都会の迷える子羊、からちゃんの成長物語。いや、成長できるのかな、きっと成長できますように。
第一話
土曜日の昼下がり。
朝からずっと小雨。
からちゃんは地下鉄の階段を上がって、うつむきながら小さなため息をひとつついて、帰り道を歩き出した。
家まで遠くはないけれど、小雨だけど、そうだ、いつもとは違う道を歩こうっと、少しだけ気分を変えようと、いつもは曲がらない角を曲がってみた。
「こんなとこにカフェがあったんだ。」
住宅街の中、人通りも少ない場所に、こざっぱりと控えめにたたずんでいるカフェを見つけて、からちゃんは足を止めた。
「CAFE LUFU」
雨に溶け込んでしまいそうな、目立たない小さな看板。
なんて読むのかな。
るふ、かな。
そう思いながら、立ち寄ってみることにした。
木製の扉を押すと、からん、とドアベルが鳴って、「いらっしゃいませ。」と、小さなカフェの小さなカウンターの向こうから、マスターらしき男性が声をかけてくれた。
マスターかな、とりあえず、マスターっぽいし。
中途半端な時間のせいか、他にお客さんもいなかったから、からちゃんはカウンター席の近くで、「ここでもいいですか。」と、消え入るような声で聞いてみた。
マスターは、少し微笑んで、「どうぞ。」と言った。
低くて、温かみのある声だった。
注文したカプチーノには、ラテアートがされていたのだけれど、はて、何の模様だろう。
よくある葉、のようだけど葉柄がないから葉じゃないみたい。
上はとがっていて、下は丸い。
涙かな。
からちゃんが小さく首をかしげていると、マスターが話しかけてくれた。
「雨のしずくに見えますか。」
「雨の、しずく?」
「はい。」
そういえば。
今日は誰かとちゃんと話していなかったな、と、からちゃんはそのときはじめて気が付いた。
土曜日や日曜日にはよくあることだけど。
この頃は、職場の人間関係に少しだけ疲れちゃって、お休みの日には読書をしたり、英語の勉強をしたり、一人で過ごすことが多くなっていた。
「ため息をついていましたね。」
「あ、そうでしたか。ごめんなさい。」
「謝ることはありません。きっと、こんなお天気のせいですね。」
「もう、せっかくの土曜日なのに朝からずっと雨で、いやになっちゃって。」
からちゃんの言葉に、マスターは目を細めてほほ笑んだ。
なんだか温かい笑顔だな。
「せっかくの土曜日なのに、朝からずっと雨では、残念ですね。
雨は、いやなものですか?」
「えっ。だって、雨の日って、空も暗いし、靴も服もぬれちゃうし。」
「ぼくは、雨の日は好きですよ。」
マスターは、ほんの一瞬、からちゃんの目をまっすぐに見つめた。
からちゃんは、心の中まで見られたような気がして、すこうし、うつむいた。
天邪鬼なことをはっきり言うなんて、私みたいだな。
そう思うと、からちゃんは、カプチーノに目を落とした。
マスターは、ぽつぽつと雨のお話をしてくれた。
からちゃんは、なんだか照れてしまって、マスターの顔を見られなかったから、適当な相槌を打って、また来ますね、と言ってカフェを後にした。
そうして、帰り道に、マスターの雨の話を思い出していた。
雨って、みんなはきらいとかいやだって言うけど、僕は好きです。
僕も以前は、天気予報を見ては、雨の予報にがっかりして、雨雲を見上げては、顔を曇らせて、傘をさしては雨の悪口を言ってました。
でも、あるときにふと気が付いたたんです。
雨のことをちゃんと自分で考えたことがないってことに。
それから一日中、雨について考えていました。
いえ、一日どころか、一週間くらい考えていました。
もちろん、それだけしていたわけじゃなく、いろいろ仕事しながら、断続的に、雨のことを自分なりに掘り下げて考えてみたんです。
こうやって都会に暮らしていると、雨の恩恵って感じにくくなっちゃっているかもしれない。
でも、晴れた日が続いた後に雨が降ると、たとえば、街路樹はうれしいと思うんです。
道端の草も、うれしい。
畑も、森も、きっと植物は、だいたい、うれしい。
森に水分があれば、喜ぶ虫もいるだろうし。
土の中の生き物や、微生物も喜んでいるかもしれない。
水不足の心配がなくなる時もある。
そうして、雨が降らなかったら、地球の水の循環がうまくいかないことにも思いを巡らせてみたんです。
つまり、雨は、水の循環だから。
知っているはずのことなんだけど、この頃忘れちゃっていたんですね。
そう考えたら、雨って、ただ必要なだけじゃなくて、地球上のいろいろなものにとっての恩恵だって思えてきたんです。
そう考えると、次第に、雨の日もいいものだなって思えてきました。
僕は、雨の音も好きになりましたよ。
街に降る雨の音。
傘に降る雨の音。
葉に落ちる雨の音。
雨の音って、同じじゃなくて、場所によっても違うし、その時その時でいつも違うんです。
気を付けて聴いてみるとね。
雨が降り始めて、ざぁっと降って、雨が上がる。
降り始めは、手のひらに雨粒を受けて、あ、雨だって気が付くけど、降りやむときって、誰も気に留めていない。
ぼくは、雨が降りやむときを注意深く観察しているんです。
ざぁっと降っていた雨が、ぱらぱらっとなってきて、少し空が明るくなって、晴れ間が見えてきて、もう傘も閉じようかなって時に、気を付けて、空から落ちてくるこの雨の最後の雨粒を手のひらに受け止めてみる。
雨のしずくの温度を感じてみるんです。
この雨は、あの高い雲から、僕の手のひらに届いたんだなって、そう思うと、自分も水分の循環のサイクルの一部になったような気がしてくる。
君も、雨について、考えてみてはどうでしょう。
なにか、発見があったら、教えてください。
大体はこんな話だった。
からちゃんは、雨について深く考えたことなんてなかったから、戸惑ってしまって、どんな適当な相槌をしたのかも覚えていない。
でも。
雨について、自分で考えてみよう。
みんなが、雨の日に、いやな天気だね、って言うのに、そうだね、いやだねって言わずに、今日の雨は素敵だよって言えるようになるかもしれない。
ふと立ち止まって、街路樹に目をやると、街路樹も雨に濡れて喜んでいるように思えてくる。
雨は、この上なくやさしく葉を濡らしている。
雨粒を見つめてみると、小さな光を内包してひとつぶ一粒がきらきら輝いているよう。
傘に落ちる雨の音も、音楽のように聞こえてくる。
雨音を聞いていると、もうなんか気持ちが落ち着く、とまで思えてくる。
自分の体内の水分と雨が呼応しているような、不思議な感覚に包まれる。
この雨は今日だけの雨。
雨も一期一会なのかな。
雨って、じっと見ていると、きれい。
この雨の降り終わるとき、私も最後の一滴をてのひらに受けてみたい。
そんなふうに考えていると、傘の下で、からちゃんは小さく微笑んでいた。