月夜の沼地で男女2人は約束を交わしたようです
「ふがふが!」
「さっさと殺しなさいよ!化け物!」
「ふんが・・・ふんがふんが!」
「フガフガ言ってないで食べればいいでしょう!?私のお父様たちにしたように!!」
「んが!」
「そうよ!ほらたべ・・・んーー、んーー!。」
トロールとエンジュは今、トーヤコの外れ、葦に囲まれた窪地に隠れている。周りにはこのトロールが集めたであろうこれまでの冒険者の防具や武器、カバンなどが月明かりに照らされており、どこから拾ってきたのか天幕によって雨が当たらないように工夫されていた。トロールは女性の口を無理やり手で覆うと、反対の指を口に当てて静かにするようなジェスチャーをする。もちろんこんなジェスチャーはトロールの世界には存在しないものだ。
「ふぐう・・・。(この人どうしよう・・・。)」
「んー!んーーー!」
今ではもうすでに月が天高く上っており、月明かりが一体を照らしている。ヌルマユを飛び出て、走ること2時間、無数のトロールの間をかき分けどうにかこうにか逃げ切ることに成功したトロールは、今後の行動を考えあぐねていた。
「んごんご・・・。(この子の言葉はわかるけど、僕のは通じないしなあ・・・。)」
エンジュが睨むようにこちらを見ている。必死に、トロールの手を解こうとしているようだ。よく見れば顔が紅潮している。
「ふんが・・・。ふんがあ。(ここで逃しててもすぐに死んでしまうだろうし・・・あの結界も、もうないみたいだしなあ。)」
「んー!!!ん・・・んん・・・。」
徐々にエンジュの手に力が抜けていくのを感じてトロールは慌てて手を解いた。
「はあ・・・はあ・・・静かにすればいいんでしょう?」
トロールは手振り身振りで自分が食べる意思のないことを伝えると、防具の中から好きなものを着るように指図した。わざわざ、くしゃみをする動作までして、濡れたままの服では風邪を引くといいうことまで伝えたほどだ。
「トロールってこんなに賢かったかしら・・・。」
彼女は少し冷静になって、独り言を呟く程度の余裕ができたようだ。
「あんた・・・トロールのくせに・・・何のつもり?」
トロールはおもむろに丁重に包まれた布を漁ると、非常用にとっておいた薄切りの乾燥りんごを取り出し彼女に差し出した。鬱蒼とした沼地であるここは、トロールから隠れるにはもってこいなのだが、いかんせん食べ物の保管が難しい。
「なによ・・・これ・・・。た、食べろっていうの?」
彼女は自分の顔よりも大きい特大のドライアップルを手にもつと、恐る恐る匂いを嗅いだ。、
「え?りんご?嘘でしょ?」
トロールが美味しそうに食べているところを見ると、エンジュもこれを頬張った。しなしなとしたやや、乾燥の不十分なりんごはそれでも蜜が濃縮されていて、街で食べるものにはない強烈な甘みと芳香があった。
「お、おいしい・・・。」
エンジュにとってはまともな食事はほぼ数年ぶりであった。石化の病がある程度進行すると食事を必要としなくなるためだ。
「おいしい・・・おいしい・・・わ・・・。」
トロールがエンジュを見つめると、月明かりにキラリと光るものが顔を伝った。
「ふが・・・。(涙だ・・・・)」
トロール達は滅多に涙を流さない。少なくとも感情的な涙などは皆無だ。このトロールは10年ぶりに見る人間の涙に胸の中が熱くなるのを感じ、思わず指先でそれを掬ってしまった。
「わっ!・・・。」
エンジュはびっくりしたものの、先ほどまでとは違い、びくびくと恐れるような様子は見せなかった。
それから長い沈黙が小一時間続いた。
・・・
「ねえ、あなた本当にトロールなの?」
「ふんが・・・。(それは難しい質問だなあ・・・。)」
トロールは深くうなだれた。
「私の言葉・・・わかってるんでしょう?それってつまり・・・。」
エンジュは自分の言おうとしていることが、あまりに馬鹿げていて、一瞬言うのをためらった。
「まるで童話だわ。・・・あなた、もしかして人間”だった”・・・なんて?。」
「・・・ふんが。(・・・そう、少なくとも前世はね。)」
トロールはどうにも悔しさが込み上げてきて、立ち上がって何かを漁り始めた。自分がトロールに転生したことなど正直考えるのも嫌だったからだ。目の前のエンジュの美しさに対して、自らの醜さが許せなかったのだ。
「ンゴンゴ。(これを見てよ。)」
トロールが取り出したのは地図だった。そこには”トーヤコ”とみられる地点に印がつけられており、”ヤチガシラ”と書かれた点から曲がりくねった線が書かれていた。おそらく、何らかの街からここに来るまでの道のりだろう。
「これで帰れってことかしら?」
トロールは頭を縦にふる。
「・・・ねえ・・・あなたのお名前なんていうのかしら?」
トロールは首を横に振る。
「じゃあ、”アスナロ”って呼んでもいいかしら?お父様が好きだった木の名前なの。」
”アスナロ”と呼ばれたトロールは目をまん丸に丸めて静かにうなづいた。
「私はエンジュ。ミド・リの街の領主の娘、エンジュ=ミド・リ。」
「ア・・・ジ・・・ュ・・・。(ア・・・ン・・・ジュ・・・。)」
アンジュは小さくかしこまってこちらに向き直った。
「ねえ、アスナロさん?どうかお力を貸してくれませんか?お礼は必ずします。人間に戻る方法も私が責任をもって調査します。だから、一緒に来てくれませんか?私の街まで・・・。」
「・・・。」
アスナロはまっすぐ見つめるエンジュの目に見とれてしまって、返事をするのを忘れていた。
「ダメでしょうか?」
アスナロは慌てて自我を取り戻すと、考えるまでもなく頷いた。まったくもってこんなトロールの里の暮らしには飽きていたのだ。そろそろ里を出ていく頃合いというやつだろう。きっとそうに違いない。
「んががあああああ!!!(俺はトロールをやめるゾォォォ!!)」
「アスナロ・・・さん?」
今日という日に初めて、アスナロはこの世界を好きになる理由を見つけた気がした。