13話
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高天原。
かつて日本に存在したと語られている八百万の神々の中でもより古い神々、日本神話に主立った神として名を記されている神々の住まう神域。
神話とは人の手によって作られた作為的なものであり、神話上で語られた存在の多くは史実には実在しない架空の存在。
高天原という地もまた、多くの人々には神話に語られているだけの架空の存在として認知されている。
これに関しては天外の君と天照も同じ考えであり、実のところ神話の存在の実在など信じていない。
精々、過大に語られた似た何かがあるかもしれない程度の認識だ。
神話の領域である高天原の所在には諸説あり、人智の及びつかない遥か高次元に在るとされている天上説や、特徴的な地形をしていたが故に人々から神聖視された特定の地域、或いは日本列島そのものがかつては高天原だったと解釈している地上説、神話とは架空の物語でありそもそも高天原など存在しないとされている作為説など、人により解釈は様々だ。
天外の君と天照としては作為説を推しているが、それとこれとはまた別の話。
天外の君と天照が創造した高天原は、定説でいえば天上説と地上説が入り混じったものだった。
天照が神道の終点から開いた途から出た先は、趣のある木造建築の屋敷の正面の庭だった。
後方の光の洞穴の向こう側の気配の動きを察知すると、そのまま少し歩いて光の洞穴から距離を置く。
遅れて、光の洞穴から九重と御堂が姿を現した。
光の洞穴から出てきた二人は周囲を見回しながらも軽く足踏みして足元を慣らしている。
神道の中、水の上を歩いて移動する感覚は優れた戦士である二人をして奇妙なものであったらしい。
地に足が着いているとやはり違うようだ。
天照は二人に振り返ろうとして、新たな気配の動きを感じて別の所に視線を向ける。
見やった先、木造建築の屋敷の縁側の戸が開かれ、一人の男が姿を現した。
「…………」
巌のような大男だった。
腰の辺りまで伸ばされた黒灰色の髪を太く注連縄のように縛り上げている。
身長は200センチを優に超え、紺色の着流しに包まれた肉体は太く筋骨隆々としており、見る者に重厚な迫力を与える。
その巨体に相応しい厳しい顔が天照を見やり、次いで人間二人を見やった。
髪と同じ黒灰色の瞳が九重と御堂を映す。
「……人の子よ。この高天原によく参った」
低く、それでいて通りの良い声だった。
天照は事前にその気配を察知していたが、気配を察知出来ていなかった二人にしてみればこの遭遇は不意打ちのようなもの。
現代の日本人の性か、咄嗟に頭を下げて礼をしている二人を尻目に、天照はその男に言う。
「大国主。世話になったな」
──大国主。
自分が出した名前に九重と御堂が反応したのを天照は見逃さない。
二人が気を取られるのも仕方ない。世間一般的な教養のある者が大国主と聞けば誰もが反応するだろう。
大国主。
日本に於いて大国主神と名高き国津神であり、豊穣神……とはまた異なる農業神という側面を持ち、医療神、願掛けを司る禁厭神などといった側面を持つ神格だ。
幽世大神、と呼称される事も多い。
数代前の祖として須佐之男命の名が浮上する神であり、人の世の国──葦原中国を作り上げたとされている紛れもない王神だが、天照に国を譲りその座から退いたとされている。
日本神話から読み解かれるその関係性は複雑なものであり、識者の視点から現状を見ればはっきり言ってこうして顔を合わせるのはタブーである。
大男の正体を知った九重と御堂もその事を理解しており、対応に苦しているのが天照には手に取るように分かった。
これも計画の内の一要素である。
その効果を確信した天照が目で軽く合図を送ると、的確にそれを察した大国主がこの場を〆にかかる。
「ただ場を貸しただけのこと。現世で其方が縁深き地は禍に呑まれている故、致し方ない事だ。礼はいらぬ」
大国主が見せた動きはただそうとだけ述べ、踵を返して部屋の中に戻る事だった。
木造建築の屋敷に相応しい畳敷の和室。
壁と一体化している形の小さな棚には何冊かの本と巻物が並べられており、大地と海原を描いた掛軸も見受けられる。
大国主は漆塗りの小さな机の前の座布団に腰を下ろすと、机の上に広げられていた巻物に目を落としていた。
これも勿論ポーズである。
この脈絡からのこの場面は、端から見れば大国主は客人を迎えるために顔を出しただけで、天照や客人に然程興味は無い事が分かるはずだ。
ここで効いてくるのが事前に挙げていた神話と史実は全くの別物であるということ。
この事例の場合、神話に語られていた天照と大国主の対立構造は、その当時を生きていた人々によって都合良く編纂された内容であるという事が窺えるだろう。
史実としては、天照と大国主は国譲りの対立などしていなかったと。
その当時を生きた人々の権力事情が、神話を物語っていたのだ。
……と、天照は演出を仕掛けていた。
神道からこの場に出てきたのも大国主が顔出ししたのも全て計画に沿ったもの。
実際、これは効果はあったらしく、突然の遭遇に対応に難していた九重と御堂も天照と大国主の遣り取りを見て神話と史実の相違に思い至ったらしい。
いくらか落ち着いた様子で天照と大国主の動向を窺っている。
大国主の顔出しは終わった。
自らが仕掛けた演出に確かな手応えを覚えた天照は、次のステップに進んでいく。
「さて、私の屋敷にゆくぞ。此処は大国主の住まう地よ、私の屋敷は別にある」
庭園の石畳の道を歩き、天照は大国主の屋敷の門まで移動した。
九重と御堂も、大国主の方を見てから天照の後に続いてくる。
大国主にこれ以上の動きが見られないか気にしているようだが、それは杞憂である。
今回の大国主の役割は顔出しという接触の一環であり、ほぼ終わっている。
何故大国主の住まう地に神道を開き帰還したのか。その理由を想像出来ないほど九重と御堂は無能ではない。
であればこの場でこれ以上の演出は必要無い、ということだ。
門から出た天照の視界に広がるのは緩やかな山道だった。
山道を降りた先には今は何も稔っていない休閑中の畑や木造の家々が見える。
後に続いて門から出てきた人間二人組から拍子抜けしたような空気を天照は感じた。
高天原、という地に少なからず幻想を抱いていれば気持ちは分からなくもない。
九重と御堂が思い浮かべる高天原のビジョンがどのようなものだったかは知らないが、元は地上で人間として生きていた天外の君の記憶と知識を受け継いでいる天照にはなんとなく分かる。
たぶんだが、もっとこう……雲の上に生活基盤があるような、日本のサブカルチャー的な光景を予想していたのだろう。
天照にとって、予想を大きく外されたであろう二人の反応は、これから高天原という地の設定を語る上で都合の良いものだった。
敢えて地味な景観に創った甲斐もあったというもの。
天照が持つ二つの視点の内の一つ、遥か天外へと跳躍した視界に映る天外の君も「良い感じだ」と形の良い顎を撫でておられる。
天外の君以外の誰にも見えないのをいい事に怜悧な美貌に口角を吊り上げて笑みを刻みながらも、天照は転移の力を行使。
一瞬の浮遊感と視界の揺らぎの後、天照が己の本拠地として創った屋敷の門前へと転移する。
勿論転移の対象には九重と御堂も含まれており、二人もまた天照の後方に転移前と同様の構図で転移していた。
急な転移に驚いてはいるようだが、慌てた様子は無い。
確かに転移自体は人間社会の中にも組み込まれている技術だ。
尤も、現世に存在している転移技術というのは、魔法系統の中でも『転移魔法』という希少なスキルの持ち主が現在地と転移先に魔法陣を描いた場を用意して行うものであり、天照が行使した転移とは大きく異なるもの。
神であればそれぐらいは出来るかもしれないと事前に考慮していたのだろう。
天照の屋敷もまた、木造建築の古風な屋敷であった。
天照が近づくと、門前に左右に分かれる形で二人の和服の女性が何処からともなく現れ門を開く。
この二人も勿論天外の君の眷属であり、神という設定である。
九重と御堂は突然虚空から湧き出るようにして現れた存在に反射的に身構えかけていたが、天照が何も言わずに開かれた門の中に歩を進めるのを見て彼女達が使用人のような立ち位置だと理解したらしい。
彼女達に頭を下げると、天照の後に続いてくる。
規模こそ大国主の屋敷より大きいものの、取り立てて神秘的な要素は無い。
年月による風化と手入れによる調整が見られる庭園に、趣のある木造建築の屋敷。
現世にも文化財としてありそうな場だ。
全て、天外の君と天照の計画に沿ったもの。
庭園から屋敷までを横断する石畳の道を通り玄関前まで来ると、再び使用人としての役割を持つ眷属が現れ両開きの戸を開ける。
屋敷の中も……普通、という表現以外の何物も浮かんでこないものだ。
結局、特別目を楽しませるような物もなく座敷へと到着。
例によって眷属が襖を開け、室内を見た天照は目を細めた。
「──やあ。待ってたよ」
座敷は一つの部屋としては広いものであったが、時代劇などで見かけるような多くの家臣が参列出来るような広さはなく、客間としては多少広いかどうかと感じられる程度の規模のものだった。
段上の上座といった構造もなく、やや長めの長方形を形作っている座敷の奥側には飾りっ気の無い素朴な木製のテーブルと座布団が見受けられる。
座敷は屋敷の間取り的には縁側に接する位置関係にあり、顔を横に向ければ今は開け放たれている戸から緑の調和が美しい庭園を楽しむ事が出来た。
そんな座敷の奥側、座布団に脚を伸ばして座り声を掛けてきた存在が居た。
立っていれば足首の辺りまではあろう極薄く青が掛かった白髪に、暗く透き通った夜空の如き紺色の瞳。
色が抜け落ちたかのような白皙の顔は、肌の色の差を別とすれば天照とも少しだけ似ている部分があった。
顔の造りだけを見るなら怜悧そうな美貌ではあるが、見た目に反して感情豊からしく朗らかな笑みが浮かべられている。
天照の物と似た濃紺の着物の下部をはだけすらりとした真白い素脚を惜しげもなく晒している姿に、天照は小さくため息を吐いた。
「月読。お前というやつは……また庭園から勝手に上がり込んだな?」
月読。
座敷の先客を指して挙げられた名に、後ろの方から若干の驚きを天照は感じた。
驚いているのは勿論九重と御堂で、そっと視界を後方へと拡張してみれば、二人とも可能な限り表には出さないようにしているようだが瞬きの回数を増やして月読を見ていた。
理由は天照にも察しはつく。
その内の一つは神話上で天照と大国主の間に語られているものと同じようなものなので今は置いておく。
一番の驚きは、天照に月読と呼ばれた存在が女性であったためだろう。
月読命。
日本神話に於いて月神、夜神、海神、農耕神と名高き天津神であり、神階の高さと知名度の割に記述らしい記述があまり残されていない大神だ。
月読は神話では天照大御神を姉に、須佐之男命を弟に持つ男神として語られており、今目の前に居る存在とは性別という点で相違が発生している。
これもまた計画の一環である。
神話を紐解く識者達の中では月読命は弟神である須佐之男命と同一視されているという解釈が存在する。
これは先に語られた月読命という神格に後に語られた須佐之男命という全く別の神格が人の都合によって装飾されてしまった、という話にしたいのだ。
神話という前提条件がある上での実際の神格の性別の相違というのは、神話を紐解く上で決して小さくはない問題点になる。
男神か女神か、或いは両性か無性か。
それにより宗派が分かれる、なんて事すら起こり得るのが神話というものである。
その点、日本神話に於いて知名度を有しながらも謎が深い月読命という神格は天外の君と天照にとって都合が良かった。
天照は座敷の中へ入っていくと、テーブルを迂回して入口である襖から見て正面奥側に位置する座布団に腰を下ろした。
形式的には上座に該当する位置に座るのは普通として、この時天照はまた一つの仕掛けを施す。
天照が仕掛けたのは「座り方」だ。
こういった座敷に於ける高貴な女性の座り方といえば、イメージ的にはやはり正座になるだろう。
当然、日本神話に於いてこれ以上無いくらいに貴い女神であるところの天照は正座で座すのが自然であろうが、そこを天照は着物の下をやや広げて堂々と胡坐をかいて座ってみせたのだ。
「遠慮は要らぬ。汝らも座るがよい」
「は、はい。ありがとうございます」
「──っ、失礼します」
天照が声を掛けると、入口で呆然としていた九重と御堂も座敷へと入ってきて畏れ多げにそれぞれ座布団に腰を下ろす。
日本の社会人故か、二人とも当然のように正座だ。
そんな二人を前に常と変わらぬ様子を見せる天照であったが、内心ではほくそ笑んでいた。
九重と御堂から静かな衝撃が伝わってくる。
月読命の事もあるが、それ以上に天照が仕掛けた座姿が効いているらしい。
自分達が生まれ育った国の神話の、女神であり最高神であるが故にこういった場では上品な姿を求めていたのだろう。
ただでさえ高天原という地と天照の屋敷は日本古来の様相を成している。
それこそ、大和撫子といった風な──と考えかけてそれは少し違うか、と天照は考えを否定する。
人間二人組が持つ考えを予想したものとしては正しいのだろうが、そもそも最高神に大和撫子といった表現を用いるのは誤りだ。
最高神であるからして、誰かを立てるような存在ではないだろうから。
ともかく。
これで凡その仕掛けはし終わった、と天照はこれまでの立ち回りを振り返る。
あとはただ語るのみ。
意識を切り換えて、天照は口火を切った。
「さて──まずは私達の事を話そうか」