修行で「清めの御塩」を作りました。
目を閉じて、どのくらい経ったのだろう。建物の外から日が差していた。
「ん……もう朝か」
俺は両手を上にうーんと伸びをし、あくびをした。あまり眠ったようには思えないが、疲れは取れていた。
「おはようさんなのです」
隣には柚子がいた。
「おはよう。うーん……歯が磨きたいな」
「こちらでは、体の汚れや、ちりやほこりは、その人が必要としなければ出ないのです。毎日歯を磨く必要はないのですよ」
「それも現世と違うのか。だけど、やっぱり朝と夜には歯くらい磨きたいな」
「分かったのです。ちょっと待つのですよ」
柚子はむにゃむにゃと何かを唱え、両手を胸の前に持ってきた。
「来たれ、歯ブラシと歯磨き粉なのです!」
ぱぁっと柚子の手が光り、新品の歯ブラシと歯磨き粉が目の前に現れた。
「へぇ……神さまってのは、そんなこともできるのか」
「これは『具現化』の術なのですよ。こちらでは、必要とするものを強く念ずれば、出すことができるのです」
「何でも好きなものを?」
「あい」
柚子は自慢げにうなずいた。なるほど、それならこの昔風の日本家屋で暮らすのもそんなに難しくないかもしれない。
俺は歯磨き粉と歯ブラシを受け取り、裏の井戸まで行って歯を磨いた。タライの残り水で口をゆすぎ、囲炉裏の部屋に戻る。
「ありがとな、柚子」
「どういたしましてなのです」
「俺もいろいろな物、出してみたいな」
「この『具現化』の術はそんなに難しくないのです。今から『清めの御塩』を作った後に教えるのですよ」
「へい!」
俺は勢いよく返事をした。面白そうなことばかりだ。若くして、病気で死んでしまったことにいろいろと悔いは残るが、それはそれで「こちら」と柚子が言う世界で新たな生活が始まるのなら、何でもやってみたい気持ちになれた。
親より先に死んだら、三途の川の河原で、石を積み上げるとかじゃないんだな。昔、子どもだったころ、誰かからそれを聞いて、ひどい話だと思ったことがある。若くして死ぬのも、自殺だったら、その自分勝手な行いがひどい結果を招くことにもなるかもしれないけれど、それが病気だったら仕方のないことじゃないか。それなのに、あっち……いや、今は「こちら」か? みんな一緒にされてその世界で苦しめられるなんておかしい! と、子どもながらに思ったもんだ。
まさかその頃は、俺が高校二年に病気で死ぬとは思っていなかったけどな。
「弘?」
柚子がちょっと心配そうな顔で俺を見ていた。
「悪い、ちょっと考え事してた。えーと『清めの御塩』だよな?」
「あい」
「塩は台所だよな? 取ってくるわ」
「任せたのです」
俺は我にかえり、台所に塩を取りに行った。台所にはいくつか棚があり、そのひとつに、小さな瓶が並んでいるところがある。
「これかな?」
瓶に「塩」と書かれたものを取り出し、ふたを開けて、中身をちょっと手に置いて、ぺろっとなめてみる。うん。間違いない。普通の塩だ。
「あったぞー」
「それから『清めの御塩』を置くお皿も持ってくるのです」
「はいはい」
俺は皿と塩を持って、囲炉裏に戻ってきた。
「では、これから『清めの御塩』を作るのです」
柚子は皿を受け取って囲炉裏の横に置いた。木片を手に取って、火をその先に取ると、むにゃむにゃと何かを唱えた。すると、今まで赤い火が燃えていたのが、きれいな青色の炎に変わった。柚子は、皿の上に火を持っていく。
「ここに、さっきと同じようにきれいになるよう念じながら、塩を落とすのです」
「お、おう!」
きれいになれ、きれいになれ!
俺は神経を集中させて念じた。火の中に落ちていく塩がまた、きらきらと光ったように感じた。皿に落ちた塩は、ミクロサイズの水晶のように輝いている。
「これでいいのか?」
「あい」
柚子がにっこりと笑う。
「この『清めの御塩』は、護身用に常に持っておくといいのですよ。入れ物を持ってくるのです」
そう言って、柚子は台所に歩いていった。
ふー。神経を集中させると、けっこう疲れるものなんだな。俺はひと息つきながら、囲炉裏の火にあたっていた。すると、だれもいないのに声が聞こえた。
「……貴様か。天照さまに見込まれたヤツというのは」
囲炉裏の火だ。火から声がしている。見ているうちに、真っ赤な火がどんどんと燃え盛り、人の大きさくらいになった。
「俺は工藤弘人と言います。あなたは?」
「ふむ。礼儀はわきまえているようだな。我が名は火之加具土命だ」
火に顔のようなものが浮かび、豪快に笑った。たちまちのうちに火は人の姿となり、勾玉を首にかけ、赤い髪を顔の両脇で角髪に結い、黄金色の瞳をした男のひとが現れた。
「工藤よ。貴様の力を見せてもらおう」
火之加具土命さまはむんずと腕を組み、仁王立ちになって俺を見ていた。体育系の実力はからっきしの俺が、どうすれば良いのか、さっぱり分からない。
「あっ、カグツチさま!」
「柚子!」
俺はすがるように柚子を見た。
「さあ尋常に、相撲をとろうではないか」
火之加具土命さまが、どんっとしこを踏んでいる。
いや、無理無理。俺、小さなときにやった子ども相撲大会じゃ、最弱だったんだから。
こんなにいかつい神さまと組んだら、ひとひねりで負けそうだ。
「さあ来い!」
どっしり構える火之加具土命さま。
……やってみるしかないか。
「えやあ!」
俺は奇声をあげて火之加具土命さまに向かっていった。
ころん!
畳の上に、すぐに転ばされてしまう。
「なんだ、まったく弱いではないか!」
期待外れな顔をして、火之加具土命さまは肩をすくめた。
「ではこちらからいくぞ!」
俺は、ぐいっと両手で持ちあげられ、また畳に突き落とされた。痛い痛い。ああ、こちら側でも、ちゃんと痛みってあるんだな。俺はそんなことを感じた。
「弘! 今こそ『清めの御塩』をつかうのですよ」と、柚子の声がする。
「どうすればいい?」
「御塩をカグツチさまにまくのです」
「分かった!」
俺は皿の上の塩をつかみ、ぱらぱらと火之加具土命さまにまいた。塩が輝きながら火之加具土命さまに当たる。
「むう……」
火之加具土命さまは無念そうな顔をした。そして、もとの火に戻り、するすると小さくなっていった。
「ちょうど良かったのです。御塩の効果を、これで簡単に説明できるのです」
柚子が、ふぅと息をついた。
「今のは、何だったんだ?」
「カグツチさまは好奇心旺盛な方で、火があればそこにおられる神さまなのです。あいさつがわりに、弘と相撲をとって、実力を確かめたかったのだと思うのですよ。剛腕な方なのです」
「で、何でこの塩で退散したんだ?」
「この『清めの御塩』は、相手を傷つけようとする闘争心などといった、邪念を持った存在を、我に返したり、払ったりできるのですよ。今回はカグツチさまの闘争心を抜いたのです。弘は腕力は無いですが、最初から神であるカグツチさまを払えるなんて、邪気払いに関しては見込みがあるのです」
なるほど。護身用と柚子が言ったわけだ。
「弘にちょうどいい入れ物を見つけたです。これで、御塩をいつも持っておくのです」
柚子がガラス製の小さな紫色の小瓶を俺にくれた。柚子の言う「こちら」じゃ、囲炉裏にあたっているだけだって何があるか分からない。そのことを実感した。神として邪気を払うことができるようになると天照さまが言っていたことを、実体験で学んだわけだ。
火之加具土命さまも、もとから悪い神さまでは無いようだし、相撲の相手をしてくれたことに、感謝しておこう。俺は囲炉裏の火に向かって手を合わせ、心のなかで礼を言った。パチリ、とまるで返事のように、火がはぜた。
「弘は礼儀正しいのです」と、俺を見ていた柚子が言った。
「火之加具土命さまが火の神さまなら、人はお世話になりっぱなしの神さまだからな。ああ、でも、俺も見習いだけど神さまなら、神さまが神さまに祈るってなんだかおかしいな」
俺は笑った。
「今回は来たのがカグツチさまだったから良かったのです。これが、悪霊や悪さをする妖怪変化のたぐいだったら、どうなっていたことかなのです。幸い、この家は結界を張っているので、そんな悪さをする存在は入ってこれないようになっているのですが、ここから外に出るときには用心したほうがいいのです」
「分かった。この『清めの御塩』は大切にするよ」
俺は小瓶に入るだけ『清めの御塩』を入れた。
「ふう、ちょっと休憩するよ」
俺はまた、囲炉裏の横にごろりと転がった。神経を集中させると本当に疲れる。昼寝しておこう。座布団をまくらに、目を閉じて、俺は静かに休みに入った。
火之加具土命……神話では、神々の母である伊邪那美が彼を生んだとき、火の神であるため伊邪那美の陰部を焼いてしまい、それが元で伊邪那美は死んでしまった。それに怒った父親の伊邪那岐が火之加具土命を殺してしまうというかなり不憫な扱い。
信仰としては、火山や温泉の神として今でも祀られている。このお話では、弘人の良き兄貴分として登場することになるだろう。