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男女の口論の声や野次で騒々しかった空間に響き渡った、盛大な音。間髪入れずに私も手を振り上げ、桃園愛香の頬を引っ叩いてやった。怒った洸くんが駆け寄ろうとしたのは視線だけで振り返り、睨んで止める。他の三人も、手を出してこようとしたけど鋭く睨んで制止した。
「桃園さん?」
痛い痛いと喚いている桃園愛香に話し掛けるけど、聞いてくれない。聞いてくれないどころか猫みたいに顔を引っ掻いてきたから、今度は二連続で引っ叩いてやった。
「もし! 桃園さんが洸くんに本気なら正々堂々奪えば良い。でももしゲームだからとか思っているのなら、ここは現実だよ?」
暴れようとする彼女の肩を無理やり掴んで押さえつけて、私が叩いた所為で赤く染まっている頬を今度はそっと撫でる。
「痛いでしょ? 現実だからだよ? 桃園さんは四人を本気で好き? それともゲームだから?」
「ゲームだからよ! だってせっかくヒロインになったんだもん! イベントスチルを目の前で見たいし、文化祭だって……歌いたかった!」
「私もね、見たいって思ったよ。イベントスチルも、歌も。でもそれは本物が目の前で見られるからで、偽物じゃない。気持ちがなかったらそれは偽物だよ。だからみんな怒ってるんだよ?」
「なによ、それ? だってゲームだもの! 現実の私は、もう死んでるッ!」
もしかしたらこの子は、生まれ変わった事が怖かったのかな? 死んでしまった記憶を持っていて、今いる場所がゲームの世界だとわかって更に怖くて……だからゲームにこだわっているのかな?
「ねぇ桃園さん。あなたはここで生きてる。この世界も現実で、怖くなんてないんだよ。ほら……温かいでしょう?」
包み込むようにして抱き締めたら、桃園愛香は崩れるようにして座り込んだ。怖かったんだねって言いながら背中を撫でると、子供みたいに大声で泣きながら私に縋り付いて来る。まるで溺れて、助けを求めている人みたい。
こんな目立つ所でずっと泣かせているのもどうかと思い、助けを求めて振り向いてみたら洸くんが側に来てくれた。
「場所、移そう」
洸くんの言葉に頷いたけど、桃園さんに縋り付かれていて立てない。困っていたら、生徒会長が桃園さんの肘を引いて立たせようとしてくれた。でも彼女の手が私から離れようとしなくて上手くいかない。
「大丈夫。逃げないよ。手を繋いで行こう?」
幼い動作で頷いた彼女は、差し出した私の手を握った。隣を歩く洸くんが不満そうな顔をしていたから、空いている手を伸ばして頭を撫でてあげる。私の為に怒ってくれたんだって、ちゃんとわかってるよ。いい子いい子と頭を撫でた手は洸くんに捕まって、連れて行かれたのは生徒会室だった。他の三人も一緒について来た。私はここの生徒でも生徒会のメンバーでもない部外者なんだけど入って良いのかな? 頭に浮かんだ疑問は端に追いやって、私は未だ泣き続ける桃園さんと並んでソファへ腰掛けた。洸くんは私の隣に立っていて、向かい側のソファには生徒会長が座り、他の二人はその後ろに立った。威圧感があって、なんだか怖い。
「あのね、私、死んだの。あなたもでしょう?」
「うん。私も死んで、生まれ変わったんだよ。前の記憶もある」
「怖くなかった? 私、車に轢かれて、痛くて、怖くて……気付いたらこの顔の子供になってて訳わかんなかったんだけど、恋歌のヒロインだって気付いて、ゲームだって、プレイしたら良いのかなって思ったの」
桃園愛香は、前世は十三歳で死んでしまったんだって。恋歌はその直前にハマってやりこんでいたゲームで、転生したのがこの世界だったからゲームを楽しめば良いんだと思ったみたい。ある程度の彼女の事情を聞いた後で再度怖くないのか聞かれて、私は苦笑を浮かべた。
「私は病気だったから。三十代まで生きられたし、癌だと告知されて、受け入れちゃってたからなぁ。もう一回生きられてラッキーってくらいにしか感じなかったかなぁ」
なんだかお気楽で申し訳ない。苦笑していたら、泣きそうな顔をした洸くんに抱き締められた。私は悲しくないんだよと伝える為に頭を撫でてあげる。子供をあやすように背中を叩いたら離れてくれたから、私は桃園さんに向き直った。
「ねぇ桃園さん。まずはごめんなさいをしなきゃ。謝って、もっとお話をしよう?」
許してくれるかはわからないけど、私が促したら桃園さんは目の前三人に頭を下げた。ごめんなさいっていう言葉と共に頭を下げた桃園さんを見た彼らが浮かべたのは、複雑そうな表情。
「酷い事、言ってごめんなさい」
続いて彼女は洸くんに頭を下げた。だけど洸くんは、嫌そうに顔を顰めている。
「ちぃは虐められて海外に逃げたりしないし、嘘つきでもない」
「うん。……本当に、ごめんなさい」
誰も許すとは言わなかったけど、私は頑張ったねって桃園さんの頭を撫でた。
「桃園さん、あの歌を歌いたかったんだよね? ここにピアノがあるし、私が伴奏するから歌っちゃう?」
たくさん泣いて、ごめんなさいの後には笑いたいじゃないか! 湿っぽいのって好きじゃないもん。
洸くんに許可を求めると仕方ないなぁって苦笑を浮かべて頷いてくれたから、私はピアノの準備をした。ちょっと私流のアレンジを加えて、ゲームの主題歌であり文化祭で歌うはずだった「恋歌」を弾く。戸惑っているのか桃園さんが歌おうとしないから、伴奏しながら私が歌い、笑い掛けると遠慮がちにだけど一緒に歌ってくれた。呆れているのか驚いているのかわからない表情を浮かべた四人の観客は、それでも邪魔せず歌わせてくれる。主旋律を歌う桃園さんの声を邪魔しないように時々ハモりを加えてみたりしつつ最後まで歌いきると、少しの余韻の後で観客の四人が拍手してくれて、桃園さんが初めて笑顔を見せてくれた。
転生仲間だからいっそこのまま友達になっちゃおうと私が言って桃園さんとは連絡先の交換をした。騒動の後始末は生徒会長がしてくれる事になって、私を心配した洸くんは早退する事にしたみたい。
「ちぃ、痛い?」
帰り道では重たく押し黙っていた洸くんが私の家に着いた途端泣きそうな顔して世話を焼いてくれる。左頬に出来た引っ掻き傷の消毒は染みたけど、まだ少し熱を持っている患部を冷やしながらソファへ体を横たえて、私は安堵の息を漏らした。
「やっぱり文化祭、連れて行くんじゃなかった」
横になった私の顔を覗き込み、頭を撫でてくれている洸くんは悲しそう。そんな顔しないでって気持ちを込めて、私は呑気な顔で笑って見せた。だけど洸くんは、安心するどころか泣きそうに顔を歪めちゃった。
「心配性だなぁ。大丈夫だよ、洸くん。私強い子だから」
「知ってるよ。だから好きになったんだし。……ちぃ、変態に誘拐されそうになった時にもそうやって、笑っていたんだよ」
そうだっけ? って首を傾げた私を、優しい笑みを浮かべた洸くんが見つめる。
「その時も、笑いながら震えてた。今日も、ほら」
そう言われて見下ろした私の手は、微かに震えていた。
「だ、だって……あんな殴り合いみたいな事したことないもん。男の人は四人揃って怖い顔してるし、上手く治めなきゃ桃園さんが危ないんじゃないかって」
「うん。ごめん。一人で背負わせちゃって。俺のやり方もまずかったよな」
「ほんとだよ! 洸くんのあんな怖い顔も声も初めてで……それも怖かった」
「ごめんね、ちぃ」
慰めるように髪を梳かれて、優しいキスが降ってくる。途端に安堵が心を温めて、体を起こした私は洸くんに抱き付いた。
「怖かったから、ぎゅってして?」
「いいよ」
洸くんの腕の中、私はゆっくり目を閉じた。
違う自分として生きていた記憶と死んでしまった記憶を持ったまま生まれ変わった先は、何故だか前世でハマっていた乙女ゲームの世界。街の名前、学校の名前に登場人物や設定が、ゲームと同じこの世界。だけどシナリオ通りに進む訳では決してなくて、ここに生きる人々はそれぞれ自分の考えや感情を持っている。だからやっぱりこの世界だって現実で、誰もがちゃんと生きている場所なんだって……今日の出来事を通して私は、改めて実感した。




