序章
愛宕さまの神社の境内に、彼女はいた。
灯篭に腰かけ、麦わら帽子を目深に被っていた。いつもの薄汚れたノースリーブやジーンズではない、僕には学校の制服のように見えた。地元の中学校のそれのような野暮ったいセーラー服ではない、もっと上等なものだ。
赤いネクタイを締め、白のブラウスの上に紺のブレザーを羽織っていた。どこの学校の制服か確かめるのには、時間はかからなかった。
――――そういえば、彼女は祖父の子飼になっていた間、学校には通っていたのだろうか。今となっては確かめるすべなどないのだが。
僕が石段を昇ってくるのが既に分かっていたらしく、昇りきるとすぐに目が合った。
息を整えて彼女に近寄ると、彼女はすっくと立ち上がった。
これまで何度頭を下げたか、何度悔いたかわからない。元はと言えば、彼女の名誉を傷つけたのは僕の軽率な行動が原因だ。僕の心には、常にどこか陰りがあった。
「あっ、あの……」
僕は彼女の胸のあたりを見つめたまま、動けなくなってしまう。この機を逃せば、今生の別れになるかもしれないと思うと、緊張で身体が強張った。
「……いろいろあって、渡せなかったけど」
僕は母の形見の髪留めを巾着から取り出した。
「父さんからは、その……自分の本当に大切な人に渡せって、言われて、あの」
「わたしが、大切?」
「もちろん」
彼女は怪訝な顔をして、僕の手に握られた琥珀の髪留めを覗き込んだ。
「僕の、死んじゃった母さんのなんだ、これ。君に使ってもらいたくて……」
彼女は黙って僕の言い分を聞いていた。
断られるだろうか。彼女にとっては曰くつきの髪留めと言っても過言ではないが――
「大切じゃない相手になんか、毎日会いに行ったりしない。君以上に大事な人なんて、僕にはいないんだ。僕は君と、君といっしょに居たい」
生まれて始めての、そして最後になるであろう僕の告白だ。
「話し上手な君に、たくましい君に、きれいな君に、僕はぞっこんなんだ。君が遠くに行ってしまう事なんて、僕は望んじゃいない。寂しくて死んでしまいそうなんだ」
最初は目を丸くしていた彼女は、僕の言葉の真意を理解してくれたらしい。徐々に白い頬が紅潮し、桃色に近い色になった。
「誰にも文句なんか言わせない、じいちゃんにだって、父さんにだって。何度でも言うよ、僕は――――」
「……やめてよ、はずかしい。貰うわ、それ貰うから黙って」
そう言って、彼女は髪留めを受け取ってくれた。
それ以降、僕達二人は灯篭の段差に座り込み、黙り込んでしまった。お互い伏し目になって、なかなか話を切り出せなかったのだと思う。
僕は意を決して、彼女に語りかけてみた
「ね、ねえ」
「なに」
「その……それ、いま髪に付けてみてくれないかな、なんて」
「何で」
「な、何でって、そんな……理由とかそういうのは、ないんだけど」
「……冗談だよ」
彼女は腰を上げ、数歩歩いてから僕の目の前に背を向けて立った。
やがて彼女は麦わら帽子に手をかけ、それを脱ぎさった。
黒髪―――では、ない。
帽子やフードに納められていたそれは、丁寧なシニヨンを編まれた銀の艶髪。白髪などとは似て非なる、神秘的な美しさを思わせるシルバー・ブロンドだ。
シニヨンの結びが解かれると、まだ冷たい春風に吹かれてふわりとその銀髪が舞った。
竹藪から射す西日によって照らされきらきらと輝き、しなやかに揺蕩う髪の束に気品すら感じられた。念入りに手入れされた、艶美な白馬の尾やたてがみのようにも見えた。
傷みや枝毛などどこにもない、しろがねに光るたてがみだ。
「やっぱり――――すごいや」
思わず、僕は息をのんだ。
――――本当に、彼女は神様の使いなんじゃないだろうか?
やがて、彼女から声がかけられた。
「どう、似合うかな」
飴色の琥珀の髪留めで前髪を留めた彼女が向き直り、僕に言った。初めて見る彼女の眉や睫毛の色も、頭髪と同じ淡い銀色だった。長い睫毛に包まれた瞳は、若干赤みがかっていたように見えた。
「うん、とっても」
心臓がばくばくと躍る中、なんとか会話を続けた。
「君のお母さんより?」
「どうだろう。あんまり覚えてないんだ、母さんの事」
「ふうん……」
「僕さ、嬉しかったんだ。うちに帰ったって、家政婦さんは忙しそうだし、じいちゃんはいつもどっか行ってたし……猛とかはバカだから、真面目な話なんかできやしない。君になら、何でも言えた。何でも話せたよ。父さんにも言いたくないような事も、全部」
「……私、君のお母さんみたいじゃん」
瞼を細め、彼女はじっとりと言った。
不意に、彼女は僕の目の前に駆け寄ってきた。唇をわずかに歪ませて微笑んだかと思うと、勢いよく僕の肩を片腕で正面から抱きかかえた。
驚愕する僕の目と鼻の先には、彼女の紅玉のごとき瞳。火傷しそうなほど熱い吐息を感じたかと思うと、唐突に僕の視界は暗転した。彼女の掌に塞がれたのである。
やがて、人肌ほどの暖かみを孕む、弾力あるものが僕の口唇に触れ、押し当てられた。
それが彼女の柔らかな唇であると気付くのに、数秒を要したと思う。
彼女の腕にはぐっと力がこめられ、結ばれた唇がより強く交わり合った。顎に彼女の唾液が伝い、ぞくりとした。
掌と唇が僕の顔から離されると、火照り切った彼女の顔と再び体面できた。
未だ全容を把握できずに混乱する僕に、彼女は熱っぽく言った。
「いつか母さんなんかより、もっといいものになってあげる」