3話
自分が身に宿したスキルの異質さを自覚し、自分自身に疑問を抱く。
おそらくそれが逸脱への鍵となったのだろう。
自身の現状把握の為に行使したスキルはその鍵穴となり、私の存在を地球ではない何処かへと連れ去った。見渡す限りの暗黒が広がるそこは……指し詰め、星明りの存在しない宇宙空間といったところか。
何の力の働きか、その場に転移してしまった私は間抜けな事に暫し呆然としていた。
やっと思考が追い付いてきた時には、まず私は体に異常がないかを確認した。
光源の無い無明の闇の中で人間が道具も無しに真っ当に視界を確保する事は普通は不可能だ。実際、最初に反射的に体を見下ろした時には何も見ることが出来なかった。
自分の体の状態を見ようとしても暗黒しか見えぬ事に不安を感じた私が「見たい」と考えた時、途端に自分の体が見えるようになり、体の隅々まで見て触って漸く冷静になれた。
これでもし違う法則性の元に成り立っている事であった場合は泣くしかないが、少なくとも肉体は至って健康かつ正常な状態で存在していたからだ。このような事が起きた今、肉体が消滅して精神だけの存在に成り果てている可能性も否定出来なかったので、自身の肉体の有無は私を落ち着かせてくれた。
そうしてどうにか動揺から立ち直った私は、この場所について何か分かる事がないか周囲を調べ回ったわけだが……無明の宇宙空間のような場所でまともに調べられる事などあるはずもなく、分かったのは空気が無さそうにも関わらず呼吸しようと思えば可能かつ何故か息苦しさはなく、移動については無重力空間のようでありながら歩行しようと思えば歩行可能で、その場で跳躍したり飛行するように移動する事も可能という、この場に於ける移動性の良好さくらいのものだった。
何処かに行ける様子もないこの場所で、移動性ばかり良くてどうするのだという愚痴が出そうになる。実際に出たのはため息だったが。
結局、何も出来ぬままに時間ばかりが過ぎていき……『観測者』スキルとは何だったのか、自分は何なのか、自分はどうなっているのか、自分はどうなってしまうのかなどと、私は自然と自問自答を繰り返すようになっていた。
この場所に来てからまだそう時間が経ったわけではない。たぶん一日経過したくらいのはずではあるが、早くも頭がおかしくなってしまったのかもしれない。もし本当にそうだったら嫌だが。
──こうして私は今に至る。
「…………」
無言。圧倒的無言。もはや口を動かす事もしなくなっていた。考えた内容を意識して声に出してみた事もあったが、聞き手の居ない言葉はどれだけ紡ごうとただの独り言でしかなく、哀しくなったからだ。
自分の事もこの場所の事も何も分からない。今はまだ生きているが……飲食物の無いこの場所で、私は生きていられるのか?
いや……もしかしたら生きていられるかもしれないな。そういえば仕事から帰ってきて夕飯を食べる前にこちらに来てしまったから、昼以降飲まず食わずの状態が続いているが飢えや乾きを感じない。
偶々体調的にそうであるだけなのか、或いは本当に生命活動に飲食が不要な存在になっているのか。
はははは……もし飲食不要なら凄いな。生命としての完成系の一つではないか。このままここに居たとしても寿命以外で死ぬ事はないだろう。
ああそういえば私は全裸だ。肉体の転移に衣服は含まれなかったらしい。自宅にセミか何かの抜け殻のように残されているのか? だとしたらお笑いだ。滑稽にも程がある。
先の見えない現実に精神的に疲弊しているのだろうか。余計な事まで脳裏を過ぎる。そんな自分を顧みて、私はまたため息を吐く。
せめて……自分が元居た場所の現状さえ見れれば。
少なくとも一つの物事に整理が付けられる──状況が動いたのは、私がそう考えた時の事だった。
……っ!? これは──。
突如として視界に暗黒以外の光景が目に入る。広さとしては8畳ほどの、異界由来の物質に科学的に手を加え作られたライトに照らされたその一室には、壁際にはぎっしりと本の詰まった本棚とパソコンの置かれた無機質なデスクが配置され、窓から少しだけ離した位置にはパイプ式の折り畳みベッドと、テレビを乗せた小さな棚が置かれていた。
パソコンが置かれているデスクの上には、とっくに冷めてしまっているであろう飲みかけのコーヒーのカップが残されている。椅子の近くには、まるで中身だけ何処かに消えてしまったかのように衣服が落ちていた。
よく見覚えのあるそこは間違いなく私の自宅の一室であり、私の部屋だ。私が見たいと思っていた場所の内の一つ。
そんな光景が、宇宙のような暗黒空間のみを映していた私の視界に入り込んだ。衝撃のあまり半開きになっていた口を閉ざすと、すかさず意識を傾け観測する事に集中する。
何故今さら、という疑問はある。暗黒空間の探索中に向こうを観測出来ないかは既に試していた。その時は出来なかった事が、何故か今出来てしまっている。
だがこの好機は逃せない。観測出来ているのは今だけの事で、この先自由に観測可能か分かったものではないからだ。
自宅、会社、地域、地方、日本全域、海外へと観測の目を広げていった私は、まず観測能力の向上を確認した。以前の私にはこれほどの観測範囲はなく、精々が日本全域程度の範囲でしかなかったが、今は地球という惑星全体を観測しても尚余裕を感じる。
ただ単に範囲が広くなっただけではない。地球という惑星全体を俯瞰的に見ている光景にも関わらず、私には地球上の細部に至るまで観測出来ている。
ただ眺めているのみならず、何処でどんな光景が繰り広げられているのか、まるで複数のモニターで一つ一つ確認しているかのように分かるのだ。それでいて私にはそれらの全てが把握出来ており、どれか一つの視点に絞る事も可能のようだ。
少なくとも地球規模の観測であれば十全に能力が発揮されているのではないだろうか。力を持て余しているような感覚は受けない。
そうして観測している内に、いくつかの事に整理が付けられた。
このような時に何ではあるが、まず勤めていた会社に関する事柄について考えてしまうのが社会人の悩ましい性だ。結論からいうと、無断欠勤した扱いになっていた。休日の控えていない平日真っ只中の晩に失踪したのだ、こうなっているであろう事は予想していたが、やはり気が重い。
同僚や上司には大層迷惑を掛けてしまったが……肝心の私本人がこんな状態になっているのだ。見逃してくれとしか言えない。どのみちもう私に尽くせる手は無い……自室に残されたスマホに会社から幾度となく着信が入る様を見て気が滅入るが、この事からは別の事も理解出来る。
そう、私は地球上から消え去りはしたが、私という人間は確かに地球に存在した過去がありその痕跡もあるという事だ。
この手の話でよくある「その人物が存在していた過去すら無くなる」わけではない。
従って、私は自分という存在の記憶が確かなものである事を確認できた。世界5秒前説のように、たった今生まれたばかりの架空の存在が自分を存在していたと思い込んでいたり、存在そのものを無かった事にされているような状態ではないと。
そして、最後にもう一つ。
把握しておくべき事実を私は理解した。
私には観測する事しか出来ないという事を。