第1話
リリエンシャール視点です。
「リリエンシャール!」
温室の扉を乱暴に開け、走り寄って来たのは弟のアリアだった。
「遅いわよ、アリア! 何やってたのよ!? な……なによ、その顔!? なにか文句があるの!?」
見上げる私と。
「…………ご無事で、リリエンシャールッ」
見下ろす弟。
「文句などありませんよ、リリエンシャール」
「……そ、そう。なら、いいけど」
いつもはきちんと整えてあるアリアの黒い髪が、乱れて額にかかっていた。
近衛騎士の制服の首元が、無造作に開けられていた。
普段の弟とはずいぶん違っていて……ちょっとだけ、どきっとした。
「お怪我はありませんか?」
「怪我なんか、してないわ……でも……」
私は座り込んだ姿勢のまま、いつもとちょっと違う弟の顔を見上げた。
「……ッ」
何でか分からないけれど、眼が離せなくて……。
「リリエンシャール? 頬が少し赤いような……まさか、熱が!?」
私の額に触れようとしたアリアの手を。
「だ、大丈夫!」
その手が、私に触れる前に両手で押さえた。
「リリエンシャール?」
だって、今は触られたくなかったから。
嫌なんじゃなくて……なんとなく。
「熱、出てないわ。も~うっ、アリアは来るのが遅い! 今夜はメレリン様のコンサートなのよ!? これからお風呂入って着替えて……間にあうかしらっ」
アリアが私を見つけるのに、こんなに時間がかかるなんて予想外だった。
私が上手に隠れすぎちゃったのね。
まずいわっ!
メレリン様のコンサートの時間が……急がなきゃっ。
「大丈夫ですよ。そんなに焦らなくても」
「なんでアリアはそう暢気なのよ!?」
父様が言ってた。
私は短気で、せっかちな性格だって。
弟のアリアは私と違って、いっつもおっとりしてるというか……こんな性格でよく宮廷騎士なんてやってると思う。
宮廷騎士は名誉あるお仕事だけど、それ以上に危険な…………だから、父様は死んでしまった。
「そういうとこ、姉弟なのに似てないんだからっ! あ~も~、イライラしちゃうっ!」
「似てない? 私達は血が繋がってないのだから、似てなくて当ぜっ……ッ!?」
アリアの、すねを蹴った。
栄えある宮廷騎士第一位だろうが、近衛騎士団の副団長だろうが。
私にとっては、単なる弟だもの!
「今、なんて言ったの~? 弟のくせに生意気よっ」
「……弟はやめました」
「なっ……」
やめたって……弟は、やめれるもんじゃないでしょう?
「私は昨日から貴女の夫です。まさか……忘れたんですか?」
私の好きな葡萄と同じ色の眼が、ちょっと細くなった。
黒に限りなく近い濃い紫の眼を持つ顔は、そうすると急に雰囲気が変わる。
「……え? あ、う」
私はアリアの顔が好き。
父様みたいなお髯も無くて、アリアはお人形さんみたいに整った綺麗な顔をしている。
それにいつも、いつだって優しい表情をしていて……。
でもね、この顔は違う。
なんか、いや。
ちょっと、怖い。
私の弟が、私の知らない人になっちゃったみたいでなんだか怖い。
こんな顔もするんだって知ったのは、昨日の夜。
自分はこれからは夫なんだと、いつもの弟とは違う顔で言った。
顔はアリアなのに、あのアリアは何かが違った。
「アリアは……アリアは夫なんかじゃないわっ、弟よ! ずっとずっと弟だったんだから、これからだって弟なの!」
昨日の夜の事。
思い出してしまった。
忘れたいのに、私の脳は「忘れなさい!」という持ち主の命令をきかなかった。
忘れちゃいけない教科書の内容や、やたらに長~い皇帝陛下のお名前は忘れちゃうのに……。
「もう、弟じゃありません」
今まで、なんだって私の思い通りになったのに。
父様が亡くなってから。
思い通りにならないことばかりになった。
たった1人の家族である弟まで、いなくなっちゃうなんてっ!
「な……なんでよ、アリア!? どうしてそんな意地悪言うの!? ……私の家族、そんなにやめたいの? 元の……私の家族をやめて本当の家族の所に、帰っちゃう気なんでしょう!?」
「リリエンシャール……ファンデル、持っていてくれ」
「え? は、はいっ!」
アリアは腰の剣を外し、騎士見習い君に渡した。
あら?
ファンデル君、アリアの後ろにいたのね。
あなた、ミニミニだから分からなかった。
ん?
あーっ!
アリアったら。
剣、外したら駄目なのに。
宮廷騎士は【皇帝陛下の剣】だから、いつだって帯剣してなきゃ駄目だって父様が言っていた。
父様はお風呂にまで剣を持っていって、寝る時も剣をお布団に入れていた。
「コンサートに遅れますよ」
アリアは私に背を向け、しゃがんだ。
「足が痛むのでしょう?」
私の足は、冷えると痛くなる。
3時間も隠れてたから足だけじゃなく、手の先まで冷え切ってしまった。
本当は屋敷に帰りたかった。
でも、歩けなかった。
早く見つけて。
迎えに来てって、思ってた。
「……うん、行く」
躊躇わず、弟の背にくっついた。
私がしっかりと両腕を首にまわしたのを確認したアリアが、ゆっくりと立ち上がった。
そんな私達をぽけっと見ていたファンデル君の大きな青い眼が、私の眼と一瞬合った。
ファンデル君は慌てたように、栗色のふわふわした髪を生やした頭を下げた。
宮殿敷地内にいるのに、剣を体から離したことが団長に……ライルさんにばれたら、アリアは怒られちゃうかもしれない。
ファンデル君は、ライルさんに教えちゃうかしら?
ライルさんは怒ると、すぐに手足が出る。
あの丸太みたいな腕で殴られたら、アリアの骨が折れちゃうかもしれない。
姉として、弟を守ってあげなきゃ駄目よね?
「ファンデル君。アリアが剣をはずしたこと、内緒にしてね? もしちくったら……メイに、あのことばらすわよ?」
ファンデル少年は、私の侍女のメイが好きなのだ。
13才のファンデル君は、22才のメイに片思いしている。
私にさえばればれで、メイだって気づいている。
本人は必死で隠そうとしているけど……。
「ひぃっ!? わ、わわわかりました! 僕、絶対に喋りませんっ! か、かっ勘弁してください、リリエンシャール様っ……じゃなくて、奥様っ!」
お、奥様っ!?
「ちょっと、誰が誰の奥様だっていうの!? ……今度奥様って言ったら、陛下の猟犬達を借りてきてファンデル君を追わせるわよ?」
「ひぃっ!?」
ふふふ、ファンデル君はわんこが苦手なのよね~。
可愛い子犬にも触れないんだから!
「リリエンシャール。ファンデルは大丈夫ですから、いじめないでください。コンサートには私もご一緒します。陛下が1週間の休暇をくださいました……明日は貴女が行きたいと言っていた、中央公園に行きますか?」
「いじめてなんかないわよ……え? お休み!? 1週間も遊べっ……うん、行く! あ、アリア。お風呂に陛下が下さった入浴剤入れるの忘れないでね? 木苺の香りのよ?」
木苺の入浴剤は、お湯がピンク色になるから最近のお気に入り。
「はい」
私をおぶって、アリアは歩き出した。
おんぶは好き。
背が高くなったみたいで面白い。
小さい頃から、父様がよくしてくれた。
「お風呂上りの果水は炭酸のやつ、氷は2個。氷は花びらが入ってるのじゃないと嫌よ?」
「はい。いつものですよね? 用意してあります」
私をおんぶするのは、いつだって父様だった。
『神聖なる皇帝陛下のたった1人の姪』である私をおんぶしていいのは、父様だけだった。
【皇の血】の私に触れていいのは、私の家族と上位皇族の方々と……陛下だけ。
まあ、侍女やお医者さまは必要なことだからいいんだけどね。
アリアだって家族なのに、父様は私に触らせ無かった。
除け者みたいで可哀想だから、父様には内緒でア私はリアにも触らせてあげていた。
だって、私の弟だから。
アリア大事なは弟だから……。
「……陛下に、私を牢から出すようにお願いしてくれたんですね?」
今朝、アリアは陛下にご挨拶に行った。
そして牢屋に入れられた。
陛下は理由を教えてくれなかった。
出してあげてって、私がお願いしたのにダメだって言った。
「そうよ、姉として当然でしょう? でも陛下に断られたから、家出に挑戦してみたのよ。こういうのを頭脳プレーっていうんでしょう!? 思った通りね! 私を探させるために、陛下はアリアを牢から出したもの」
アリアは私が見つけた、私だけの弟だもの。
大事な、私の家族。
「頭脳プレー…? …まあ、大枠では……」
父様が亡くなってからは、おんぶをしてくれる人はいなくなった。
アリアのおんぶは、これが初めてだった。
父様よりちょっと視界が低いけど、我慢してあげる。
アリアの背が低いんじゃなくて、父様が特別大きかったんだから仕方ないものね。
「リリエンシャール。薬を飲まずに家出したでしょう? メイが大変だって、騒いでました」
薬。
飲まなかったから、いつもより体調が悪いのかな?
「忘れたんじゃないわ。あの新しいお薬、とっても不味いの。あれは嫌、前のにもどすように先生に言っておいてちょうだい」
さっきから……珍しい場所の調子が、悪いのよね。
心臓が、変。
「新薬の方が効きが良いはずです。不味いのを我慢できませんか?」
いつもより、とっても早く動いてる。
「で、できないわっ!」
こんなに大きな音で、どっくんどっくんってしたら。
くっつけた背中から振動が伝わって、アリアが気がついちゃうかもしれない。
「……分かりました。イナチ医師には私から言っておきますから、今日は我慢して下さい。痛みが増したら出かけられませんよ?」
心臓がこんな変な状態だってばれたら、病院に連れて行かれちゃうかも……。
胸、アリアからちょっとだけ離しておこう。
よし、これで大丈夫!
「じゃ、じゃあ、1回だけ、我慢して飲むから。だからメレリン様のコンサートには連れていってよ!?」
「はい、もちろんです」
自分で言うのもなんだけど、私はどちらかというとお馬鹿だ。
勉強をしなくても誰も……父様も、怒らなかった。
だから、私が自分のことをお馬鹿だと気付いたのは最近のことだった。
広~いこの皇宮の敷地から、外へ行ったことが無かったし、友達だっていなかった。
比べる対象が周りに居なかったから、お馬鹿なことに気付けなかった。
父様が亡くなって。
泣いてばかりだった私を、気分転換になるからって言って……。
アリアはお仕事がお休みの日に、街へ連れて行ってくれるようになった。
何度かお出かけしてるうちに、同じ歳の女の子の知り合いができた。
それで、自分が同世代の女の子よりかなり物知らずなのだと気がついた。
他の16歳の女の子と比べて、頭の中だけじゃなくて。
身体も劣ってるのだと、思い知らされた。
「……あのね、メレリン叔父様ったら陛下とまだ仲直りしてないみたい。いつになったら、兄弟喧嘩が終わるのかしら?」
メレリン叔父様は、陛下の弟君。
皇族をやめて、音楽家になった。
陛下は怒った。
今もメレリン叔父様のことになると、ぷりぷりしている。
ぷりぷりを通り越してぶりぶりかしら?
「あの方々は、喧嘩しているわけじゃないと思いますよ? 価値観の相違というか……」
「それ、難しい。アリアは時々、難しい言葉を使うよね? まあ、いいけど……私がお馬鹿な分、アリアが賢ければいいんだし。本だって字が分からなくてもアリアが読んでくれるから、お馬鹿でも困らないもの」
不便だけど。
私は別に困っていない。
アリアがいるし。
アリアがお仕事中は、なんでもできるメイがいる。
「困らないところが貴女らしくて、私は好きです。……私は、リリエンシャールが好きです」
「え?」
好き。
アリアが私を好き?
好き!?
初めて聞いた。
私はアリアに好きって言ってもらったこと、今まで1度も無い。
私だって、言ったことないけど。
だって家族なんだもの。
そんな当たり前のこと、言う機会がなかった。
「ふ、ふ~ん。アリアはお馬鹿が好きなの?」
なんだか、変な気分。
顔が熱くなってきたかもっ。
薬を飲まなかったから、やっぱり熱が出ちゃったの?
「……違います。基本的には、私は馬鹿が嫌いですから」
「馬鹿が……き、き……嫌い? つまり、私が嫌いだってこと!?」
「貴女を嫌う? この私が? 好きだって告白した直後に、なんでそうなるんですか?」
告白。
告白?
「こっ!?」
アリアが私に告白ー!?
「順番がおかしなことになってしまいましたが」
姉である私に告白?
「私の姉ではなく、妻になって下さいませんか?」
弟のクセに!?
「ずっと、貴女を愛していました」
弟のクセに!!