「先生、胸が苦しいんだ」と毎日診療所に通いつめる魔術師団長様に「それは恋の病です」と診断したら、「じゃあ責任取って完治(結婚)させてくれ」と居座られました。私も、まんざらではないようで。
「……先生。毎日胸が苦しいんだ。……どうだ、やはりおかしいだろう?」
王都の裏路地にひっそりと佇む『デティーシェ診療所』。
昼下がりの診察室に、切実さを装った、しかしどこか甘く濡れた声が響く。
診察台に腰掛けているのは、この国の誰もが知る英雄。
王宮筆頭魔術師団長、リシャール・エルディグマその人だ。
透き通るような群青色の髪。
知的な銀縁眼鏡の奥で輝く、琥珀色の瞳。
仕立ての良い純白のシャツのボタンを胸元まで開け、鍛え上げられた胸板を惜しげもなく晒している彼は、苦しげに眉を寄せていた。
「胸が痛いんだ。こう、締め付けられるように苦しくて、熱い。夜も眠れないほどだ」
私は無言で、彼の胸に当てていた聴診器を外した。
ゴム管が擦れる音だけが、静寂な室内に落ちる。
私は一度、小さく息を吐き出し、眼鏡の位置を人差し指で押し上げてから、手元のカルテに視線を落とした。
「……心雑音、なし」
サラサラと、ペン先を走らせる。
「肺雑音、なし。心電図は正常。先ほどの採血結果も、炎症反応を含めすべて基準値内。魔力回路の滞りも一切見られません」
「そんなはずはない。現に今も、動悸が止まらないんだ」
「ええ、確かに頻脈気味ですね。ですが、不整脈ではありません」
私はカルテをパタンと閉じ、回転椅子をくるりと回して彼と正対した。
リシャール様は、期待に満ちた目で私を見つめている。
まるで、重病の宣告を待ち望んでいるかのような、熱っぽい瞳だ。
私は冷静に、医師としての見解を告げた。
「リシャール様。診断結果が出ました」
「おお! やはり難病か? それとも呪いか?」
「いえ」
私は真顔で、彼を指差した。
「それは、『恋の病』です」
沈黙が落ちた。
古時計の秒針が進む音だけが、カチ、カチ、と響く。
普通なら、ここで顔を赤らめるか、否定するか、あるいは怒り出すところだろう。
しかし、目の前の魔術師団長は違った。
彼はゆっくりと、その端整な唇を三日月のように歪めたのだ。
それは、獲物を前にした肉食獣のような、妖艶で危険な笑みだった。
「……さすがは名医だ。一発で見抜くとは」
「やはり自覚症状がおありでしたか」
「ああ、あるとも。君の顔を見ると、胸の奥が暴れ出す。君の声を聞くと、体温が上がる。君が他の男――たとえば、あの近所のパン屋の息子と話しているのを見た時など、呼吸困難になりかけた」
リシャール様は悪びれもせず、朗々と症状(愛の告白)を並べ立てた。
「それで、先生。治療法は?」
彼は身を乗り出し、私の両手をそっと包み込んだ。
大きな手だ。
魔術師の手といえば華奢なイメージがあるが、意外にも骨ばっていて、男らしい。
その体温の高さに、私の指先がぴくりと震える。
「残念ながら、『恋の病』の特効薬はありません」
私は動揺を悟られないよう、あくまで事務的な口調を保った。
「唯一の対処療法として、交感神経を刺激する原因……つまり『対象』と物理的距離を置くことを推奨します」
「つまり、君と会うなと?」
「はい。刺激源を遮断すれば、次第にホルモンバランスは正常値に戻るでしょう」
「名医だと聞いていたが、誤診だな」
リシャール様は即答し、私の手をさらに強く握りしめた。
琥珀色の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
「それは逆効果だ、先生。今の私は、いわば『フラン成分欠乏症』なんだ。摂取しなければ禁断症状が出る」
「フラン成分などという物質は、元素周期表のどこにも載っていません」
「私の辞書には載っている。必須栄養素だ。これを見てくれ」
彼は私の手を引き寄せ、あろうことか自分の頬に押し当てた。
ドクン、ドクンと脈打つ血管の振動が、手のひらを通して直接伝わってくる。
「ほら、君が触れると、少し脈が落ち着くだろう?」
「……それは、副交感神経が優位になっただけです。安心感による一時的な鎮静作用で……」
「そう、安心感だ」
リシャール様は、私の手のひらに、そっと唇を寄せた。
熱い吐息が皮膚にかかる。
「君がいないと、私は息の仕方も忘れてしまいそうだ。……責任を取って、完治するまで私の主治医になってくれないか?」
完治するまで。
それはつまり、この『恋』が成就するまで――結婚するまで、という意味だということは、恋愛偏差値の低い私でも理解できた。
顔が熱くなるのを感じる。
いけない。私の恋愛経験の少なさが、仇になってる。
余裕がない、耐性がない。免疫が……ない。
前世では救急救命医として、睡眠時間も削って修羅場を駆け抜けてきた。
30代で過労死するまで、彼氏どころか合コンに行く暇すらなかった。
色恋沙汰なんて、私にとっては医学書よりも難解な未知の領域。
でも、私は医者だ。
常に冷静で、客観的でなければならない。
感情に流されれば、判断を誤る。
「……リシャール様。当院は予約制ではありませんが、長期療養が必要な患者の入院設備はありません」
私はなんとか手を引き抜き、彼から視線を逸らしてカルテ棚の方を向いた。
「お、お引き取りください。待合室には、本当に風邪をひいている患者さんが待っていますので」
「冷たいな。だが、そこがいい」
リシャール様は楽しそうに笑い、シャツのボタンを優雅な手つきで留め始めた。
「また明日来るよ。病状が悪化しているかもしれないからな」
「……はぁ」
「では、また明日。先生」
彼はウィンクを一つ残し、颯爽と診察室を出て行った。
後に残されたのは、彼がつけていた高級なムスクの残り香と、私の早まった心臓の音だけだった。
◇◆◇
それからというもの、リシャール様の「求愛」はあからさまになった。
彼は毎日、律儀に診療所の扉を叩いた。
「先生、今日は指先が冷えるんだ。君の手で温めてくれないか?」
「先生、目が霞む。君の顔を近くで見ないと焦点が合わない」
「先生、味覚障害かもしれない。君が作った菓子を食べれば治る気がする」
訴える症状は日替わりで、そのどれもが医学的根拠のない出鱈目だった。
私はその都度、「手袋をどうぞ」「眼鏡の度数を上げてください」「近所の菓子店を紹介します」と切り返したが、彼は全く懲りる様子がない。
それどころか、診療所の備品のように居座り始めたのだ。
◇◆◇
ある日の午後。
患者の波が引いた休憩時間のことだ。
私は調剤室で、薬草を粉砕して風邪薬の調合をしていた。
薬研でゴリゴリと薬草を擦る音が、静かな部屋に響く。
その横の丸椅子には、なぜかリシャール様が鎮座していた。
「……リシャール様。なぜ、ここに?」
「待合室は寒い。それに、ここなら君の働く姿が特等席で見られる」
リシャール様は、持ち込んだ大量の書類に目を通しながら、優雅にカップを傾けている。
飲んでいるのは、私が淹れた出がらしのハーブティーだ。
王宮で最高級の茶葉を飲んでいるはずの彼が、こんな安物を「世界一美味い」と言って飲むのだから、味覚障害の疑いはあながち間違いではないかもしれない。
「邪魔はしない。空気だと思ってくれ」
「存在感の塊のような空気がどこにありますか」
私はため息をつきつつ、調合の手を止めなかった。
前世の知識を生かした私の薬は、効き目が早いと評判だ。
だが、一人で切り盛りするには限界があるし、それは感じていた。
次の薬瓶を取ろうと、棚の高い位置に手を伸ばした時だった。
「あっ」
踏み台がガタリと揺れた。
老朽化していた脚が、重みに耐えかねて悲鳴を上げたのだ。
バランスを崩し、体が後ろに倒れる。
硬い床に叩きつけられる――と覚悟して目を瞑った瞬間。
ふわり、と。
風に包まれたような感覚と共に、温かい何かに受け止められた。
「……危ないな、先生」
目を開けると、すぐ目の前にリシャール様の顔があった。
彼は書類を放り出し、私を抱きとめていたのだ。
魔法を使った形跡はない。
純粋な反射神経と、身体能力だけで私を助けたのだ。
近い。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、心配そうに揺れているのがわかる。
私の白衣と、彼の服が擦れ合う音。
私の背中に回された腕の力強さ。
そして、トクン、トクンと伝わってくる、彼の心音。
「け、怪我はありませんか、リシャール様……! すみませんっ……!」
私が慌てて離れようとすると、彼は逆に腕に力を込めた。
「怪我はない。だが、心臓に悪い」
彼は低く囁き、私の耳元に唇を寄せた。
「……脈が速いな、先生。顔も赤い」
「こ、これは、驚愕反応によるカテコールアミンの分泌過多で、一時的な血圧上昇と頻脈が……!」
早口で医学用語を並べ立てる私の声を、彼は楽しげに聞いた。
「ふむ……私の病が伝染したわけではないのか?」
「感染症ではありません!」
「残念だ。二人で隔離病棟に閉じこもれたら幸せなんだが」
なんて不謹慎な例えだ。
でも、彼の腕の中から逃げられない。
逃げられないどころか、その温もりに安堵してしまっている自分がいることに、私は気づいてしまった。
彼の匂い。
彼の体温。
守られているという感覚。
ずっと一人で、気を張って生きてきた。
前世でも、今世でも。
医者として、頼られる側として、弱みを見せずに立ってきた。
誰かに支えられることが、こんなにも心地いいなんて知らなかった。
「……離して、ください。仕事が残っています」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
リシャール様は、名残惜しそうに、しかし素直に腕を解いた。
「気をつけてくれ。先生が怪我をしたら、私の心臓が止まってしまう」
その瞳があまりにも真剣で。
私は「大袈裟です」と茶化すことすらできず、ただ黙って赤くなった顔を背けることしかできなかった。
◇◆◇
その日の夕方。
空が急に暗くなり、バケツをひっくり返したような豪雨が降り出した。
ただの雨ではない。
窓ガラスを叩く雨粒が、紫色の微光を帯びている。
「……『魔素撹乱雨』ですね」
私は窓の外を見上げて呟いた。
魔法の回路を乱す、魔術師にとっては天敵とも言える雨だ。
これに打たれた状態で魔法を使えば、最悪、暴発する危険すらある。
「困ったな」
ソファで書類を片付けてくれていたリシャール様が、わざとらしいほど困った顔で肩をすくめた。
「これでは転移魔法が使えない。徒歩で帰るにも、この雨の中では防壁魔法も維持できないだろう」
「……馬車を呼びましょうか?」
「辻馬車も走っていないだろうね。この雨だ」
彼はチラリと私を見た。
その目は、明らかに「策」を弄している策士の目だ。
「仕方ない。止むまで待たせてもらうよ。……朝までかかるかもしれないが」
「朝まで!?」
「ああ、もちろんソファで構わない。床でもいい。君の診療所の床なら、王宮のベッドより寝心地が良さそうだ」
そんなわけがあるか。
ここは築五十年のボロ家だ。
だが、魔術師である彼を、魔法が使えない状態でこの雨の中、外に放り出すわけにはいかない。
「……わかりました。奥の休憩室を使ってください。狭いですが、ベッドがあります」
「先生のベッドを奪うわけにはいかない」
「私は夜通し薬の在庫整理をしますので」
「なら、私が手伝おう」
「いえ、患者のプライバシーに関わるカルテもありますから」
私は彼を押し切って、休憩室へと案内した。
狭い部屋だ。
シングルベッドが一つと、小さな机があるだけ。
そこに長身のリシャール様が入ると、部屋の酸素が薄くなったような圧迫感がある。
「シャワーを使ってください。タオルはそこにあります」
「ありがとう。……フラン」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、リシャール様が眼鏡を外していた。
銀縁のフレームがないだけで、彼の印象は劇的に変わる。
知的な魔術師団長から、無防備で、どこか艶っぽい一人の男性へ。
雨に濡れたわけでもないのに、琥珀色の瞳が濡れているように見えた。
「実は、まだ胸が痛いんだ」
彼は静かに言った。
「……嘘をおっしゃい」
私は精一杯の虚勢を張って言い返した。
「また仮病ですか? もう診察時間は終わりましたよ」
「本当だ。ここが、痛い」
リシャール様は一歩踏み出し、私の手首を掴んだ。
そして、強引に自分の左胸へと導く。
薄いシャツ越しに、手のひらが彼の肌に触れる。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
速い。
異常な速さだ。
そして、強い。
私の指先を弾き飛ばしそうなほど、心臓が激しく脈打っている。
「……っ」
私は息を呑んだ。
これは演技ではない。
魔法で操作できるものでもない。
彼の心臓は、本当に、壊れそうなほど高鳴っている。
「君と二人きりだと思うと、制御できない」
眼鏡を外した彼は、いつもより弱気に見えた。
その瞳が、すがるように私を見つめている。
「君が可愛すぎて、心臓が持たないんだ。……責任を取って、今夜はずっと脈を測っていてくれないか?」
なんて、馬鹿げた提案だろう。
一晩中脈を測るなんて医療行為は存在しない。
でも、今の彼に必要なのはそんな診断じゃない。
私の手だ。
私の体温だ。
それを、医師としての本能が――いや、一人の女としての本能が、理解してしまった。
彼の手が、私の頬を包む。
逃げようと思えば逃げられた。
でも、足が動かない。
私の心臓もまた、彼に共鳴するように、痛いほど脈打ち始めていたからだ。
ドクン、ドクン。
自分の鼓動なのか、彼の鼓動なのか、わからなくなる。
境界線が溶けていく。
「……リシャール様」
私は観念して、小さくため息をついた。
この人は、本当に重症だ。
そして私も、おそらく感染してしまった。
毎日、ぶつけられる彼の熱に。
彼の瞳に。
彼の、不器用で重たい愛に。
「……貴方は、本当に厄介な患者です」
私は彼の手を振り払わなかった。
それどころか、そっと握り返した。
「こんな重篤な症状、完治までどれくらいかかるか、見当もつきません」
「ああ。完治までは、一生かかるだろうな」
リシャール様は、嬉しそうに、泣きそうな顔で微笑んだ。
「責任を取って、完治させてくれ。先生」
彼の顔が近づいてくる。
私は拒否しなかった。
目も閉じなかった。
眼鏡のない彼の瞳に、私が映っているのをしっかりと見つめた。
室内には、雨の音に紛れて、唇が触れ合う音が小さく響く。
甘いキスを交わしながら、私はとろけそうな思考の中で自分自身に診断を下した。
動悸、発熱、思考停止。
ああ、間違いない。
処方箋が必要なのは、私の方だ。
……でも、この特効薬があれば、完治なんてしなくていいかもしれない。
私たちの唇は、雨音に溶けるように、深く重なった。
そして、診療所の扉に掛かった「診察中」の札が、誰の魔法か、ひとりでにパタンと「休診」へと裏返った。




