17、人魚のお守り
真白は夢を見ていた。
中学生になってよく見かけるようになったいじめの光景。友人の悪口を言う友人。懸命に何かをする事を笑うクラスメイト。それを一緒に笑う事しか出来ない自分。
何をいっても「偉いね」の言葉しか返ってこないのは分かっていた。けれど、どうしても捨てられないこの心を大事にしてくれたのは、祖母だったと思い出す。
茜色に染まる白い扉の向こう。祖母が描くキャンパスの傍へ寄っていく。祖母は暗闇を描いていた。
―どうして、真っ黒にするの?
―見えない世界を想像するためよ。
―見えない世界?
―そう。自分からは見えない世界。歪で意味の無いしがらみに満ちている今の世の中に、自分が囚われないようにするのよ。
幼い真白には分からなかった言葉でも、何か大事な事を言われている気がして、必死に耳を澄ましていた。それが今、ようやく真白の心に届いた。
―あなたは、何か嫌な事、ある?
―……あのね、お母さんがいつも機嫌悪いの。お姉ちゃんも怪我をしてから、よくつまらなそうな顔になってるの。
―そう。あなたは、それが怖い?
―ううん。悲しくなるの。何で笑わないんだろうって。笑った方が楽しいはずなのに。大人の人って楽しくなくても大丈夫なの?
祖母がふわり、と微笑む。皺くちゃな顔で、目一杯の優しい笑顔を真白にくれた。
―いいえ、大人になるほど淋しくなるものよ。色んなものを見ちゃうから、淋しいって思う事自体を悪い事だと考えてしまうの。そうしている内に寂しいって思う事を忘れちゃうのよ。だから、あなたは覚えておいてあげなさい。
そう言って、祖母は真白に栞をくれた。そこには金色の髪を鮮やかにたなびかせる、人魚の絵が描いてあった。暗闇を明るくするのは金に輝く月の光。これは、お守りよ、と祖母が真白の掌に包んでくれた。皺くちゃで所々が硬くなった祖母の掌は、真白にとっては大きくてカサカサしていて、けれど久し振りに温かいと思えるものだった。何も分からないのに、夕暮れの太陽に照らされている祖母が、ただただ美しいと思っていた。
ふっと、目が開く。雫が一粒頬を流れて行った。額に手を当ててみれば、もう熱は下がっているようだった。
涙を拭って体を起こせば、緑色のカーテンの間をぬって淡い朝陽が部屋を暖めていた。枕元のスマホを見ればまだ、七時になったばかり。LINEを開けば、熱を出した一昨日から途絶えたままの、幸斗とのトーク画面が映る。
(特に変化無しってことかな?)
幸斗の事だから、早く治せとか手伝えとか言ってくると思っていた真白は、何の返信も無い事が意外だと思った。
(あ、もしかして勝手に砂浜に行って、勝手に溺れて迷惑をかけた事を怒っているんじゃ……。そんなに懐狭いとは思わないけど、懲らしめる目的でならやりそう)
そう思えば、それが真実のような気がしてきた真白は、早めに謝っておこうと、メッセージを打つ。
(真白)「一昨日は勝手な真似してごめんね。熱は引いたので、今日、お屋敷に行きます」
「なーに、朝っぱらからニヤニヤしちゃってんの?」
突然の声に大きく肩を震わせると、クスクスと笑い声が聞こえた。横を見れば、こちらも起き上がっていた亜希が、笑いながら真白を見ていた。
「起きてるなら言ってよ」
「今、起きたのよ。熱は?」
「もう大丈夫」
「今日もお屋敷に行くの? あの子に会いに」
「別に会うのが目的じゃないよ。お姉ちゃんじゃあるまいし」
「酷いなぁ。ま、でも行くんだ」
何が言いたいの、と真白が眉を寄せれば、亜希は笑顔を引っ込めて声を潜めて言った。
「あんた達さ、おばあちゃんの昔の事とか、人魚の事とか調べてるでしょ。お母さんにはバレないようにしなさいね」
亜希の口調は静かで、真白には姉が自分をからかっているようには思えなかった。
「それは、お母さんがおばあちゃんを嫌いだから?」
「それもあるけど、真白、私のこの傷何でできたか覚えてる?」
「私が道路に出たのを引き寄せたから……」
「ううん、そうじゃないの。それはお母さんの嘘。あの時私の傷はもうここにあったの」
首元のほんのりと赤く盛り上がった場所を指して、亜希が話す。真白にはこの話がどこへ続くのか、分かってしまった。
「それが人魚に関わってるの?」
「お母さんが怖がってるだけなんだけどね。お母さんがおばあちゃんを外に出そうと、人魚の絵とかおばあちゃんの絵を海に捨てたらしいの。おばあちゃんは酷く慌ててね。私も一緒に海で絵を拾ってたんだけど、急に足を引かれて」
“足を引かれて”と言われて、真白は思わず掌を固く握りしめた。その様子を、亜希はあえて無視した。
「その時負った怪我がこれ。溺れた時に金色の光を見たって言ったみたいでね。おばあちゃんが人魚だって。お母さんは私のせいでって、私がおばあちゃんを怒らせたからって。バカみたいよね。でもお母さんはおばあちゃんの事になるとバカになるから、バレないようにしなさいね。あの子とも会えなくなっちゃうかもよ」
最後だけ、いつものように茶化して話す亜希に、真白は鼓動が大きく響くのを聞いた。




