11話
天照。
日本に於いて天照大御神、または天照大神と名高き太陽神であり、神代の日本列島とされている高天原の主神、禊祓いの巫女神、日本文化を守護する文明神、大地に恵みを齎す豊穣神、そして貴き祖を世に送り出した皇祖神など、多方面に権能を有する日本神話の最高神だ。
その神名が今、仮称アンノウンの口から明かされた。
御堂と九重が想定していた通りの神名であった。
であれば、確認しなければならない点が幾つか浮上してくる。
「天照様。お訊きしたい事があります」
「何だ」
「天照様の御名は我々日本国民の間に古くから伝えられている日本神話の最高神と同じ御名であらせられる。
天照様は、日本神話の最高神たる天照大御神そのものなのですか?」
「然り。が、汝らが知る神話は全てが全て史実であったわけではない。その時代を生きた人の子の手によって編纂された部分が多々存在する。
分かるな、人の子よ」
「……はい。具体的な部分については把握しかねますが……」
始めに分かったのは、天照と名乗った仮称アンノウンが紛れもなく日本神話の最高神である天照大御神であるという事。
そしてもう一つ、現代にまで伝えられている日本神話は人の意思によって都合の良いように解釈・編纂が行われたものであり、事実無根の内容も存在するという事だ。
日本神話の解釈・編纂の内約については政治的に突っ込み難い部分が存在するため、後日詳しい話を擦り合わせる必要があるだろうが、中には可及的速やかに訊いておかねばならない話もある。
他国の神話の存在についてだ。
訊き辛い。物凄く訊き辛い。
仮称アンノウン改め天照大御神は、実際に拝謁し話してみたところ寛大な性格の持ち主であり、話の通じる神のように感じられたが……日本神話に於いて、天照大御神には苛烈な性も語られている。
弟神である須佐之男命との諍いなど有名だろうか。
それも事実かどうかは不明だが、全く考慮しないわけにもいかない。
そもそも特定の神話の神を相手に他の神話の話を持ち出すのは無礼も無礼。
寛大な様子が窺える天照大御神も激怒するかもしれない。
御堂としては胃と頭の痛い話であったが、話せる内に話しておかなければならない事だった。
「その……重ね重ねの無礼を承知でお訊きしたいのですが」
「申してみよ」
「天照様は日本国以外の、他国の神話をご存知ですか? 例えば仏教などは……」
後ろめたさがあるからか、どうしても言い澱むような言葉になってしまう。
これは拙いと内心で焦る御堂に、しかし天照大御神は片手を上げて無理に言葉を紡ごうとする御堂をやんわりと押し留めた。
「人の子よ。汝の言いたい事は察しが付く。私達が他の神域と関わりがあるのか、神格が混淆しているのではないか。
つまりそういう事であるな?」
正にその通り、ストレートな言葉だった。
はい、とただ頷くしかない御堂に、天照大御神は語る。
「他の神域の話については私達はほぼ知らぬ。人の世の流転、発展により交わり合う事の無い人の子同士が様々な形で交差し、それにより人の世に広まった他の神域の物語……としては風の報せ程度には知っておるが、実際に他の神域に赴いた事や他の神域の神に会った事は無い。
他の神話の神域が何処の次元に存在しているのか、そもそも実在しているのかどうかも知らぬな。
私達が住まい神として存在しているのは今も昔も高天原のみ。他の神域や神格は持ち合わせておらぬ」
「おお……なるほど。お答え戴き感謝します」
天照大御神は混じり気の無い純粋な『日本の神』であるという事。
また、天照大御神の口ぶりから他にも実在していると思われる日本神話の神々も、他の神話の神々と混淆していない『日本の神』という事。
他の神話については、天照大御神も「そういう神域と神々が存在しているらしい」程度にしか把握しておらず、実在の確認も取れていない事。
以上の事が新たに判明した。
御堂と九重は風を感じていた。
風といっても物理的なものではない。状況的、精神的なものだ。
追い風。日本という国に取って助けとなる追い風が吹いている。
天照大御神自身から日本神話の神々であると言質を取れた以上、日本のアドバンテージは揺るがない。
天照大御神は話の分かる神だ。おそらく御堂達が抱えている事情を察した上で自ら自分達の立ち位置を教えてくれている。
あちら側がここまで配慮を見せてくれているのだ。こちらも相応の何かを返さねばならない……そして、そのためにも踏み込まなければならない。
何故、現代に降臨して千年紀の滅びから人類を救ったのか──いや。そもそも何故、今になって現代に降臨したのか。
それを知らねばならなかった。
天照大御神は慈悲深い。
その慈悲深さに甘え、あちら側の事情に踏み入った質問をする事を御堂は決意した。
天照大御神を前に政治じみた偽りの心と言葉は必要無い。
完全に天照大御神の厚意に期待するやり方になってしまうが、相手に甘える事よりも社会的仮面を被る方が無礼になるケースもあるのだ。
御堂は口を開く。
「訊かせて戴きたい話はまだあります」
「許す。申せ」
「ありがとうございます。その話というのはこの度天照様が人の世に御降臨なされた理由についての事です。
天照様は我々人類の窮地を救ってくださいました。現代に御降臨なされたのは千年紀の脅威から人類を守護するため……と我々は認識しておりますが、事実どうなのでしょうか」
「ふぅむ……」
天照大御神は目を伏せて腕を組み少しの間何事か考える素振りを見せると、御堂と九重を見やった。
じっと二人を眺めながら言う。
「汝らは今時間が取れるか?」
御堂は傍らに控えている九重と視線を交わした。
ここにきて少し変わった方向に話が展開した。
二人ともどう答えるべきか迷い、最終的に御堂が対応する。
「今日一日ほどであれば問題は無いかと……」
天照大御神は一つ頷いた。
「よかろう。ではもう一つ訊くが、汝らは政に携わる者をこの地に呼び出せるか?
只の役人ではない。己の意一つでコトを動かせる権威を持つ者だ」
これを聞いて御堂も合点がいった。
再び九重と視線を交わせば、九重も御堂と同じ結論に辿り着いたらしく力強い首肯を返してきた。
よし、と決断した御堂は自信を持って発言する。
「それであれば私と九重が居れば問題ありません。私も九重も、この国の政界には広く深く顔が利きますので。
どちらか単体であればともかく、私と九重が揃えば通せない話はありません。あまりにも無理難題でなければ、という但し書きは付きますが」
どうだろうか、と御堂は天照大御神の反応を待つ。
今の御堂の言葉には複数の意味が含まれている。
天照大御神は聡い。御堂が含ませた意味を理解しているはずだ。
そんな御堂に、天照大御神は微かに笑う。
組んでいた腕を解き、片手を腰に当てて楽な体勢になると言った。
「重畳。では、汝らを高天原に招こう」
一瞬、御堂は言葉の意味を理解出来なかった。
傍らで対談を見守っていた九重も同様に。
遅れて理解が追いつくと、御堂は思わず訊き返してしまった。
「高天原……!? それは、神の世界に私達を招待する、という事ですか!?」
「然り。互いの事情と今後を語るには時間を要するであろう。会談の場として私が保有する屋敷の一つを提供する。
人の世は、私には窮屈故にな」
……人の世が窮屈。それは存在の規模が大き過ぎる故だろうか? 或いは、空気が肌に合わないのか。
そんな事をちらりと頭の片隅に留めながらも御堂は思考を巡らせる。
高天原への招待。
会談の場を設ける、というのは珍しくも何ともない話だが、場所が場所だ。
事前に東日本側と連絡を取り様々な許可を得ているとはいえ、皇族を差し置いて日本神話の神域にまで赴くのは対外的に拙い。
いっそ天照大御神の方から会談の相手として皇族を指定してくれていればよかったのだが、これまで天照大御神から皇族についての言及は無い。
……これは考えてはいけないと御堂は思考を切った。
考えが甘かったかもしれない──と御堂は思う。
現世に於いて、天照大御神が神社などの神秘に纏わる土地から離れられない可能性は考慮していた。
ゆえに、互いの事情や今後の展望を語るのなら自然とそういった場所になるだろうとは予想していた。
が、流石に御堂も神々が住む世界に行くところまで話が飛躍するとは考えていなかった。
……とはいえ、いざその時を迎えて考えてもみると、意外と迷う要素は無いのかもしれない。
対外的に厄介ではあるかもしれないが、それはそれ。
何処の神話でも明確になっていない部分があり、神話というものが人の都合で編纂されている以上正統性も怪しいはずだ。
例え指摘を受けたとしてもそこを指摘し返せばある程度の問題は弾ける。
であれば答えは決まっていた。
「九重。お前にも付き合って貰うぞ」
「了解。元よりそのつもりです」
九重の頼もしい返答に自然と笑みが浮かぶ。
静かにこちらを眺めている天照大御神に、御堂は確認する。
「高天原に行けるのは私と九重のみですか?」
「その方がよい。高天原は神域、その空気は人の子には合わぬであろう。汝らには私が一時的に加護を与える故、害は無いが……人の子が高天原に踏み入る事を良く思わぬ者も居る。
人数は少なければ少ないほどよいな」
……どうやら日本の神々も一枚岩ではないらしい。
神々の中には人の事をあまり良く思っていないか、存在としての棲み分けを重視しているか、或いはその両方か。
そういった主観を持つ神も居るようだ。
主神である天照大御神が絶対というわけではないらしい。
ともかく、今回高天原に踏み入る分にはおそらく大丈夫なはずだと御堂は踏んでいる。
神の感性が人と同じとは限らないが、神々の中の最上位者である天照大御神が招いたという御墨付きがあれば、流石にその場で問題を起こす神は居ない……と思う。
……正直、日本の神々もわりとコトを起こしている話が多い。
神話通りではないかもしれないとはいえ、その辺りは少々不安が残るがそれにばかり気を取られているわけにもいかない。
差し当たっての問題は、高天原の場所と行き方だろうか。
「しかしどのように高天原へ行くのですか? 私達は高天原の所在を知らず、移動手段も無いのですが」
「私が神道を開く。この地には辛うじて神代の空気が残留している故、高位の神であれば神道を開く事は可能だ。
そこを通って高天原へと向かう事になるな」
やはり高天原は地続きで行ける場所ではないようだ。
神道というのがどのようなものなのかは分からないが、役割はなんとなく伝わってくる。
現在地とは掛け離れた場所へと繋がる途、比較対象としては不敬かもしれないが異界の穴のようなものなのだろう。
天照大御神は分厚い苔の深緑に彩られた石畳を軽やかに歩き、遠い昔に放棄され朽ち果てた本殿の正面に位置取ると、そっと左手を胸の高さまで上げて前方に突き出した。
瞑目し、静かに集中している……。