文学作品における救済とは何か ーAさんの批判に応えるー
少し前に私が以前書いた「村上春樹における弱者切り捨ての構造」という文章に対する批判を頂いた。「小説家になろう」の方のコメント欄に批判が出ている。
批判をくれた方は「Aさん」としておく。Aさんの私への批判は、私自身は十分に説明済みのつもりだったのが、こうした批判が出てくるというのはまだ説明不足だったのかもしれない。いずれにしろ、Aさんの私への批判は私の思想の核心に触れるものであり、これについて説明しておく事は意味のある事だと思うので、書いておこうと思う。
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先にAさんの私への批判を引用しておく。
【「現実が地獄である」と断じてしまうのは欺瞞だと思います。現実が地獄だというならなぜ大多数の人はとっとと自殺しないんでしょう。溝に落ちたのが自分自身だと本気で思えるならとっとと自殺するのが合理的ではないでしょうか。現実が地獄というのが文学的に上位に位置する観念だというなら、自殺しない人は共感性や客観性の欠如の為に自殺しない文学的白痴という事でしょうか。
人間は現実の不条理を感じながらも、希望を持って生きる事を強いられています。無意識的に生きる事に何らかの希望を持ってしまっています。仮に自殺するにしても体は生きようとしますし苦しみを無くしたいという希望に向かって生きているという事で結局希望を持ってしまっています。
人間の本当の悲しみや妙味はどんな悲惨な状態になっても身体的にも精神的にも希望から逃れられない運命を背負っている事にこそあり過去の偉大な作家もそういう視点から現実を描いているのだと思います。
その点ヤマダヒフミさんの文学は完全に神視点になっていて人間臭さが感じられません。現実が地獄と知らずに生きてるアホに現実を叩きつけてあげて、現実より上位の形而上学的な文学ワールドで救済してあげるという上から目線を感じます。ドストエフスキーがそんな上から目線で作品を書いたでしょうか。ソーニャやラスコーリニコフをなぜか自殺しないアホとして描いたでしょうか。断じて違います。
ソーニャは救われたいという希望を持っている、ラスコーリニコフはナポレオンになりたいという希望を持っている、そしてその姿はドストエフスキー自身とも重なっています。偉大な作家は神視点のようで神視点に立っていません。希望を持って動き回る人間の破滅を描きながらも、自分自身の希望を自覚した上で、文学という現実世界で救済しようとしているのです。これはヤマダヒフミさんのやり方と似ているようで全く違う話です。
そういう観点から多崎つくるを見ていくと、意図的かどうかは分かりませんが現実の日本社会から目を背け弱者を切り捨ててでもいまだにバブルに縋らざるを得ないというのはもの悲しさがあり、手放しで評価はできませんがそんなに悪い作品とも思いませんでした。】
まず最初に言っておくべきは私はAさんに好感を持っているという事だ。この方は真面目に文学を読もうとしているのが感じられる。私も若い頃にこういう事を言ったかもしれないと思う。
ただAさんの言っている事は間違っていると思うので、それについてこの文章では書いておく。正確に言うと、「間違っている」というよりは、Aさんに近い考え方から私も自分の思想を進めて今の考えに至ったのだが、ここには時間的な差異があるのではないかと思う。
まず言っておくべきは私は純然たるニヒリストではないという事だ。Aさんが私に当てはめているイメージは間違っている。私は別に人々に現実の厳しさをぶつけて喜ぶサディストではない。
そうではなく、作品における救済とは、作品内部にあるのではなく、作品そのものの構造として、語り得ないが示し得るとして現れる、文学というものが進んでいくとそのような形になるのではないか、というのが私の論点だ。
この点をAさんは明らかに理解していない。Aさんの問題点は「救済」という問題を、作品内部のキャラクターが具体的に救われなければ存在し得ないと考えている事にある。
Aさんはドストエフスキーの「罪と罰」におけるソーニャとラスコーリニコフは救済されようと必死にもがいている、お前のような高等な形而上的な理念の持ち主とは違うのではないかと私を糾弾している。
Aさんはその後で村上春樹の「多崎つくる」に言及し、「そんなに悪い作品とも思いません」と言っている。この「罪と罰」から「多崎つくる」への移行はたしかに間違っていない。両作品とも主人公がもがき苦しみながら救いを求め、最後に救いを得る作品と言う事ができるからだ。
Aさんの批評は村上春樹にはよく当てはまると思う。ただ、私からするとAさんは二つの間違いを犯している。
まず一つはドストエフスキーは「罪と罰」以降、明らかに「罪と罰」のような、「メインとなるキャラクターが作品内で救済される」という構造を取らなくなっているという事だ。この事は意図的かどうかはわからないが、Aさんは言及していない。
もう一つはそれとも関わる事だが、「罪と罰」でラスコーリニコフが内面的に救済されてしまった場合、「ラスコーリニコフは二人の人間を殺したのに、救われていいのか」という問題が現れてくる。Aさんはこの問題を切り捨てている。
これは「多崎つくる」に関しても同じであり、多崎つくるも主人公が救済に至る過程で、犠牲者は切り捨てられるという構造になっている。この矛盾は「罪と罰」と「多崎つくる」は似ていると言ってもいい。
ただ、一つ目の問題点で書いたように、ドストエフスキーは作家として成長してこの欠点を克服していった。
しかしだからといって「罪と罰」が駄目な作品というわけではない。私自身もっとも強烈な影響を受けたのは「罪と罰」であり、愛着がある作品は「罪と罰」だ。しかし批評をする上ではこの構造の問題は見過ごす事はできない。
ドストエフスキーの五大長編を見渡すと、主人公が作品内で救済された、と言える作品は二つある。一つは「罪と罰」であり、もう一つは「未成年」だ。
「罪と罰」に関してはドストエフスキーが本格的な長編をものにした最初の小説であり、最後のラスコーリニコフが救われる部分に関しても、色々な議論がある。この部分はあやふやであると言う事もできるし、第二の問題、つまりラスコーリニコフがソーニャと共に救われたとして、そうなると「殺人者のラスコーリニコフが勝手に救われていいのか」という問題が現れてくる。
Aさんは「ラスコーリニコフはナポレオンになりたいという希望を持っている」と書いている。この文章は私はAさんがうっかり書いてしまったのではないかと思う。もしそうでないなら、ここは大きな問題がある。
ラスコーリニコフがナポレオンになりたいという希望を持っているのはいいとして、その希望によって他人を踏みつけにしていいのか、という事が「罪と罰」のテーマになっている。ドストエフスキーは村上春樹ではない。村上春樹よりも思想的には遥かに先に進んでいる。
Aさんの批判はある意味で私にとっても示唆的だが、ラスコーリニコフがナポレオンになりたいというのが「希望」だという事は、結局は現代的な意味においての救済とは自我の拡大であり、自我を他人に認めさせる事にあると言っていいのだろう。Aさんの一文からはそういう思想が見えている。
しかしドストエフスキーがまさに考えていたのはこの事だった。つまり、ある人間の希望が叶えられる為に、他人を踏みつけにする事は許されるだろうか? ここにドストエフスキーが生涯闘った思想の核がある。これは「カラマーゾフの兄弟」のイワンの大審問官までまっすぐに続いていく。
ドストエフスキーはAさんよりも思想的に遥かに進んだところから振り返って、ラスコーリニコフやソーニャを描いている。だからドストエフスキーにとって批判の対象となったラスコーリニコフの理想はAさんにとっては「希望」に替わってしまう。
だが、こう言うと、Aさんはこう言うだろう。「いや、それはあなたの高踏的な抽象的な理屈に過ぎない。ラスコーリニコフやソーニャは現実に苦しみながら生きようとしているのであって、あなたとは違うのです!」と。
私がAさんが理解していないと思うのは、ドストエフスキーにとって、ナポレオンになろうとするラスコーリニコフは批判の対象ではあるが否定の対象ではないという事である。私は繰り返し言っているがここに文学の面白さがある。
作家は批判の対象に対してもその内実、キャラクターの内面に潜り込んでそのキャラクターを生き生きと描く事ができるのだ。それは読者から見ると「肯定」に見える事もある。というより、そのような見方は優れた作家ほどに可能なようにできている。
しかしそれを私が批評として、論理としてなぞるとどうしても「ドストエフスキーはラスコーリニコフのナポレオンになろうとする理想に対して批判的だった」となる。それは、私のしている事が批評なのでそうならざるを得ないのだ。
また、Aさんは「ある人物が主体的に救われたとすると、その為に犠牲になった人物やこの世界で救われずに死んでいった人達はどうなるのか」という事を考えていない。この点をAさんは見ていない。これは村上春樹と同じだ。
ラスコーリニコフで言えば「二人を殺しておいて勝手に救われていいのか」という事だ。ドストエフスキー自身はこの問題を後の作品では克服して、「罪と罰」のような終わり方は「未成年」を除くとしていない。
私が「未成年」を「罪と罰」と同形とするのは、実質的主人公のヴェルシーロフが愛する女性の元に戻り救済される、という終わり方をしているからだが、しかしヴェルシーロフは作品の最後では白痴のようになってしまう。この終わり方は作品内部で内面的に救済されたと言えるか、怪しいラストになっている。
「罪と罰」以外の四作品がどのように「罪と罰」のラストを克服したのか、細かく見ていくと文章が長くなるのでやらないが、少なくとも「罪と罰」で主要なキャラクターが内面的に救われるという形は、後の作品では大っぴらには描かれなくなっている。これはドストエフスキーが「罪と罰」の問題点を作家として克服したか、少なくとも克服しようとした結果と私は考える。
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Aさんの批判の問題点は以上のようなところにあると私は思う。ただ私自身はAさんに同情的ではある。
Aさんが「罪と罰」と「多崎つくる」を繋げているところを見ると、Aさんは、小説というものを「キャラクターが苦しみながらも前進して、最後には内面的に救われる事」に魅力を感じて読んでいるのだろう。
そしておそらく私の村上春樹批判がAさんにとって腹立たしく感じたのは、私がそのような救済を真っ向から否定しているように感じたからだろう。つまり自分の信じようとしていたものの否定に対して腹を立てたのだろう。
私は別に嫌味でもなく皮肉でもなく、Aさんにはトルストイを読む事をおすすめしたい。トルストイの小説は主人公が苦しみながらも最後には内面的な救済に至るという筋でできているからだ。村上春樹よりもトルストイの方が優れた作家なので、Aさんの路線で行くのであればそういう方向が良いのではないかと思う。
それと最後に答えておかなくてはならないのは、作品の内部でキャラクターが救われない場合、そうした場合に本当に救済はないのか、という事だ。
今ふと思い出したのは、トルストイのシェイクスピア批判だ。トルストイはシェイクスピアを猛烈に批判していたが、それは出口のない悲劇、何の道徳的解決ももたらさないシェイクスピアに対して腹を立てていたのだった。
ある意味でのこの怒りはAさんの私への怒りに近いのではないだろうか。Aさんは私の救済否定、ニヒリズムに腹を立てている。ただ絶望を突きつけるだけ(そう見えたらしい)の私に対して腹を立てている。トルストイにとってのシェイクスピア批判も似たようなものではなかったか。
確かにシェイクスピアの「ハムレット」は、何の解決ももたらさないように見える。ハムレットは逡巡し、悩むのだが、その実存的な悩みは解決されたのか、されなかったのか、わからない。ハムレットは復讐を達成するが、彼に復讐を促した父の亡霊は出てきて最後にハムレットに礼の一つをするわけでもない。ハムレットは自身も毒にかかって死んでしまう。事件は解決されたのかわからないまま、主要な登場人物のほとんどが死んで幕が降りる。
シェイクスピアの悲劇はたしかに何の解決もないし、本来救われるべき人物も救われない。「リア王」でコーディリアが死ぬのがその良い例だ。染み一つない美しい女性で、心も美しいコーディリアは、舞台上では端役の兵士にあっさりと殺される。しかも死ななければならない必然性も別にない。
これらの事はどういう意味を持っているのだろうか。私は以前からこの事が不思議だった。
というのは「ハムレット」とか「リア王」、「マクベス」にしても、一応事件の解決と言えない事もないが、しかし本来死ぬべきではないまともな人間や善良な人間もたいていはあっさりと殺されてしまう。シェイクスピアの悲劇が終わるとその多くのキャラクターが死体になっている。そしてとにもかくにも次の世代の人達がやってきて強引に幕を閉める。
そのような終わりなのに、私はシェイクスピアの作品に強烈なカタルシスを感じてきた。最後には死体だらけで何も解決していないのに、どこか爽やかな、徹底した「救済」を感じてきた。これはトルストイを超えるものとして私には感じられる(私がここでドストエフスキーからシェイクスピアに話を変えたのはシェイクスピアの方が構造的にわかりやすいからだ)。
この事は何故だろうか。これはとりあえず次のような比喩で考えてみたい。
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高校生の頃、嫌いなのが数学の授業だった。私は文系なので数字はからっきしだ。ただその時に方程式を解く問題があった。方程式を解くとXの答えが出る。Xの答えを解答欄に書く。
その際に「X=解なし」という答えがあった。普通は「X=3」とか答えがあるのだが「解なし」の場合もある。その時は何とも思わなかったが、今になってその事実を私はよく利用する。
「X=解なし」とは解が存在しない、という意味ではない。Xには該当する解がない、という事だ。
これは論理的には、答えはない、という答えが出ているという事だ。この事実は示唆的であると思う。
これをAさんの議論に当てはめる。Aさんは、「主要なキャラクターが救済にたどり着く事が救済」だと思っている。これはキャラクターの内面Xに何らかの実数が当てはまる状態と考えられる。「X=3」のように。
一方で、シェイクスピアの作品ではそのような実数としての解はない。ハムレットの内面に何らかの答えが代入され、それが最後の答えとなる事はない。
しかしだからといってシェイクスピアの作品に欠点があるわけではない。そうではなく、ハムレットの内面にどのような実数を代入してもそれが答えにならない、とシェイクスピアはわかっている。これは「X=解なし」の状態と言っていいだろう。
それではこの「X=解なし」とはどのような意味においても救済は存在しない状態なのだろうか。キャラクターの内面に何らかの救済がもたらされなければ、Aさんの言うように、そこは救済のないニヒリズムの極地なのだろうか。私は違うと思う。次にはそれについて述べる。
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結論から言うと、救済とは、読者と作品との関係という形で「語り得ないもの」として現れる。それが答えだ。
シェイクスピアの悲劇の場合、悲劇の内部には何の救いもないかもしれない。主要なキャラクターはみんな死に、出来事は終わるが、問題は解決したわけではない。ハムレットは最後に言う。
「ホレイシオ、おれは死ぬ。
毒が全身にまわってきた。
生きてイングランドの報告は聞けないだろう。
しかし言っておく、王位継承はフォーティンブラスだ。おれの遺言を伝えてくれ。
そして起こったことを細大もらさず彼に話してくれ。もう終りだ」
(ウオールデンさんの記事より https://note.com/kusanoha1942/n/n04a3ed526dfa)
ハムレットは「起こったことを細大もらさず彼に話してくれ」と言う。しかし、実際には細大漏らさずに話す必要はない。というのは、その劇の全貌を見ていた存在がいるからだ。それが読者だ。
私がシェイクスピアを読んでいつも感じるのは「これは圧倒的に真実だ」という感覚だ。ここに全てが開かれており、全貌が明かされている。シェイクスピア作品に批評など必要ない。何故なら、これ以上の真実はないからだ。真実はこれ以上ないくらい公になっている。
「ハムレット」という劇が上演される。誰も救われる事もなく、キャラクターはバタバタと死んでいく。ハムレットはぶつぶつと呟きながら死んでいく。次の世代の人々がやってきて、幕は閉じる。
それら全てを認識しているのは読者であり、観客であろう。もし救済があるとすればそれは、悲劇としてしか生きられない人間存在を認識している「他者」がいる事にある。私はこれこそが「語り得ず示される救済」としての文学の構造であると思う。
この救済の形はAさんの気に食わないものかもしれないが、しかしAさんが誤解しているようなものではない。Xには実数が入れようとして入れられないわけではない。そこには「X=解なし」という答えが存在しているのだ。
この答えはその答えを認識している他者を誘発する。何故なら、作品の結論はあるキャラクターの内面に生まれた「概念」ではなく、語り得ないがしかし存在する読者という他者と作品との関係という形で存在するからだ。
誰も救われる事のない悲劇であったとしても、それを見ている誰かが存在する。ここに悲劇のカタルシスがあるのだと私は考える。
尚、付け加えるとすれば、私はここで言う「読者」を同時代の人間としての読者に限定しないでも良いと思う。それは時間空間を越えた超越的な「他者」に読まれる事は期待されても良いだろう。少なくとも私は作家はそのような救済の願望を持っても良いのだと思う。そしてこの事はAさんが私に突きつけるような、ニヒリズムの極地というものでは決してない。




