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9、栞の人魚

 風が顔を吹き抜けていく。朝でも夏にしては涼しい風だ。シュシュで一つに結んだ髪を整えながら砂浜を歩く真白の心は少しだけ沈んでいた。

――あら、あの子に会いに行くの? あんな美少年捕まえるなんて意外とやるわね。

 数分前の亜希の言葉を思い返して、ため息をつく。

(確かに、敬語は外したし、名前を呼ぶようになったけど)

 どうして皆、そんな風にしか捉えないんだろうか。昨夜のLINEを思い返して、慌てて首を振る。

 昨夜は幸斗と夕方の事や祖母の事を話した。その中で自然に敬語は無くなっていき、数少ない友人よりも気楽に話せた。

 おまけに、今日はレモン色のワンピースの次に気に入っている、小さなレース編みが付いた白のブラウスに、淡い空色から明るい瑠璃色にグラデーションしたアンシンメトリーのスカートという装いだった。着替える時に自然と手に取ってしまったのだけれど、無駄に浮足立ってるよね、と肩にかけたクリーム色の手提げをかけ直す。ずっしりとした重みのある手提げには、真白にとってはそれほど向き合いたくない参考書とノートが入っていた。家族へのカモフラージュのためとはいえ、現実を突きつけるこれらを持ち歩くのは、浮足立った真白も少し嫌な気分になった。

(まぁ、それでそんなに怪しまれずに出てこれたんだし)

 スニーカーのまま砂浜に降りたから、ズッ、と足を取られて歩きにくい。けれど、砂が潰れる音を間近で聞くのは初めてだな、と真白は砂浜を見ながら気の向くままに歩いて行った。気になるものを見つける度にふらふらどこかへ行くのは止めろと、家族や友人に注意されていたが、この狭い空間なら迷子になる事もないだろうと思っていた。

 ふと、影が差す。顔を上げればいつの間にか昨日の洞窟に来ていた。気になって入ってみれば、そこだけやけに寒く感じた。昨日よりは暗く、壁に手をつきながら進めば、小夜達がいた所はどうやら洞窟の終わりの部分で、すぐそこは海に繋がっていたのだと気付く。しゃがんで水面を見つめても、もちろん人魚はいない。がっかりしたような、ホッとしたような。

 しばらくそうしていて、幸斗との待ち合わせを思い出した真白が立ちあがって洞窟を出ようとした時、不意に風が吹きこんできた。とっさに腕で顔を守る。シュシュで結んだ髪が勢いよく後ろに流れていく。砂が飛んできて真白は目をつぶった。

そして、突風は大きな水しぶきを上げて収まった。



「やぁ、また会ったね、お嬢さん」



 黒髪の人魚と同じ鈴みたいに透き通っていて、けれど風みたいに軽くてあっけからんとした声がすぐ下から聞こえた。ゆっくりと目を開いて、そしえ大きく目を見開いた。

 幸斗の髪が細い金糸のような髪だとしたら、目の前にいる人の髪は陽の光か空気そのものからそのまま色づいたみたいに、重さも髪という印象も薄いもののようだ、と真白は感じた。瞼を縁取る睫毛や瞳も同じ金色なのも彼の異様さを物語っている。その一方で、ほのかに色づいた頬や嬉しそうに弧を描いている唇は、ごく普通の人間のようにも見える。

 目の前の少年が、よいしょ、と陸へ上がる時にも真白は目を離す事が出来なかった。少年は黒髪の人魚と同じ白磁の肌から水を滴らせ、昨日黒髪の人魚が座っていたのと同じ岩をぺたぺたと触っている。それからまた力を入れて岩に座れば、深緑の鱗に覆われた尾がはっきりと見えた。

(同じだ。おばあちゃんの栞と同じ、人魚……)

 少年をじっと見つめて離れない真白を、少年は真正面から同じように見返す。そこに表情は乗っておらず、何を思っているかは真白には分からなかった。ただ、瞳の中に光が見えない事にだけ気付いた。

 と、少年が笑う。ふわりと春の花がほころんでいくような微笑み。

「その絵、そんなにボクと似てるの?」

指さされたのは、今日も真白のスカートのポケットに入っている祖母の栞だった。

「ど、うして?」

「だって、車の中でも大事にしてたでしょ」

少年の尾が跳ねて、ぱちり、と洞窟の中に水音が響き渡る。その不思議と耳に心地よい音に、ふとこの町に来た日に見た白昼夢を思い出した。ただの夢だと思っていた。

「お嬢さんは夢だと思っているようだけど、あれはいわばボクだけの世界。迷子がいるから行ってみたら、栞を抱いて淋しそうに眠ってるんだもん。ビックリしちゃったよ」

「あなただけの、世界?」

「んー、まぁボクの夢に迷い込んだとか思ってていいよ。そんなに弊害は無いし。……それにしても今日は元気そうだね、残念」

 少年の手が真白の頬を包む。ゆっくりとした動作なのに、どうしてか抵抗する暇は無かった。包む掌は氷に触れていると思うくらい酷く冷えていた。それは深い深い水底に沈んでいくよう。

「――淋しそうだったら慰めてあげようと思ったんだけど、ね」

 間近に迫った金の瞳が細められたのに、真白は心臓に直接触られたような悪寒を感じて、一歩、後ずさった。

 とたんに、少年が今度は声を出して笑いだす。手を放してごめんごめんと、顔の前で手を振る少年に真白は呆気に取られた。

「ふふふふふ……。いや、冗談のつもりで言ったんだけど、そこまで怯えられると本当、人魚冥利に尽きるねぇ」

「じょ、冗談?」

「うん。ユキが会ったっていう子が気になってきてみたら迷子の子だし、楽しそうだなって思って出てみたらすごく驚いてくれるし、面白くってね。ごめんね」

「ユキ……って、昨日の黒髪の?」

「そう。ユキの髪はふわふわしていて綺麗だよね。海では珍しいんだよ。けど、何よりも唄が良い。人魚は総じて唄を歌うけれど、ユキは別格」

 ほら、今もあそこで歌ってるんだよ、と楽しそうに指さす少年の髪がふわりふわりと揺れて、暗がりの中でも綺麗だと真白は思った。

 その仕草につられて洞窟の切れ目から海を覗こうとして、突然の眩しさにとっさに目をつぶった。後ろで少年が笑う声が聞こえる。むっ、としながらも少しずつ目を慣らしていって見えた世界に、真白は知らず息を漏らしていた。

「ねぇ、綺麗でしょう」

 見えたのは海を照らす陽の光。太陽というよりは、青に黄色に白に、ガラスの破片が散らばって波間を自由気ままに漂っているよう。暗闇が広がる洞窟の中から見ているから、なおさら強く輝いて見えた。

その中央に黒髪の人魚が、その長い漆黒の髪を海に漂わせていた。昨日のようにはっきりとした声ではなく、空気が微細に振動した高い音が凛と響いている。昨日の優しさとはまるで違う唄声に、それでも真白は見惚れていた。

「何も邪魔するものの無い空間の中にいるユキは美しいでしょう? 何に囚われる事なく声を出すユキは、良いでしょう?」

 先程よりもトーンを落として落ち着いた声で語り出す少年に目を向ければ、頬杖をつきながらその瞳は真っ直ぐユキに向いていた。ただ、その目元に頬で遊ぶその指先に息を漏らすその唇に、ほのかに何かの切なさを真白は拾った。それは何故か、見覚えがあるような気がした。

 つい、と少年が真白の方を見る。その瞳には、やはり光は宿っていない。それが、妙に悲しく思えた。

「だから、ユキを泣かせるような事はしないで欲しいな」

「え?」

「あ、終わったみたい。それじゃあね」

 よっ、と軽い掛け声と共に少年は海へ帰る。声をかける隙などは与えないかのように。

 同時に手提げの中でスマホが振動する。取り出してみれば、既に約束の時間から二十分も過ぎていた。LINEには幸斗からの怒りのメッセージが連投されている。あ、これは大変だ、と慌てて手提げを抱え直して洞窟を出る。

 砂浜から出る時、ふと海の向こうを見やったけれど、そこに人影は見えなかった。




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