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「先生、胸が苦しいんだ」と毎日診療所に通いつめる魔術師団長様に「それは恋の病です」と診断したら、「じゃあ責任取って完治(結婚)させてくれ」と居座られました。私も、まんざらではないようで。

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/01/28

 

「……先生。毎日胸が苦しいんだ。……どうだ、やはりおかしいだろう?」


 王都の裏路地にひっそりと佇む『デティーシェ診療所』。


 昼下がりの診察室に、切実さを装った、しかしどこか甘く濡れた声が響く。


 診察台に腰掛けているのは、この国の誰もが知る英雄。


 王宮筆頭魔術師団長、リシャール・エルディグマその人だ。


 透き通るような群青色の髪。


 知的な銀縁眼鏡の奥で輝く、琥珀色の瞳。


 仕立ての良い純白のシャツのボタンを胸元まで開け、鍛え上げられた胸板を惜しげもなく晒している彼は、苦しげに眉を寄せていた。


「胸が痛いんだ。こう、締め付けられるように苦しくて、熱い。夜も眠れないほどだ」


 私は無言で、彼の胸に当てていた聴診器を外した。


 ゴム管が擦れる音だけが、静寂な室内に落ちる。


 私は一度、小さく息を吐き出し、眼鏡の位置を人差し指で押し上げてから、手元のカルテに視線を落とした。


「……心雑音、なし」


 サラサラと、ペン先を走らせる。


「肺雑音、なし。心電図は正常。先ほどの採血結果も、炎症反応を含めすべて基準値内。魔力回路の滞りも一切見られません」


「そんなはずはない。現に今も、動悸が止まらないんだ」


「ええ、確かに頻脈気味ですね。ですが、不整脈ではありません」


 私はカルテをパタンと閉じ、回転椅子をくるりと回して彼と正対した。


 リシャール様は、期待に満ちた目で私を見つめている。


 まるで、重病の宣告を待ち望んでいるかのような、熱っぽい瞳だ。


 私は冷静に、医師としての見解を告げた。


「リシャール様。診断結果が出ました」


「おお! やはり難病か? それとも呪いか?」


「いえ」


 私は真顔で、彼を指差した。


「それは、『恋の病』です」


 沈黙が落ちた。


 古時計の秒針が進む音だけが、カチ、カチ、と響く。


 普通なら、ここで顔を赤らめるか、否定するか、あるいは怒り出すところだろう。


 しかし、目の前の魔術師団長は違った。


 彼はゆっくりと、その端整な唇を三日月のように歪めたのだ。


 それは、獲物を前にした肉食獣のような、妖艶で危険な笑みだった。


「……さすがは名医だ。一発で見抜くとは」


「やはり自覚症状がおありでしたか」


「ああ、あるとも。君の顔を見ると、胸の奥が暴れ出す。君の声を聞くと、体温が上がる。君が他の男――たとえば、あの近所のパン屋の息子と話しているのを見た時など、呼吸困難になりかけた」


 リシャール様は悪びれもせず、朗々と症状(愛の告白)を並べ立てた。


「それで、先生。治療法は?」


 彼は身を乗り出し、私の両手をそっと包み込んだ。


 大きな手だ。


 魔術師の手といえば華奢なイメージがあるが、意外にも骨ばっていて、男らしい。


 その体温の高さに、私の指先がぴくりと震える。


「残念ながら、『恋の病』の特効薬はありません」


 私は動揺を悟られないよう、あくまで事務的な口調を保った。


「唯一の対処療法として、交感神経を刺激する原因……つまり『対象』と物理的距離を置くことを推奨します」


「つまり、君と会うなと?」


「はい。刺激源を遮断すれば、次第にホルモンバランスは正常値に戻るでしょう」


「名医だと聞いていたが、誤診だな」


 リシャール様は即答し、私の手をさらに強く握りしめた。


 琥珀色の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。


「それは逆効果だ、先生。今の私は、いわば『フラン成分欠乏症』なんだ。摂取しなければ禁断症状が出る」


「フラン成分などという物質は、元素周期表のどこにも載っていません」


「私の辞書には載っている。必須栄養素だ。これを見てくれ」


 彼は私の手を引き寄せ、あろうことか自分の頬に押し当てた。


 ドクン、ドクンと脈打つ血管の振動が、手のひらを通して直接伝わってくる。


「ほら、君が触れると、少し脈が落ち着くだろう?」


「……それは、副交感神経が優位になっただけです。安心感による一時的な鎮静作用で……」


「そう、安心感だ」


 リシャール様は、私の手のひらに、そっと唇を寄せた。


 熱い吐息が皮膚にかかる。


「君がいないと、私は息の仕方も忘れてしまいそうだ。……責任を取って、完治するまで私の主治医になってくれないか?」


 完治するまで。


 それはつまり、この『恋』が成就するまで――結婚するまで、という意味だということは、恋愛偏差値の低い私でも理解できた。


 顔が熱くなるのを感じる。


 いけない。私の恋愛経験の少なさが、仇になってる。


 余裕がない、耐性がない。免疫が……ない。


 前世では救急救命医として、睡眠時間も削って修羅場を駆け抜けてきた。


 30代で過労死するまで、彼氏どころか合コンに行く暇すらなかった。


 色恋沙汰なんて、私にとっては医学書よりも難解な未知の領域。


 でも、私は医者だ。


 常に冷静で、客観的でなければならない。


 感情に流されれば、判断を誤る。


「……リシャール様。当院は予約制ではありませんが、長期療養が必要な患者の入院設備はありません」


 私はなんとか手を引き抜き、彼から視線を逸らしてカルテ棚の方を向いた。


「お、お引き取りください。待合室には、本当に風邪をひいている患者さんが待っていますので」


「冷たいな。だが、そこがいい」


 リシャール様は楽しそうに笑い、シャツのボタンを優雅な手つきで留め始めた。


「また明日来るよ。病状が悪化しているかもしれないからな」


「……はぁ」


「では、また明日。先生」


 彼はウィンクを一つ残し、颯爽と診察室を出て行った。


 後に残されたのは、彼がつけていた高級なムスクの残り香と、私の早まった心臓の音だけだった。




 ◇◆◇




 それからというもの、リシャール様の「求愛」はあからさまになった。


 彼は毎日、律儀に診療所の扉を叩いた。


「先生、今日は指先が冷えるんだ。君の手で温めてくれないか?」


「先生、目が霞む。君の顔を近くで見ないと焦点が合わない」


「先生、味覚障害かもしれない。君が作った菓子を食べれば治る気がする」


 訴える症状は日替わりで、そのどれもが医学的根拠のない出鱈目だった。


 私はその都度、「手袋をどうぞ」「眼鏡の度数を上げてください」「近所の菓子店を紹介します」と切り返したが、彼は全く懲りる様子がない。


 それどころか、診療所の備品のように居座り始めたのだ。




 ◇◆◇




 ある日の午後。


 患者の波が引いた休憩時間のことだ。


 私は調剤室で、薬草を粉砕して風邪薬の調合をしていた。


 薬研やげんでゴリゴリと薬草を擦る音が、静かな部屋に響く。


 その横の丸椅子には、なぜかリシャール様が鎮座していた。


「……リシャール様。なぜ、ここに?」


「待合室は寒い。それに、ここなら君の働く姿が特等席で見られる」


 リシャール様は、持ち込んだ大量の書類に目を通しながら、優雅にカップを傾けている。


 飲んでいるのは、私が淹れた出がらしのハーブティーだ。


 王宮で最高級の茶葉を飲んでいるはずの彼が、こんな安物を「世界一美味い」と言って飲むのだから、味覚障害の疑いはあながち間違いではないかもしれない。


「邪魔はしない。空気だと思ってくれ」


「存在感の塊のような空気がどこにありますか」


 私はため息をつきつつ、調合の手を止めなかった。


 前世の知識を生かした私の薬は、効き目が早いと評判だ。


 だが、一人で切り盛りするには限界があるし、それは感じていた。


 次の薬瓶を取ろうと、棚の高い位置に手を伸ばした時だった。


「あっ」


 踏み台がガタリと揺れた。


 老朽化していた脚が、重みに耐えかねて悲鳴を上げたのだ。


 バランスを崩し、体が後ろに倒れる。


 硬い床に叩きつけられる――と覚悟して目を瞑った瞬間。


 ふわり、と。


 風に包まれたような感覚と共に、温かい何かに受け止められた。


「……危ないな、先生」


 目を開けると、すぐ目の前にリシャール様の顔があった。


 彼は書類を放り出し、私を抱きとめていたのだ。


 魔法を使った形跡はない。


 純粋な反射神経と、身体能力だけで私を助けたのだ。


 近い。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、心配そうに揺れているのがわかる。


 私の白衣と、彼の服が擦れ合う音。


 私の背中に回された腕の力強さ。


 そして、トクン、トクンと伝わってくる、彼の心音。


「け、怪我はありませんか、リシャール様……! すみませんっ……!」


 私が慌てて離れようとすると、彼は逆に腕に力を込めた。


「怪我はない。だが、心臓に悪い」


 彼は低く囁き、私の耳元に唇を寄せた。


「……脈が速いな、先生。顔も赤い」


「こ、これは、驚愕反応によるカテコールアミンの分泌過多で、一時的な血圧上昇と頻脈が……!」


 早口で医学用語を並べ立てる私の声を、彼は楽しげに聞いた。


「ふむ……私の病が伝染したわけではないのか?」


「感染症ではありません!」


「残念だ。二人で隔離病棟に閉じこもれたら幸せなんだが」


 なんて不謹慎な例えだ。


 でも、彼の腕の中から逃げられない。


 逃げられないどころか、その温もりに安堵してしまっている自分がいることに、私は気づいてしまった。


 彼の匂い。


 彼の体温。


 守られているという感覚。


 ずっと一人で、気を張って生きてきた。


 前世でも、今世でも。


 医者として、頼られる側として、弱みを見せずに立ってきた。


 誰かに支えられることが、こんなにも心地いいなんて知らなかった。


「……離して、ください。仕事が残っています」


 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 リシャール様は、名残惜しそうに、しかし素直に腕を解いた。


「気をつけてくれ。先生が怪我をしたら、私の心臓が止まってしまう」


 その瞳があまりにも真剣で。


 私は「大袈裟です」と茶化すことすらできず、ただ黙って赤くなった顔を背けることしかできなかった。




 ◇◆◇




 その日の夕方。


 空が急に暗くなり、バケツをひっくり返したような豪雨が降り出した。


 ただの雨ではない。


 窓ガラスを叩く雨粒が、紫色の微光を帯びている。


「……『魔素撹乱雨(マナ・レイン)』ですね」


 私は窓の外を見上げて呟いた。


 魔法の回路を乱す、魔術師にとっては天敵とも言える雨だ。


 これに打たれた状態で魔法を使えば、最悪、暴発する危険すらある。


「困ったな」


 ソファで書類を片付けてくれていたリシャール様が、わざとらしいほど困った顔で肩をすくめた。


「これでは転移魔法が使えない。徒歩で帰るにも、この雨の中では防壁魔法も維持できないだろう」


「……馬車を呼びましょうか?」


「辻馬車も走っていないだろうね。この雨だ」


 彼はチラリと私を見た。


 その目は、明らかに「策」を弄している策士の目だ。


「仕方ない。止むまで待たせてもらうよ。……朝までかかるかもしれないが」


「朝まで!?」


「ああ、もちろんソファで構わない。床でもいい。君の診療所の床なら、王宮のベッドより寝心地が良さそうだ」


 そんなわけがあるか。


 ここは築五十年のボロ家だ。


 だが、魔術師である彼を、魔法が使えない状態でこの雨の中、外に放り出すわけにはいかない。


「……わかりました。奥の休憩室を使ってください。狭いですが、ベッドがあります」


「先生のベッドを奪うわけにはいかない」


「私は夜通し薬の在庫整理をしますので」


「なら、私が手伝おう」


「いえ、患者のプライバシーに関わるカルテもありますから」


 私は彼を押し切って、休憩室へと案内した。


 狭い部屋だ。


 シングルベッドが一つと、小さな机があるだけ。


 そこに長身のリシャール様が入ると、部屋の酸素が薄くなったような圧迫感がある。


「シャワーを使ってください。タオルはそこにあります」


「ありがとう。……フラン」


 不意に、名前を呼ばれた。


 振り返ると、リシャール様が眼鏡を外していた。


 銀縁のフレームがないだけで、彼の印象は劇的に変わる。


 知的な魔術師団長から、無防備で、どこか艶っぽい一人の男性へ。


 雨に濡れたわけでもないのに、琥珀色の瞳が濡れているように見えた。


「実は、まだ胸が痛いんだ」


 彼は静かに言った。


「……嘘をおっしゃい」


 私は精一杯の虚勢を張って言い返した。


「また仮病ですか? もう診察時間は終わりましたよ」


「本当だ。ここが、痛い」


 リシャール様は一歩踏み出し、私の手首を掴んだ。


 そして、強引に自分の左胸へと導く。


 薄いシャツ越しに、手のひらが彼の肌に触れる。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。


 速い。


 異常な速さだ。


 そして、強い。


 私の指先を弾き飛ばしそうなほど、心臓が激しく脈打っている。


「……っ」


 私は息を呑んだ。


 これは演技ではない。


 魔法で操作できるものでもない。


 彼の心臓は、本当に、壊れそうなほど高鳴っている。


「君と二人きりだと思うと、制御できない」


 眼鏡を外した彼は、いつもより弱気に見えた。


 その瞳が、すがるように私を見つめている。


「君が可愛すぎて、心臓が持たないんだ。……責任を取って、今夜はずっと脈を測っていてくれないか?」


 なんて、馬鹿げた提案だろう。


 一晩中脈を測るなんて医療行為は存在しない。


 でも、今の彼に必要なのはそんな診断じゃない。


 私の手だ。


 私の体温だ。


 それを、医師としての本能が――いや、一人の女としての本能が、理解してしまった。


 彼の手が、私の頬を包む。


 逃げようと思えば逃げられた。


 でも、足が動かない。


 私の心臓もまた、彼に共鳴するように、痛いほど脈打ち始めていたからだ。


 ドクン、ドクン。


 自分の鼓動なのか、彼の鼓動なのか、わからなくなる。


 境界線が溶けていく。


「……リシャール様」


 私は観念して、小さくため息をついた。


 この人は、本当に重症だ。


 そして私も、おそらく感染してしまった。


 毎日、ぶつけられる彼の熱に。


 彼の瞳に。


 彼の、不器用で重たい愛に。


「……貴方は、本当に厄介な患者です」


 私は彼の手を振り払わなかった。


 それどころか、そっと握り返した。


「こんな重篤な症状、完治までどれくらいかかるか、見当もつきません」


「ああ。完治までは、一生かかるだろうな」


 リシャール様は、嬉しそうに、泣きそうな顔で微笑んだ。


「責任を取って、完治させてくれ。先生」


 彼の顔が近づいてくる。


 私は拒否しなかった。


 目も閉じなかった。


 眼鏡のない彼の瞳に、私が映っているのをしっかりと見つめた。


 室内には、雨の音に紛れて、唇が触れ合う音が小さく響く。


 甘いキスを交わしながら、私はとろけそうな思考の中で自分自身に診断を下した。


 動悸、発熱、思考停止。


 ああ、間違いない。


 処方箋が必要なのは、私の方だ。


 ……でも、この特効薬(キス)があれば、完治なんてしなくていいかもしれない。


 私たちの唇は、雨音に溶けるように、深く重なった。


 そして、診療所の扉に掛かった「診察中」の札が、誰の魔法か、ひとりでにパタンと「休診」へと裏返った。


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