愛のある答え方
「行きたい所は無いか?」と聞かれたので、ちょっと考えて私は「買い物がしたい」と答えた。
少し考えてしまったのは……
本当なら私はクリスさんと一緒ならば何処でもいいのだけれど、きっとそう言ったらクリスさんは困っちゃうと思ったから。
「別に動物園とか、どこでも構わないぞ?」ってクリスさんは言ってくれた。
本当、優しい人だなぁ。
私みたいな子に、こんなにも優しくしてくれるなんて……
でも折角お仕事が休みなのに、私に付き合ってもらうのはちょっと複雑な気持ちになる。
クリスさんはお仕事が大変そうだったから、休みの日位ゆっくりしてほしい。
なのに……疲れているのに1週間に1回のお休みまで私の為に動いてもらおうなんて、とてもじゃないけどそんな気持ちにはなれなかった。
本当は私なんかに構わず、クリスさんはゆっくり休めばいいのに……
だけどもそう思っている私と逆に、クリスさんが毎週そう言ってくれることが嬉しい自分もいた。
お休みの日になって聞かれる度に「買い物がしたい」か「勉強がしたいから、何処にもいかなくていい」の2つしか言わない私の気持ちは、きっとクリスさんは知っているんだと思う。
だって、私がそう言うと……
クリスさんはいつも少し困った顔をするから。
その後は私が大好きな笑顔を浮かべて、大きな手で私の頭を優しく撫でてくれるから。
※※※
夏は日が長くて夜の10時頃まで明るいから、時計を持たない私には一体今が何時だか分からない。
多分駅前のカフェで遅めのお昼を食べて随分経つから、午後の5時は回っていると思う。
でも、私が知りたいのは時間なんかじゃない。
私が本当に知りたいのは、たった一人の大切な人が居る場所。
いつも私の歩みに合わせてゆっくり前を歩いてくれる、高くて広い大好きな背中を探していた。
今クリスさんとはぐれて、一人ぼっちになっているこの場所は……
私みたいな子がちっとも馴染まない、別世界の様な場所だった。
てっきり日用品の買い物や食材位を買いに、普段行くスーパーからちょっと歩いた量販店にでも行くのかな?と思っていたけど、今日は違った。
2つ電車を乗り継ぎ、辿り着いたのは初めて訪れた場所。
大きなビルが幾つも並んで、大通りにはどこまで行っても色々なお店があった。
沢山のお店と、沢山の人。
私達と同じでみんな買い物に来たのか、街行く人は色んな大きさの紙袋を一杯手に持っている。
格好だって、いつも見る人達と全然違う。
綺麗な服や色々なアクセサリーで身体のあちこちに飾っていたり、私と同じ位の子供だっていつもアパルトメント前の路地で遊んでいる子達とは少し雰囲気が違っていた。
「此処は平日も週末も関係無い、いつだって大勢の人が行き来している場所だからな」
って、クリスさんは驚く私に笑って教えてくれた。
そんなクリスさんを今、こうして必死に探しているのだが……
人混みの中いくら見回してみても、私は背が低いのであまり人を見分ける事が出来無い。
何度目か分からない溜息と、少しでも下を向いたら涙を流してしまいそうな自分が嫌でたまらない。
知っている場所や何度も通った道なら自分が何処にいるのかは分かるけども、何よりも今私がいる場所は初めて来た場所だ。
迷って何往復も同じ道を歩いたので、元来た方向はもう分からない。ただ人混みの中だけを見てクリスさんを探していたから、どんなお店が何処にあったのかさえも覚えていなかった。
どんなに私が一生懸命探しても……
今日は黒い半袖のシャツに白いスラックスを履いていたクリスさんの姿は、何処にも無かった。
どれ程歩いたのか分からない。
麦藁帽子を被っていたけれども、額から流れる汗と頭がガンガンするので、少しでも風を通したいと思って今は手に持っていた。
慣れないサンダルで歩き回っていた所為か、足が痛い。
少し休憩しようと思って、丁度今いる場所の横にある細い路地を見る。
正面のお店がカフェだから、多分そこは裏口なんだろう。
路地の途中にあった扉前の階段に腰を降ろして少し休憩しようとも考えたけど……もしも私が休憩している間にクリスさんが大通りを通ったら、きっと私もクリスさんも気付かないと思ってやめた。
それに、今着ている服は絶対汚したくなかったから。
私が着ているのは真っ白くて、裾に付いたフリルが可愛いワンピース。
この前14歳になった私に、クリスさんがプレゼントしてくれたものだ。
本当は毎日でも着たかったのだけど、汚れちゃうのが嫌だったし、家に持って帰るとママに取り上げられそうでずっとずっと着れずに鏡の前で合わせるだけだった。
――――私が今日それを初めて着たのは、クリスさんが笑う顔を見たかったから。
だから、階段に座ったりなんかして絶対に汚したくは無かった。
路地裏には入らなかったけれど、少し歩くのが疲れたのでカフェの横で立ち止まった。
オープンカフェのスペースにある日除けにほんのちょっと入るだけの形で、少し弱まったけれどそれでも強い夏の日光から身体を隠す。
本当は壁に背を預けたかったけれど、それも服が汚れそうな気がしてやめた。
そのまま大通りにあるカフェ前を行き来する人の流れの中で、必死に眼だけを動かしてクリスさんの姿を探す事にする。
きっとクリスさんも今頃は私を探しているんだろうな、と思うと少し胸が苦しかった。
元々は一緒に歩いていた時、1軒のお店の前で立ち止まったクリスさんが「預けていた物があるから、少し待ってろ」と言って、そのお店(多分バーか何かだと思う)の中へと入っていってしまった事が、はぐれた原因だった。
本当は「一緒に来るか?」と誘われたのだけれど、大人のお店なんか入っていいのか分からなかったし、ピカピカに磨かれた店のガラス越しに私が知らない人とお話をしているクリスさんの姿が目に入っていたから、後になってお店に入るのも遠慮してしまった。
入らなかった理由は、それともう一つ。
男の人と話すクリスさんの顔は、私がいつもずっと隣にいる時とまた違う「大人」の顔だったから。
――――私はまだ子供だから、きっとクリスさんは私にはそういう顔は見せてくれないのかな?
そう考えると少し寂しかったし、悔しく思ってしまったのは何故なんだろう?
だから私は、時々外に目を向けて私の様子を伺うクリスさんに申し訳無い気持ちに一杯になっていて、気付いた時には通りを挟んで丁度正面にある雑貨屋さんへと足が向かっていた。
別に何も見たいものは無かったけれど、でも少し私の知らないクリスさんがいる場所から離れたいと思って、知らない間に歩いていたのだ。
ちょっとだけ見てすぐ戻ってくればいいと思っていたから、クリスさんには何も言わなかった。
そして戻って来た時には……
ガラス越しに見えていた筈の、私が大好きなクリスさんの姿は消えていた。
今考えると、クリスさんを探して色々歩き回らなかったらよかったと後悔するけどもう遅い。
私がいくら歩き回っても、他の人よりも少し背の高いクリスさんの赤茶色の髪も見なかったし、逆に私の名前を呼ばれる事も無かった。
お洒落なカフェ横に立つ私の前を何人もの人が、右から左から次々と前を歩く姿が目に入る。
だけども、やっぱり私がよく知るあの人の姿は見えない。
目を止めず人混みを眺めていた私だったが、ふとある人達を見て目が留まった。
私と同じ歳位で黒い髪の女の子と、その子と同じ黒い髪色をした背の高い男の人が一緒に腕を組んで歩いていた。男の人は多分、クリスさんとそんなに変わらない歳だと思う。
何を話しているのかは分からなかったが、女の子は男の人と嬉しそうに話している。
話を聞いている男の人は口が動いていなかったけれど、優しい微笑みを浮かべていた。
目が2人を追いかけていたのは、きっと男の人が少しクリスさんに似ていたからだと思う。
彼が手に持っているいろんな色の紙袋は、多分女の子が買ってもらったものなのだろう。
私はクリスさんに「何か欲しいものはあるか?」って聞かれても、何もいらないって言っていたからクリスさんはあんなに紙袋を持っていなかったけれど……それでも私のものを幾つか買ってくれて、それを持っていてくれていた。
女の子が可愛い……私なんかがとても出来っこ無い程女の子らしい笑顔を浮かべて、一言だけ男の人に告げた言葉だけは遠くから見ても解った。
――――『お父さん、大好き』
彼女が言った言葉が解った途端、突然両眼から涙が零れたのは何故なんだろう?
悔しかったから?
羨ましかったから?
それとも……辛かったから?
一生懸命我慢するのだけど、涙は止まってはくれない。
周りを歩く人達の視線も、驚いて私を見るオープンカフェのお客さん達の視線も構わず……
私を心配して傍に来てくれたカフェの店員さんに声を掛けられるまで、ただひたすら泣きじゃくる事しか出来無かった。
※※※
オープンカフェの椅子に太ったおばさんの店員さんと一緒に座り、鼻を啜りながらジュースを飲んでいた私をクリスさんが見つけた時。
慌てて私の名を呼んでやって来たクリスさんの顔は、とても慌てていて……
私が初めて見る表情だった。
「……探したぞ、ロッテ」
椅子に座ったまま動かない私の傍へと来るクリスさん。
恥ずかしくて眼は合わせなかったけれど、心の中で最初は絶対怒られると思って覚悟をしていた。
だって私は、黙ってクリスさんの見えない所に行ってしまった悪い子なのだから。
もしこれがクリスさんじゃなくてママだったら、どんな事をされても文句は言えない。
だから……
私が座っている椅子の横にしゃがんで、私を見たクリスさんの口から「すまない」って言葉が出た時は、本当に驚いて何も言えなかった。
私が何も言えずにただ驚いていると、クリスさんは私の髪をいつもみたいに撫でてくれる。
その後私と一緒に座っていた店員さんにも謝って、暫く2人で何かお話をしていた。
驚いて暫く頭が混乱していたから、クリスさんは店員さんと何を話していたのかは殆ど分からなかったけれど、多分私の事なんだろうなとは何となく聞こえてくる声で分かった。
「ロッテ」
店員さんとの話が終わったらしく、クリスさんが私の名前を呼んでくれる。
いつも通りの優しい声で、私の大好きな声だった。
どうしてかは分からないけれど、やっぱり怒っている感じはしない。
私が顔を上げてクリスさんを見ると、ずっと私が探していた大好きな顔に微笑みを浮かべていた。
「すまなかったな、ロッテ」
「……私の方こそ……ごめんなさい」
謝るのは私の方なのに、もう一度クリスさんは私に謝ってくれる。
だから私もクリスさんに「ごめんなさい」を言ったのだけど結局怒られず、クリスさんはまた理由も分からず零れてきた私の涙を大きな指で優しく拭ってくれるだけだった。
「とても礼儀正しく、良いお嬢さんでしたよ」
私が椅子から立ち上がって、クリスさんに頭を下げてもう一度謝った時……
いつの間にか椅子から立ち上がって私達の方を見ていた店員さんの声が聞こえた。
ニッコリ笑ってクリスさんに言ったその言葉に、私の心臓が跳ね上がる。
その後は、ただ俯く事しか出来無かった。
私がオープンカフェの隣で泣いている時、心配して駆けつけてくれた店員さんに何と言えばいいのか解らず、咄嗟に出た言葉が「お父さんとはぐれてしまった」という言葉だったからだ。
店員さんは悪くない、私がそんな事を言ってしまったのだから仕方が無い。
だけども、クリスさんは一体どう思っているのだろう?
結婚もしていないクリスさんなのに、私みたいな子が娘と思われるなんてきっと迷惑だ。
クリスさんは優しいから多分怒らないんだろうけど、きっと知らない人からこんな事を言われて心の中では傷付いているかもしれない。
なのに、なのに……
顔を上げる事が出来ず俯いたまま眼を強く閉じ、唇を必死に噛み締めていた私の耳に入ったクリスさんの言葉が信じられなかった。
「ええ、有難うございます。
この子は私にとって……何よりも自慢の娘ですから」
クリスさんは、どうしてそんな事を言ってくれたのだろうか?
私には全く解らなかった。
解らないといえば……
零れるとばかり思っていた涙は、不思議と流れてこなかった。
※※※
帰りの駅へと向かう人混みは、私がはぐれた時と比べると遥かに少なかった。
人も少ないし、元々クリスさんは今までだって私に合わせてゆっくり歩いてくれていたから、本当なら絶対はぐれる事なんて無かったのだけど……
「もう俺の見えない所に行くな」と言われて私の手を握ってくれたクリスさんの手は……、私よりも大きくてゴツゴツしていて、いつもと一緒でとても温かかった。
元々クリスさんは余りお喋りはしない人だから、いつも一緒に歩いている時にお喋りはしない。
私は別にそれでもよかったし、クリスさんの横にいるだけでも楽しかったからいいのだけれど。
今日だけは普段通りの沈黙が、私には少し辛かった。
カフェから出て暫くお互いが無言で歩いている中、さっきクリスさんが言っていた言葉がずっと頭の中で何度も何度も繰り返されている。
最初はお互いの名前も知らなかったのに、ただママの言いつけで廊下で座っていた私に優しくしてくれたクリスさん。
部屋に入れてくれただけじゃなくて、美味しいごはんを食べさせてくれて、フカフカのベッドで寝させてくれた。さらには「また、いつでも遊びにおいで」と言って笑ってくれたクリスさん。
あの時私は、生まれて初めて「いい子」って言われて思わず泣いてしまった。
本当に、優しい人なんだなぁ……と思った。
初めて人に優しくしてもらった私は、本当に嬉しかったんだと思う。
だからまた、クリスさんに会いたいと思っていたんだろう。
クリスさんは私がいつ部屋に行っても微笑んで出迎えてくれて、沢山頭を撫でてくれた。
だからこそ時々、思う事がある。
「どうして……この人が私のお父さんじゃないんだろう?」って。
ママが全然起きない時、そう呟いて泣いた事が何度かある。
お父さんなんて生まれた時から私にはいないし、ママもお父さんがどんな人か知らないらしい。
だから私はクリスさんが本当にお父さんだといいのに、といつも思っていた。
優しく、私なんかに微笑んでくれるクリスさんが、本当のお父さんじゃないなんて悲しい。
だから私は……
さっきの親子を見て、本当に悔しかった。
だから私は……
さっきクリスさんが言ってくれた言葉が本当なのか、確かめたくても怖かった。
その言葉が嘘だったと知ったら、私はきっと今までで一番傷付いてしまうだろうから。
「……ロッテ?」
クリスさんが立ち止まって、私に声を掛けた。
そこで私は、考えながら握ってもらっていた手を強く握り返していた事に気付く。
「どうした?」
見上げると少し心配した様に、眉を寄せているクリスさんと目が合う。
今日はお仕事が無かったから髭を剃っていない、私が内緒で好きな顔は私だけを見てくれていた。
本当、クリスさんは優しい。
優しくて、私みたいな子を心配してくれるのだから。
だから私は、いつも甘えてしまうんだろう。
今だってそう。
――――だから私は、ずっと心に押し込めていた言葉を自然と口にしてしまった。
「……お父……さん」
自分の口から出た言葉が、私自身本当に信じられなかった。
どうして心の中でだけ押し込めておけばいい言葉を、わざと言葉に出してしまったのだろうか?
慌てて繋いでいた手を離して両手で口を塞ぐけれど、言ってしまった言葉はもう取り消せない。
驚きで何度か細くて茶色い目をパチパチさせているクリスさんと目が合った時、顔が真っ赤になって身体中がガクガクと震えた。
言ってしまったという恥ずかしい思いと、クリスさんを困らせてしまったという後悔。
これから先、私という存在がクリスさんに拒絶されるのじゃないかという恐怖で頭が染まった。
クリスさんは何も言わずに、ただ私の顔を見ているだけ。
少し浮かべているのは、思った通り困った表情だった。
こんな事は、絶対言っちゃ駄目だった。
どうして私は……
自分だけじゃなく大好きな人まで傷付けてしまったのだろう。
「やっぱり、今のは無かった事にしてください」と言い直そうとしたけれど、困った顔をした後に浮かべたクリスさんの表情を見て何も言えなかった。
眉は寄せられたままだけど、いつもよりさらに優しく微笑んでくれた様な顔。
さっき慌てて来てくれた時みたく、これも初めて私が見るクリスさんの表情だった。
「有難う……ロッテ」
私の好きな低く優しい声で、お礼を言われる。
でも、どうしてお礼を言われるのかが解らなかった。
「こんな俺でも……父親みたいに思ってくれているなんて……有難う」
少しクリスさんの声が震えている様な気がしたのは、私の勘違いなのかな?
お礼を言うのは、私の方なのに……
こんな子供なのに、お父さんって呼んでも怒らなくて有難う。
そう言わなきゃいけないのは、私の方なのに……
何か言おうと思ったのだけど、鼻の奥がツーンとして何も言えない。
クリスさんはそれ以上何も言わず、また私の手を取って今度は少し早足で歩き始めた。
私の手を引くクリスさんは絶対に振り向かなかったけれど……
歩く直前まで顔が赤かったのは、私の見間違いじゃない。
見上げると、短く切った赤毛の横から出た耳がやっぱり真っ赤だった。
強い力で握られた手も、やっぱりさっきより暖かい。
だから私も…………
離れる筈の無い強く握られた手を、笑顔で力一杯握り返して涙を堪える事にした。