023:遠い声は優しく響く
ルナティアと挨拶のハグをし始めて、二分か三分ほど経っただろうか。
彼女は未だに、俺に抱きついたままだった。
……いや、長くない?
この世界の人たちは、挨拶のたびにいちいちこんなに長くハグをするのだろうか。
ウルドガルドで営業の仕事したら、挨拶回りが大変そうだなぁ。
「――すんすん。お風呂入ったばかりだから、石鹸のいい匂いがしますね。清潔感のある人、アタシ好きですよ」
人の胸元で小さく鼻を動かすルナティアに、「そりゃどうも」と答えて、内心安堵する俺。
くさいとか言われなくて良かった。
年頃の女の子にそんなことを言われたら、俺は後で枕を濡らすことになる。
めそめそと。
入浴後というタイミングに救われたな、うん。
「ただ、好みのタイプなら汗の匂いもイケますが。ちょっと汗かいてみてくださいよ」
「無茶言うなよ……」
涼しい夜風が吹く中、立ったまま自分の意志だけで汗腺を操れたら、それはもう一種の能力者だ。
昔のバトル漫画によくいたけどな、そういうキャラ。
汗で打撃をいなしたり、滑らせたりしてくるようなやつ。
あいにく、師匠との修行でもそんなピンポイントなスキルは習得していない。
まあ、毎回ボコボコにされていたから、修行終わるといつもよくわからない汗出してたが。
なんか殴られるのと折られるので、微妙に汗の種類変わる気がするんだよな。
気のせいかもしれないけれど。
「むー、つまんない人ですね。好みのタイプって言ってあげてるんですから、喜んでくださいよ」
「あ、そこはリップサービスでも普通に嬉しいな。どうもありがとう」
「素直っ!」
上目遣いで不満そうに見てくるルナティアにお礼を言ったら、彼女は少し驚いたような声を出した。
だって、喜べって言ったじゃん。
そりゃ嬉しいよ、嫌いなタイプって言われるよりは。
「――ああ、いえ、素直なのは美徳ですね。素晴らしいです。……リップサービスだなんて、いやらしいことを初対面の女の子に言うのはアレですが」
「リップサービスにいやらしい意味なんてねえよ! 思春期の男子か、おまえは!」
そうツッコミを入れて。
次の瞬間には、俺は口に出していた。
「……ん? あれ? 初対面?」
そう彼女の口から言われた時に、なんだか自分でも説明のできない違和感があったのだ。
「初対面、でしょう。なに言ってるんですか。……まさか、前にあったことないか、とか口説くつもりなら、ウルドガルドでも呆れちゃうくらい古いナンパですよ、それ」
ルナティアは、冷ややかな感じで言う。
「……いや、そんなつもりはないんだ。ごめん」
そうだよな。初対面のはずだ。
俺も今までそう感じていたはずだ。
けれど、なんだろう?
この胸に引っ掛かる感じは。
なにか大切なことを忘れているような。
なにか大切なことに気付いてないような――
「――そんなことより」
俺の思考を遮るように、ルナティアが話題を変える。
なんかジト目で、こっちを見ながら。
な、なんだ?
俺がなにをしたって言うんだ?
――はっ! もしや、リップサービスってウルドガルドではどぎついセクハラ発言だったとか?
ち、違うんだ。
そんなつもりじゃなかったんだ。
謝罪と弁解のため、俺は口を開く――その前に。
苛立たしげに、ルナティアは言った。
「あなたは、ハグの仕方がなってませんっ! 背中に手を回すくらいできないんですか、このへたれ!」
「……えぇ……」
今さらそこを責められるのか。
確かに手はルナティアの身体に触れないようにしていたが。
しょうがないじゃん。
美咲ちゃんとする時のように気安い感じにはできねえよ、俺だって。
むしろ、配慮したつもりだったのに。
へたれとまで言われなければならないほどのことなのだろうか、これは。
「なんですか? いちいち言わないと、ダメなんですか? 指示待ち人間ですか?」
なんで俺は名前しか知らない女の子に、ハグのやり方でダメ出しされているんだろう。
「わ、わかったよ。ちゃんとやるから」
俺は、そっと彼女の背中に両手を回す。
パーカー越しのルナティアの背中に、手のひらが触れた。
……あれ?
妙に弾力のある感触だ、と思った次の瞬間。
「…………っ!」
どんっ、と思い切りルナティアに突き飛ばされた。
そこでようやく、俺たちの身体は離れることとなる。
「――ぴ、ピンポイントで敏感なところ触らないでくださいっ、エッチ! おバカ!」
「ルナティアがやれって言ったのに!?」
そんな敏感なら言っといてくれよ。
これでもだいぶ繊細に接したし、変なところ触ったつもりなかったんだけどな。
……ただ、まあ。
過失ではあれど、女の子の触れられたくない部分に触れてしまったのは確かだ。
それは、きちんと謝ろう。
「……ごめん。わざとじゃないんだ。許してくれ」
「い、いえ、こちらこそ……乱暴な真似をして、すみませんでした」
深々と頭を下げた俺に、少し気まずそうなルナティアの声が投げ掛けられた。
良かった。許してもらえそうだ。
頭を上げて、俺は右手を差し出す。
「じゃ、ほら、仲直りの握手しようぜ」
別に喧嘩したわけじゃないけども。
儀式としてこういうのは大事だ。
「……また子供みたいなことを言いますね。いいですよ。はい、握手しましょう。仲直りです」
失笑を浮かべ、ルナティアは俺の手を取る。
「……手、大きいですね」
妙に優しい声だった。
どこか慈しむような。
「それに武骨な手です。――いろいろと苦労を、してきたのでしょうね」
なんか急に労われてしまった。
……そんなに苦労人の手をしてるのだろうか、俺は。
初対面の女の子に心配されてしまうほどに。
「そうでもないよ」
安心させるように、俺は言った。
言うべきだと思った。
確かに、それなりに苦労はしてきたかもしれない。
幼い頃に家族が死んで、いじめられるようになって、好きな娘ができてしばらくしたら、俺は一度死んでしまった――そして、人造人間になった。
妹を護れなかった。
美咲ちゃんを泣かせてしまった。
悲しいことも辛いことも――
あるには、あった。
でも。それでも。
「案外楽しく生きてるんだ、俺」
それは、偽りのない本心だった。
人造人間になった後の俺を待ち受けていたのは、この身に余る力を制御するための厳しい修行や戦いの日々だったけれど。
そりゃ、俺はなんの才能も素質もない、ただの子供だったから、たまに挫けそうになる日もあったけれど。
そんな時、不思議と頭の中に響く声があったから。
――『がんばれ、がんばれ……がんばれ、お兄ちゃん!』って。
途切れ途切れだったけれど、確かに。
俺を励ます、亡き妹の声が聞こえた。
幻聴でも、構わなかった。
だって、実際に励まされたんだから。
そのかすかな響きだけで、俺は何度でも立ち上がれたんだから――何度でも、笑えたんだから。
それに。
美咲ちゃんはいつだって傍にいてくれたし――ギンコにだって出逢えた。
だから、生きていて楽しい。
俺は、毎日が楽しいんだ。
美咲ちゃんやギンコがいれば、退屈することなんてないからな。
「いや、案外じゃねえな。俺、めちゃくちゃ楽しい人生な気がする」
そんな俺の言葉に、ルナティアの金色の瞳が僅かに揺れる。
そこにどんな感情が含まれるかは、俺にはわからないけれど。
「……ああ――それは、良かったです」
そう言って、ルナティア・フォン・スレイは微笑んでくれた。
何故だか彼女自身が、とても幸せそうに。