白の領域
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…瞳を開く事には、既に意味を見いだせぬ。
眷属達が気遣わしげに此方を見るが、気配でも解るのだ。
この忌まわしき霧が晴れたところで、変わる物も無いだろう。
「姫様、人族の王国が一つ滅びました。詳細を申し上げます。」
「姫様、本日も森の霧に変異は見られません。」
「姫様、神威砦流の剣士をミティエ様が後見なさった模様です。
詳細を報告致します。」
時の流れを感じぬ深き森の中、
永き時をこの霧の中で過ごしたとは言え、知らぬ事は何も無いのだ…。其れでこそ、全知なる樹の精なのだから。
「ミティエとは、古き光の欠片だったな。」
「……はい、姫様。」
「…自由がきく器が有るのなら迎えに来れば良かったものを。」
「ミティエ様は…あくまで一片の欠片であり、御役目が…、」
「知っておるわ…。」
樹と同化して久しい身は何不自由なく、
晴れる事の無い霧でさえ困る事も無いのだが。
毎夜に聴こえる歌だけはどうにも気がかりで、
この平坦な心であっても、少し…、煩わしかった。
◇◇◇
もう少し、もう少しの筈だ…。
失われた古代魔法を手に入れる事さえ出来れば。
数多の古代文献を読み解き、精神を沈静化する術を見つけた。
樹の精霊姫は名をスルシャエラと言い、全てを知り叡智を司る精霊だという。
もう、それに頼る他無いのだ。私の…私達の心を仕舞い込んでしまうには。
エルフの青年だ。髪は魔法職らしく伸ばしており、目は蒼い。
魔法職であり研究者である彼は華奢で、更に伸びない背は、彼の数少ないコンプレックスの一つだ。中性的を少し向こう側へ超えるのである。他に特徴と言えば、薬指に指輪が有る。
特別に調達した闇に溶ける様に気配を消す仕立ての祭司服は、随分前に誰もが匙を投げた、小さな遺跡に挑む為に用意したもので、周囲の魔物の強さを考えると軽装すぎる。
それでも彼は一人、石碑の前に辿り着く。
「…合っていてくれ。」
廃れた小さな遺跡の中央、
考古学にも明るい筈の自分にも解読できぬ暗号の様な文字、
其処に空いた三つの小さな窪みに、鍵になるはずのものを満たしていく。
空飛ぶ馬鹿が嫌い…で、愛なき光が嫌い、愛なき水も嫌い。
そうなる筈だ。高位精霊の領域に立ち入った物は居ないけれど、
きっとこれで正しい筈だ。
全知なる樹と言うからには、最高位神の代替わりの頃にも立ち会った筈なのだ。
愛なき光とは今の光の神。最高位神であり審判者の事である。よって二つめの窪みには、愛の有る光で満たしたかった。洞窟の深層より持ち帰った蛍晶石を詰める。陽の出ぬ夜中、光が瞳をとじた後で自ら発光する、古の宝石だ。
三つ目には、月下の神酒と呼ばれる植物の栄養促進剤を用意した。万を知る必要がある職に就く青年でさえ愛のある水には検討が付かなかったので、夜畑に撒くことで何処からか美しい楽器の音色が聞こえ、同時に植物の成長を促す人工の産物を用意する他無かった。
「樹の精霊様…、転移も飛行も使わずに参りました、背中に羽なども御座いません。私は付与魔法の使い手、頭が軽いと言う事は無いでしょう。」
願う様にそう呟き一つ目の窪みに手を添えると、
途切れ途切れの音楽が流れ始めた。この土地に住むものなら必ず知っている、月下の神酒による旋律の様だった。
「発動した……、魔力が。試しの門扉が開く…!」
間もなく青年は、当たりに静寂と暗闇を残し光の中に消えた。
ー
それは、途切れる様な声で思いを乗せた、
切なくも悲しい声で紡がれた、愛の歌だった。
"この暗闇の 牢獄は"
"さしたる不便は 有りません"
"私が犯した罪の分"
"貴女を待たせて すみません"
「っ…、曲が。歌になった……?」
深く白い霧に包まれた真白の森は、
高密度の魔力を孕んで、そこかしこに木の妖精が見えた。
もしやこの歌を聴く事が出来るのは一度きりかも知れないと、
しばし傾聴する。
"ヒトから助けを借りまして"
"毎夜に唄を 届けます"
"変わらぬ愛を 歌います"
"私の愛する スルシャエラ…"
"貴女に恵みを 送ります"
"これでも私は 弱くなく"
"姿までとは ゆかずとも"
"この暗闇の 牢獄を"
"あなたの瞳に 映るよう"
"命の限り 灯します"
"貴女一人の 為だけに"
"赦されたいのは 貴女だけ"
"愛されたいのは 貴女だけ"
"私の愛しい スルシャエラ…"
「…もしや、月よりの声だと言うのか…?」
気になる事は既に山のようにあったが、
この温い聖域の様な森の主には急いて挨拶をするべきだった。
それでも思考はずれてゆく…どうも大層な真実を孕んでいる様だから。
月で…"歌う"のは…、
"裁かれた"…、先代の光の神?
神話の戦争の記述では負けた事しか書かれていないが。
……メロディが、終わる。
再び視界が白い靄に包まれた。
さっきまでとは違う森かと思う程に、
幻想的で美しい木々…妖精と、蛍晶石。
"精霊のゲート"を…通ったんだ。
高位精霊の納める森の精霊達は誰も襲ってこないのか。
領域を侵す気が無い事が伝わったのだろうか?
そして、この道を…進めば。
ああ…。
なんて……美しい…、大樹だろう…。
白茶の大樹と同化した、これが。
樹の精霊王、"スルシャエラ"……。
酷く緩やかな動きで、瞳をひらいてゆく。
樹といったいとなった体は上半身の形がどうにか解る程度で、
髪もまた幹との境目がわからない程であったが、見た事のない神聖な美しさでもってエルフの青年の目を釘付けにした。
"……欲する物、そなたの求める答えはなんだ。"
低音で不思議な響きのアルトが心地よく耳に届く。
「ええ…、ヒトの言葉で申し訳ありません、木のスルシャエラ。
目的があって参りました…が、もし宜しければ少し此処で休ませて頂けませんか…?」
"……かまわん。 可笑しなエルフよ。
時ならば、無限の様に此処にある。"
表情もほぼ変わらず平坦な口調は、永く生きた時を感じさせられた。今自分は、精霊王の御前に居るのだ。怒りを買わないのならば、まだ少しだけここに居たい。
「とても静かで…、美しい所ですね。」
"わらわは…、此処以外をもう忘れた。"
時の流れは明らかに何時もより遅く、
はやり焦る筈の心もまた、穏やかになっていた。
「あなたにお会い出来るのは、
恐らく…一度きりなのでしょう?
長話などは、お嫌いですか…?」
"可笑しなエルフよ…。この老木と、
なんぞ話す事があると言うか…?"
「…木などと言われるあなた方は歳を経てこそお美しいのでしょう。短命で、頭の悪い私にも…その位の正しい感覚などは…備わっております。此処も貴女も、特別な存在でございましょう。」
妖精が舞う光と、蛍晶石の光、妙齢の女性の姿をした木の精霊が数体。大樹の根の苔は、当然艷やかだ。
"頭の悪い…か。
ならば何故 此処へと辿り着いた?"
「許されない恋を…致しました。私にも彼女にも将来を誓った方がおりまして、ですが惹かれ合う事はとめられず…。
此処を求めた当初の理由は…、"想い"を隠す為でした。
強き心の動きなど…我らは持て余す他ありませんでしたので。」
"強き…想いか。わらわが毎夜聞く、歌のようだな。"
数秒、言葉がつまった。
「…永き時がかかった為、御自分の気持ちを忘れられてしまったのですね?」
この精霊が受けた大きな愛が、私にも伝わると言うのに。
"わらわの気持ちと申すのか…、可笑しなエルフよ。
其れを、まるで…、知っているような口振りだな?"
「此処への道を辿る為…貴女が課した "試し" にて。
此処には…陽の光は、届きませんのでしょう?」
"ああ…、届かぬ。
不便は特に無いのだが。
…其れとは、いかなる事か。"
「…確かに貴女は、光…、"月のお方"を、愛しておられた様でした。現在の最高位神の恵みである光の全てを拒絶する程に。」
想定をし得ない悲しみや虚しさのような物が体を駆けた。
僅か思案げな顔をして、美しく縁取られた瞳をふせる。
"…そうか。わらわは…あの歌の。
罪負いし神を、愛していたのか。"
真実は、おそらくそうなのだろう。
"詩を読むに…、待たされ過ぎて、忘れたのであろうな…。
知の者であるわらわが忘れる程の時は…流れただろう。"
古にあった筈の、ものがたりの恋が…まだ。
"それでもまだ…歌い続けるのか。"
「ええ…なんとも深き…愛ですね。」
"…可笑しなエルフよ…。
わらわの変わりに…泣いておるか…?
確かにどうやらそなたには…
想いが多く有り過ぎる。"
"地を介し我等に想いを捧げる秘術…授けよう"
……あぁ、手にする事が出来た。
これで私達も互いの手を離す事が出来るだろう…。
"…序である、今申せ…。
そなたが望む '答え' は何か。"
優しい方だ。…とても。
「…我が愛しき方の一時の友が、魔に囚われたようなのです。
'魔剣' なる装備を持ちまして、強さと引き換えに心を犠牲にした様子。なにか…手立てはございませんか?」
答えを聞かなければ解決しない様な難題は今の所これくらいだろう。
"その様な事は…、決まって悪魔の悪戯である。
正の力を増幅せん為、自ら負も受け取っただけの事だ。
愚かなる選択ではあるが、悪を悪しとは言い切れぬ…。
ただし悪魔の気紛れは…、決まって儚く終わるもの。
囚われ続けておるのなら…そ奴は、其れを望んでおるぞ。
ただどうしても、介入したいと申すのならば…、
わらわはそなたが気に入った。'オーラの解呪'も授けよう。"
"さて…それで如何か?可笑しなエルフよ"
「我が愛しき方の…憂いはそれで晴れましょう
誠に、慈悲深き精霊様……。有り難う御座います。」
"但し…そなたに頼みがあるのだ。"
頼み…。精霊が、私等に?
何も読み取れない表情の、琥珀の様な瞳と目を合わせる。
「ええ、せめてものお返しに成るならば、
なんなりと私の力をお使い下さいませ…。」
"そなたが寄越した供物の中に、
'呼び石紛い'が、あったであろう。アレは、悪くない出来だ。
そなたの使えぬ言葉すら、先程わらわが補完した。
答えを知り、使った様に思えるが…?如何に……。"
神酒と蛍晶石は供物となったのか。
それならば確かに降霊師の使う呼び石のような物も入れたが…、
磨いた物やルース、原石の他に物珍しいものも入れようと思ったからだ。…手探りだったから。
「失礼ながら確かに仮定を致しました。私の浅き知識では言葉が足りませんでしたので…。適切な意味合いを無理をしてあてるとしたら、オーラ、 でしょうね…?」
薄ら、姫が笑んだ気がした。
"左様だ、知の者よ。"
「……恐れ多き、お言葉です。」
"…但し、名前が空欄だ。
わらわの名前を、書き記せ。"
…何を、言われている…?何を…。
思考が止まりそうな頭でもって、どうにか問い返した。
「…それと…言います事は……?」
"もしもだ、知のエルフよ。
月の囚われし神が…
その罪を償い終わりし折に、
此処を訪れたとしたら?"
"心無き老木…。
忘れ去られた深き愛…、
もしや余りにも…、可哀想、なのではあるまいか…?
"ならばせめて、待ち切れなかったのだと。"
"もしも…それでも再びまみえるならば、
せめて、心は必要だろう…?
どうせ既に…記憶はなくしたのだ。
故にそなたに新しき心を育てて欲しいのだ。……如何に。"
「…慈悲深き愛の方…"スルシャエラ"
私などで宜しいのならば…確かにお引き受け致しましょう。」
…まさか、私に使役される事もあるまいし。
望み通り育てれば良いのなら特別困る事もなかろう。
"そうか。それでは任せたい。
久しくない…水が身体を流れるような心地である。
お前が此処へ辿り着いて、良かったのだろうな…。
さぁ、刻め。幼体となりて今この時、今を去ろう。"
「……その様に。…再び月の方出逢うその日の為に余り違わぬ名が宜しいでしょう。余り名付けは得意でないので…簡易となってしまい申し訳ありませんが…刻み名は "スルサラ"としたいと存じます。お気に召しますでしょうか?」
"大事無い。想い深き知のエルフよ。"
お付き合い頂きまして有難う御座いました。
優しい気持ちでもって、ふわっと気軽にコメントなんかを寄せて下されば幸いです。