7話
────────────────
「ふっ!」
薄暗い林道を、紺色の軍服に身を包んだ長身の男が刀を振るいモンスターを斬り捨てながら疾走する。
男の名は九重 蘯鷹。
300年もの間、代々優秀な戦士を排出してきた武門の名家である九重家の現当主であり、西日本の防衛に於いて中核を担っている人物の一人であった。
極めて高い直接戦闘能力を持つ九重は軍隊という組織の中にあってもその合理性から例外が許されており、九重は西日本防衛隊の総司令官に繋ぎを取って今、自身が統率していた部隊の指揮を副官に預け単独行動をしている。
その理由は、先程起きた巨大な光の柱の調査だ。
無論このような状況で大した事が分かるなどとは九重も総司令官である者も思っていない。
しかしこの状況下でこれ以上の不確定要素が存在する事を危険視した二人は、まだ戦況を保てている今の内に現場の確認だけでも急ごうと動いていたのだ。
幸か不幸か、光の柱が立ち昇った地点は只人が即応するには些か遠く離れ過ぎていたが、その優れた身体能力故に長距離移動の手段に乗り物を必要としない九重であれば問題無い。
放棄され人の管理から外れた道を駆け、一路目標地点へ向かう。道中現れたモンスターは全て九重の愛刀の露と消えた。
剣術スキル『剣聖』。
それが九重が身に宿したスキルであり、九重の肉体を極限まで高めている力の正体である。
このスキルの所持者自体は過去にも居たが、九重はその中でも史上最強と名高い剣聖だ。過去の剣聖スキル所持者やその他の強力なスキルの所持者と比較しても段違いの能力を持ち、特に純粋な身体能力の強化が目覚ましかった。
この最も高い補正が掛かったのが身体能力という点が九重という男の最たる強みだ。
数日間に渡って無補給で戦い続けたとしても十全なパフォーマンスを保つ事が可能であり、そこに剣聖としての抜群の剣術と肉体操作能力が加わるのだ。
これで只人の範疇に収まるはずもなく、九重は世界最強の戦士の一角に数えられている。
そんな九重だからこそ、西日本防衛隊の総司令官も今回の任を任せたのだ。
その期待通りに、九重は既に目標地点の近辺である樹海地帯に突入していた。
この辺りには今回上空に無数に出現した異界とは別に、以前から発生していた異界が点在しているのを防衛隊所属の九重は把握している。
定期的に防衛隊や探索者ギルドの人員が偵察・調査・討伐に足を運ぶ地とはいえ、異界から出現したモンスターを全て掃討出来ているはずもなく、自然環境に蝕まれ見渡す限りの草木が広がっているこの樹海のそこかしこにモンスターが潜んでいる。
視界の悪い場での伏兵の存在という危険性を理解していた九重は、樹海に突入した辺りで走る速度を緩めて気配を殺し、モンスターとの交戦を避けるようにして移動していた。
それでも常人では遠目に見ても目で追うのも困難なほどの移動力を維持しているのは、九重の優れたる由縁だ。
そうして樹海の深部まで踏み込んでいった九重は、若干ながら開けた場所を発見する。
無論、このような樹海で開けているとはいっても自然に侵食されているのは変わりないが……元々はそれなりに広い範囲で人工物があったのだろうか。
そこだけは他よりも植物の侵食度が低く、周囲よりも開けているように見えるのだ。
尤も、それをいえば他の場所も道路や民家などの人工物であったはずだが……そういったインフラが絡むものは、知性の高い一部の強力なモンスターに優先的かつ集中的に破壊された事による差だろうか。
少しの間、足を止めて周囲の様子を窺った九重は、不審な気配が無いのを確認するとその場所へと歩を進める。
まず目に付いたのは、所々が崩れかかった木製の鳥居だった。
どれほど長い間放置されていたのだろうか。鳥居を構築する木材は腐食や虫食いが目立ち、辛うじて形を保っている部位も苔に覆われ表面を見る事は出来ない。
寧ろ未だに鳥居と判別可能な状態で残っている事が奇跡である。
そんな鳥居の近くには、これまた凄まじい量の苔に覆われている背の高い石の柱が立っていた。
どうやら此処は神社か何かであったらしいと九重は考える。
その事から思い当たる節もあった。確か、過去この辺りに建っていた神社といえば──と、九重は石の柱の側に近寄ると、その場で軽く跳躍して石の柱の上部に手を掛ける。
そのまま、重力に引かれて九重が着地すると、ざざざざっと水気を含んだ音を立てて石の柱に付着していた苔が剥がれた。
両手一杯に掬われた苔を払い落とした九重が再び石の柱を見上げると、そこには『出雲大社』の彫り込みが見て取れた。
なるほど此処が、と九重は納得した。
九重の知る出雲大社といえば、此処からもっと南東の方角の都市部に設けられた森林の中に建っている出雲大社であり、その出雲大社は元は別の場所に建っていたものだと聞いた事があったからだ。
此処がその別の場所というわけだ。
所在の確認を終えた九重は、早速この大社跡地の調査を開始する。
鳥居を潜った先、下り坂になっている土や草、苔まみれの道を歩いて先へ。
苔むし、中には圧し折れてしまっている灯籠を横目に奥に進み、経年劣化の著しい古びた橋を渡る。
その先にはまた鳥居があった。
周囲から侵食してきた蔓科の植物に巻かれているこの鳥居は金属製のようだが……腐食が激しい。近寄ると鉄鋼特有の異臭がした。
嗅いでいて余り気分の良いものではないため、九重は少し足早にそこを通り過ぎる。
金属製の鳥居から離れると、再び草木の香りが九重の鼻孔を刺激した。
やや青臭さが際立つが、鉄臭さよりはマシだった。
本格的に境内に入ってきたのだろう。所々に経年と自然の侵食で潰れた建造物が目立つようになる。
屋根が崩れた小屋の下にある手水舎や石像を通過して見えてくるのは、またも蔓科の植物の支えと化している金属製の鳥居だった。
鉄の鳥居の赤錆とはまた異なる青錆に覆われたこれは、銅だろうか。臭気は鉄の鳥居ほど酷くはなかったので今度は普通に通り過ぎた。
銅の鳥居を潜った先には、草木や土の小山と化している潰れた社跡があった。他の社跡よりも規模の大きいこれは、拝殿だろうか。
──何も見つからんな。
九重は胸中でそう呟いた。
あれだけ派手に超常的な現象が起きたにしては、何も無さ過ぎた。
身構えていただけに拍子抜けではあるが、本当に何も無いなどとは九重は考えていない。
あったはずなのだ、此処で何かが。
それが何かは分からない。人かモンスターか、物か異界か。この状況下では何が起きていたとしても不思議ではない。
だというのに異常が起きた場所に目立ったものが見当たらないという事は、そこで起きた事象に関連する何かは既にこの場には存在しないという線が濃厚になるのだ。
そしてそういったケースは得てして大きな問題に発展し易い。
この場で何も発見出来ない現状は、九重としては悩ましい限りであった。
少しの間、拝殿の周辺を探索していた九重であったが、結局成果らしい成果を得られず拝殿の裏手へと回っていく。
平時であればともかく、今は戦時だ。そんな時に前線から抜けてきて、無駄足に終わるのか。
そんな思いは小さなため息となって口から出た。
しかしそれで調査の手を抜く人間でもなく、九重は油断無く周囲の気配を探り視線を走らせる。
拝殿の裏手にはぼろぼろに劣化した塀があり、中央付近に見える門から入ればまだ先があるはず。
そう考えた九重が、そのまま門に到達して塀の中を覗き見た時だった。
「ッ────────!?」
──この時、九重は声を漏らさなかった事に安堵すると同時に、脳内で自らの能力不足を罵った。
我が事ながら情けない────何故、気付かなかった!と。
咄嗟に門の影に身を潜めた九重の視線の先。
おそらくはこの社跡の本殿であろう経年と自然に呑まれ潰れた社の前に、正体不明の存在が佇んでいた。
その存在は潰れた本殿の方を向いており、九重からは背面が見えている。
それだけでも九重にはその存在の『美』が伝わってきた。
烏の濡れ羽のような艷やかな黒髪は足首の辺りまで伸びており、精巧な意匠の黒金の髪留めで幾つかに纏められていた。
赤と白を基調とした着物はゆったりとしており、下にまだ着物を着込んでいるのが窺える。十二単衣という着物に似ているのかもしれない。
後方から見て分かるのはそれだけであったが──九重に取ってはそれだけでも十分だった。
「(この俺に気配を感じさせず、あまつさえこんな危険地帯に滞在している! 間違いない、あれこそが光の柱現象を引き起こした張本人だ!)」
九重は自分の実力を過大にも過小にも評価していなかった。
正確に己が実力を把握しているからこそ、目の前の現実の異常性と危険性を正しく理解していたのだ。
それ故に、進退の判断自体は速やかに下された。
「(ここは一旦退くべきだ……! 個人で対峙していい相手ではない!)」
まずはこの場を離れ、戦線に戻り状況を確認した後、そのまま戦時拠点へ帰還。作戦本部へと赴き、自分の見た全てを共有する。
自身の成すべき事を脳内で並べ立て、九重が慎重に一歩後退して正体不明の存在──仮称アンノウンから視線を切らそうとした時。
「──」
目が、合った。
アンノウンが九重が潜む門の方を振り返ったのだ。
後ろ姿から見て取れた通りの……いや、それ以上の『美』がそこにはあった。
赤き黄金、夕陽色の双眸に、白人とはまた違った血色の良い色白の美貌。
幾重もの着物の上からでも分かるプロポーション抜群の肢体に、外側には赤と白、内側には青と紫を基調とした艷麗な着物を纏っている。
姫君などでは到底収まらない、神話の女神が如き美の化身がそこに居た。
──動けない。
蛇に睨まれた蛙とは正にこの事だろう。
九重は作戦行動に従事する軍人であると同時に、実際に戦場を駆ける兵隊だ。
だからこそこういった状況で体が固まってしまう事の危険性を理解している。
兵士が死亡する原因は多い。純粋に戦力差や実力差で正面から負けて死ぬ事もあれば流れ弾を受けて死ぬ事もある。
しかし、古来より戦死者の多くを占めているのは動けなくなった者達だ。疲労、負傷、恐怖、諦観──そういったファクターにより動けなくなった者から死んでいく。
この女神が如き存在の前では、人類の決戦力である九重であろうと例外ではあるまい。
──動け。少しでもいい。体を動かせ。筋肉に動作の波を与えろ。筋肉にばねを効かせて瞬発的なモーションに適した状態になるのだ。
そう自身に言い聞かせる九重であったが、体は言うことを聞かず全身の筋肉が不自然な力みにより硬直したままだった。
緊張して動きが鈍くなるのと同じだ。このままでは、有事の際に本来のパフォーマンスを発揮することは出来ない。
明らかに格上と分かる相手を前にして、だ。
九重が表情だけは変えずに冷や汗を流して動かぬ体に焦っていると、アンノウンに動きがあった。
九重から視線を外し、空を見上げたのだ。
やや瞼を落とし気味に、じっと南の方角の空を眺めている。
視線が外れたのを機にどうにか体を動かせるようになった九重は、ゆっくりと態勢を整えつつもアンノウンが見ている方向を確認する。
そして俄然目つきを険しくした。
異界だ。新年を迎えると同時に上空に現れた異界の穴が、その数を増やしつつあるのだ。
どういう原理か、人類の生存圏を集中的に狙うようにして現れていた異界の穴の顕現範囲が拡大し、とうとう人類が放棄した地の上空にまで出現し始めていた。
九重の軍人としての頭脳が回転し、戦況の更なる悪化を予想した。
これは単なる敵の増援ではない。
敵が増える事だけでも大問題ではあるが、真に問題なのは「敵の出現域が拡大する」ことだ。
先程までは敵の出現域は人類の生存圏の上空とある程度は絞る事が出来ていたのだが、たった今敵の出現域の拡大を確認した。
これにより、人類は生存圏の上空からの攻勢を跳ね除けるのみならず、放棄した危険域からの攻勢も退けねばならない事となる。
開戦時、敢えて戦線を絞り交戦した後、敵の主力となる軍が一定の戦線に留まったところで追加の戦力を投入し戦線を拡大。
敵の主力の動きを先行投入した戦力で抑えつつ追加の戦力を展開していき、敵の主力に対する包囲網を形成。
その後、円形の面での制圧攻撃により敵主力を殲滅する──典型的な包囲殲滅陣の様相だ。
このままでは、西日本はお終いだ。
そして西日本が落ちれば東日本も無事ではいられまい。
枯れ葉が舞い落ちるようにして世界各地で陥落が続けば、牽いては人類の敗北に繋がるだろう。
九重の軍人としての部分が戦術・戦略面での敗北を悟り、九重は奥歯を噛み締めた。
幸か不幸か、今となっては何が正しかったのかは九重にも分からないが、西日本防衛隊の主力中の主力である九重は敵の包囲殲滅陣から逃れた位置に居る。
味方を包囲する敵の背後から単身で襲い掛かり、敵増援を攪乱する事は可能だろう。
それだけの戦闘能力が九重には備わっている。
だが九重にも限界はある。いつかは何処かで致命的な取り零しをして、行き着くところまで行ってしまう。
そうなればどの道終わりだ。敗北の運命は変えられない。
超人的な力を持っているとはいえ、九重も一人の人間だ。
九重は迷った。
迷いは剣を鈍らせるとは分かっていてもどうしようもなかった。
今直ぐ戦線に戻るべきか、敵の包囲網を乱すか。
どちらにせよ未来は望めない。
無意識の内に握った拳から血が滴り落ちたその時、沈黙を保っていたアンノウンが口を開く。
「人の子よ。我が助力を求むるか」