バス停の朝
私は毎朝、誰もが眠っている頃にバス停をほんの少しだけ自宅に寄せる。そのバス停は歩いて約10分のところにある。近いようで、実はなかなか遠い。私も今年で50になる。楽をしたいのだ。
来る日も来る日もバス停を動かした。楽をするためならどんな苦労もいとわない。苦労とは過ぎていくものだ。誰しもそのことを知りながら、苦労というものを面倒臭がり、その先にあるものを見ようともしない。簡単に無かったことにしてしまうのだ。だが私は違う。違うからこそ会社でもそれなりの評価を得られたのだ。
ある日のこと、私がいつものようにバス停へ向かうと、そこに寝間着姿の男が立っていた。その男には見覚えがあった。たしかバス停近くに住んでいる。
「部長じゃないですか」
男は私に気が付くとそう言った。ああそうだ、思い出した。新入社員の
「田中君じゃないか。なにしてるんだね?こんな朝早くに、こんな所で」
「いえね、このバス停、前は家の犬小屋の目の前に会ったはずなのに、大分ズレて来ていましてね。ああ、もちろん犬小屋を動かしたりはしてませんよ。それで、隣の家の前まで行ってしまいましてね、誰か動かしてるんじゃないかと思って、見張っているんですよ」
「ほう、世の中には変わった奴も居るもんだな」
困ったことになった。
「ところで部長こそ何をしているんです?」
私はごまかした。
「散歩だよ。散歩。健康に良いんだ。朝早くの散歩はね」
田中君は納得したような顔になった。
「散歩ですか。お供しますよ。あ、今ジャージに着替えてきます」
そう言うと、さっさと扉の向こうに消えていった。
今動かしてしまおうか?そんな考えが頭をよぎったが、すぐに思い直す。もし私を疑っているのなら、これは罠かもしれない。慎重になろう。今日1日くらい散歩してやろう。そんな風に考えていると田中君が戻ってきた。
「すみません。お待たせしちゃって」
「構わんよ。では行こうか」
「あ、そうだ。犬も一緒に良いですか?」
田中君が連れてきたのは太り気味の柴犬。私の方を見てワン!と一声。
「あ、ああ、構わんよ」
その後一時間ほど歩き、他愛の無い会話をして過ごした。帰りにバス停に寄るが、もうみんな起きている時間だった。
次の日も、また次の日も田中君は私よりも早くバス停にいた。
「あ、部長。待ってましたよ」
ジャージ姿で決まって向こうから声をかけてくる。そして一時間ほど散歩するのだ。
そんな朝が二週間ほど続いたころ、私は田中君に老後のことを聞かれた。
「そうだね。退職後は趣味の釣りでもして過ごそうかな。海、川、渓流いろんなところに足を運んでね。きっと楽しいだろうね」
田中君は感心したような顔で言った。
「釣りですか。良いですね。でもそんなにいろんな所に行くとしたら、やっぱり身体って丈夫じゃないといけませんよね?」
この男、全て知っているんじゃないだろうか?だが、確かにそうだ。今楽をしてしまうと老後の楽しみが一つ無くなってしまうかもしれない。そうなってはまずい。
「年をとると足腰が弱くなってきてね。だから毎日朝早くに散歩なんかしているんだよ。全く身体だけは若い頃のようには動いてくれんよ」
バス停は動かさない方が良いかもしれない。すでに1メートルほど動かしてはいるが、もうこれで止めてしまおう。たった10分歩けば良いだけなのだ。今後何十年人生があるかわからんが、後何十年かのために毎朝歩こう。散歩だってしよう。
「田中君。君には私が退職するまで散歩に付き合ってもらうぞ?」
「え?あ、はい。喜んで」
そう言って田中君は笑った。やはり分かっていたか。私は大袈裟に咳払いをして言った。
「田中君。苦労というものは若いうちにどんどんしておくことだ。後が楽になるからね」
「はい?」
戸惑う田中君を見てしてやったりと思いながら、私は歩くスピードを上げた。老後がもう楽しみだ。そのためならどんな苦労もいとわない。遠くで朝日が昇っていった。
高校二年くらいの時に書いた話。ノートに書いてあったのでそのまま投稿。