08章 入学前夜
談話室を出た私が自室に戻ろうとすると、お嬢様に呼び止められた。
「私の部屋で少し話をしていかない?」
「はい、喜んで」
お茶の支度をして部屋に向かうと、すでにネグリジェに着替え済ませた彼女はベッドの上で寛いでいた。
「しばらく、お屋敷を離れることになりますね」
「ええ、屋敷を離れるのはともかく、私は魔法が使えないし、少し不安だわ。
でもあなたが一緒に来てくれるからとても心強い。
一応従者という立ち位置にはなるけど、あなたに偉そうに振る舞う人がいたら私がぶん殴るから
あなたも学園生活を楽しんでくれると嬉しいわ」
拳を作って見せてくるので、私は苦笑した。
「そう言っていただけるのは大変嬉しいのですが、ぶん殴るのはお止めくださいませ」
「も、もちろんたとえよ。本当に暴力を振るったりはしないわ。私は淑女ですもの」
胸に手を当てすまして言う彼女を見て、つい笑いそうになってしまった。
幼い頃には、魔法で魔獣をいたぶっていた伯爵家のご子息に「止めなさい」と言いながら跳び蹴りをかまし、最近の舞踏会でも、他の女性にしつこく言い寄っていたどこぞのご子息の腕をひねり上げた上で足をかけて転ばせたばかりの彼女。もちろんこれはほんの一例だ。
絶対に理不尽な暴力を振るわないことも、最近では一度口で注意してから手を出すようにしていることも私は知っているし、被害者側の人には感謝されているわけだが、彼女と関わったことがなく状況を知らない第三者たちの中には彼女を良く思っていない人もいるらしい。
「淑女でなくとも構いませんが、どうかご自分の立場を悪くするような振る舞いはなさりませんよう、
お気をつけ下さい」
「何を真面目な顔をしてるのよ」
お嬢様が両手で私の頬をつまんで上に持ち上げる。
「難しい顔をしていたら、可愛い顔が台無しだわ」
「…………」
「あ、もしかして照れてる?」
「いません」
(こういうところは男前といいますか……。
攻略対象ではなく、学内の女性が言い寄ってこないか心配です)
「お嬢様のお顔の方がずっと素敵です。ご自分が美人であることを自覚なさってください」
「まさか。私の顔って怖いじゃない。私が男だったら絶対マリィに一目惚れするもの。
あ、見た目だけじゃなくてもちろん中身も好きよ。マリィみたいな男性が学園にいたらいいのに」
(攻略対象では私と似た人はいませんが、もしもお嬢様がオリジナルに好意を抱いたりしたら、
シナリオはどうなるのでしょう)
(いいえ、私みたいなというのはそもそもお世辞でしょうし、
攻略対象たちも中身ともかく見た目はとても素敵なので、頑張ってくれるでしょう)
明日の支度が出来ていることを確認して、自室へ戻った私は部屋の中を見回した。
七歳の頃にこの部屋に移動したので、かなり愛着がある。
最近は落ち着いているが、よく身体を壊して部屋で寝込んでしまっていたものだ。
(お嬢様がいなかったらお暇を出されていたでしょうね。病弱体質という設定はないというのに。
シナリオが始まったら他の方の迷惑になりますし、倒れたりしなければいいのですが)
私物が詰まった、学園に持って行くキャリーバッグの中から台本を取り出す。
台本といっても、日にち毎にやることが簡易に一文で記載されているのみで、セリフの指定はない。
日付は次の日だったり、一週間後だったりまちまちだ。
(他の方については何も書かれていないので、何が起こるのかは全く分かりませんね)
(もしかしたら攻略対象の方々の台本は、もう少し詳しく書かれているのかもしれませんね。
お嬢様が恋に落ちなくては乙女ゲームとして成立しませんから)
ふと、一人の男性の顔が頭に浮かび息を吐いた。
自分の言葉を思い出す。
「恋愛経験がろくにない私が、あなたの言葉でうっかり好きになってしまったら、
どう責任を取ってくださるおつもりですか?」
(我ながらバカなことを言ったものです。
面倒な女だと遠ざけて下さるのなら、その方がいいですが)
「ステータス」
呟くと、視界の中央に私のステータス画面が表示される。
ここだけゲーム画面のように表示されるので違和感があった。
(この世界で生まれたオリジナルの方にとっては、これが普通なのでしょうけど)
HP 80
MP 90
Lv 40
HPが100であることは滅多にないもので、MPは先ほど洗濯で使用したので少し減っている。
Lvはお嬢様の護衛のために練習しているので、年齢的には高い方かもしれない。
好感度
ミレア=マレディス ……82
ラント=マレディス ……25
レオ=バルティケル ……0
キルス=テスタル ……0
ウィルム=アヴェリテリス……71
クリフト=ダバステ ……0
ソリア=ミトゥラル ……45
ナーニャ=アヴェリテリス……47
まだ面識のない三人は0となっている。
ソリア様とナーニャ様とは現状は接点がないことになっているが、イベント終了時に黄のハート状態は十分キープ出来るだろう。
(お嬢様のことは敬愛していますが、さすがに恋愛感情は持っていませんので
この好感度、というのは純粋な意味での好意なのでしょうね)
(それにしても、攻略対象やライバルはともかく、私の攻略対象の方への好感度なんて、
なぜ計測されるのでしょう)
「……クローズ」
ステータス画面を閉じて、クローゼットの前まで歩いた。
そうしてクローゼットにある棚の中から小さなトランクを取り出し、鍵を開ける。
中に入っているのはテディベアとアクセサリー、一冊のノート。
私はノートを手に取った。
ノートの外側は丈夫な造りとなっていて、ピンク色の背景に花のシルエットが散らばる可愛らしいデザイン。
(数字に表れていますから、どうしようもありません。
自分の身分も立場もわきまえず、ウィルム様に好意を抱いてしまったことを認めなくてはなりません)
(幼い頃、誰にも愚痴なんてこぼすつもりは無かったのに、
あの方は大変聞き上手でつい話してしまいました。
一度話してしまうと、もう我慢できなくなってしまうもので、何度も聞いていただきました。
いつも優しく励まして下さいました)
(あの方がいなければへこたれていたなどと、考えるのは悔しいですが、
メイド長の嫌がらせに負けずに仕事を頑張れたのは、あの方が話を聞いて下さったからでした)
(でも、こんな気持ちでいたらお嬢様がウィルム様を選んだときに、心から祝福できません。
好きになるべきではないと分かっていたのですから、彼の優しさに甘えるべきではなかったのです)
(この気持ちは、今日書き出して終わりにしましょう。
せっかくチャンスをいただいたのですから、私も退場したくはありません)
(お嬢様の恋路を全力で応援して、その後は……。
誰か他のオリジナルの方を好きになってみたいものです)
(乙女ゲームは大好きでしたが、確か私自身は誰ともお付き合いしたことはありませんでしたし)
自分の思いをノートに綴った後で、一度読み返しトランクに戻した。
これは誰かに言うべきではない気持ちを吐き出すためのノート。
トランクの鍵はいつもネックレスのモチーフとして首から提げている。
同じ感情を持ちそうになったときに鍵に触れると、この感情は箱の中にしまってきたから大丈夫だと自分に言い聞かせられるのだ。
(すぐには無理でしょうが、彼への好感度も下がるはずです。きっと)
明日は入学式、私は隣の部屋にいるお嬢様の部屋に明かりが点いていないことを確認して眠りについた。