分かった。かまわず真白は続ける。

「暗闇は見えない世界。虹は自分を彩る出来事の欠片。月は自分を温かく包んでくれる優しい光。そしてね、夜空を見上げて目を凝らしたら、傍に寄り添って光を灯してくれる星達が見えるはずよって。そう想像したら、世界はもっと明るくて美しいものに変わっていくはずだわって」

 一度、言葉を切って息を吸う。そして吐く。唇に力を入れて、真白は幸斗を見た。

「私に優しさをくれて、ありがとう」

 幸斗の方が大きく跳ねる。眉が深く寄せられている。

(もしかしたら間違ったかもしれない。でも、これが私の今の精一杯だから)

 やるしかない、と真白は幸斗を見続ける。

「俺は……」

 幸斗が口を開く。深い所に沈んでいくような重たい声だった。

「俺は、そんな事言われる資格なんて無い! 自分の事しか考えてなくて、格好つけた理由で騙して、真白も小夜も利用してただけなんだよ! 全然、優しくなんて無いんだよ……」

 幸斗が真白を睨めつける。けれど何だか泣き出しそうな顔だと、真白は胸が苦しくなった。

「何で、お前も小夜も俺なんかに近寄ってくるんだよ! 俺はお前らを見下してたんだぞ」

「でも、私が幸斗くんと小夜ちゃんと一緒にいて救われたのは本当だよ」

「それは、真白がそう思っているだけだろ。本当の事を知らないだけだろ」

「うん。そうだね。でも、幸斗くんが自分を格好悪いって思っているのも、幸斗くんがそう思っているだけでしょう? そうじゃない世界だってあるんだよ。だって、私の心は幸斗くんにとって“見えない世界”だから、ね」

 幸斗の翡翠の瞳が大きく見開かれる。唇を強く噛み締めて、幸斗はうつむいた。小さく肩を震わせる様子に、真白はやはりちゃんと感謝を伝えたいと思った。

「だから、何度でも言うよ。私は幸斗くんと一緒にいれて楽しかったよ。人魚の事信じてくれて、泣いた時に傍にいてくれて、死んだらダメって言ってくれて、嬉しかったよ。心が楽になったよ。それは私にとって紛れもない本当の事で、私が見てきた幸斗くんの姿だよ」

 ふわり、と包み込むような暖かな風が吹きこんでくる。シュシュで結んだ髪が真白の視界の端で揺れる。そして同じように揺れた金糸の隙間からは、一滴の煌めきが見えた。

「……勝手な、事ばっか、言いやがって」

「うん。でも、本当の事だから」

「言っておくが、一昨日、真白を助けたのは、俺じゃないぞ」

「そうなんだ。でも私の気持ちは何も変わらないよ」

「……お前の言う通りだとして、そうすると俺は、お前の言う優しい俺を持ち続けないといけない、って言われてる気がするんだけど」

 それは、優しくしてくれた事が本当だと言ったからだろうか、と真白は考える。幸斗はまだ、顔を上げない。

「……そうかもしれない」

「はぁ?」

「でも、こうやって落ち込んで格好悪いって嘆いている幸斗くんも今見たし、別にずっと優しいままでなくても良いんじゃないかな。少なくとも私は、私の心が救われた事を忘れないから、幸斗くんの事嫌いになったりはしないよ。そこは安心して欲しい」

 うつむいた幸斗から、乾いた笑いが漏れる。雫が床を濡らしたのを、真白は見なかった事にした。

「……何か、腹立ってきた」

「え?」

「何か、真白に偉そうに物言われるの腹立つ。真白だって、自分の考え否定されるのが怖くて、ぴーぴー泣いてたくせに」

「え、あ、そ、それは……」

 フッと、笑う声がして幸斗が顔を上げた。そっぽを向いていて表情は分からないけれど、顔を上げてくれた事に真白はホッと息をついた。

「真白が勝手に出てった後、あの姐さんの相手するの面倒だったんだぞ」

「お姉ちゃん、美少年好きだからね。……えっと、ご、ごめんなさい」

「このまま許すのも腹が立つから許さない」

「えぇぇ……。それは酷いよ」

 と、突然部屋の扉が力強く開かれて、小夜がスカートの裾をはためかせて走ってきた。

「ゆきお兄ちゃん! 真白お姉ちゃんをいじめちゃダメよ!」

「は? 俺は別に」

 小夜が真白を見る。いたずらを思いついた顔だった。

「そうなんだ、小夜ちゃん。幸斗くんがいきなり怒って来てね」

「まぁ、ゆきお兄ちゃんは怒りんぼうなんだから。私の事もよく怒るんだもん」

「それは酷いね」

「真白お姉ちゃん、分かってくれる?」

「うんうん、怒られるのは嫌だもんね」

「てめぇら、言わせておけば……」

 幸斗の怒号が響く。それでも部屋には明るい笑い声が続いた。

三人の姿を、朝陽が優しく照らしていた。




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