9 アスワド
アンデッドが徘徊する王都。
もうそろそろ、ほぼ全ての市民が下級アンデッドに変わっているはずだ。時々、逃げ惑う人々の叫びが上がるが、すぐに掻き消えた。
城門は、あらかじめ奴隷たちによって施錠させてある。外に出ることも出来ないだろう。
数日前から、門兵がいないことを、不審がる者はいなかった。
眼下に広がる惨状を見るリリィシアの表情は穏やかだ。
そして、隣に立ったクロスの表情も思った以上に落ち着いていた。真っ当に勇者をやっていた頃であれば、こうはいかない。正義感に燃えていた昔の自分が他人のように感じた。
これも祝福の代償として記憶が自分の中から抜け落ちていくからだろうか。
クロスという人間が死に、新しい自分になったようだ。
いや、死んでいるのかもしれない。今、ここで街を見下ろす自分は、アンデッドのようなものなのかもしれなかった。
「今日も記憶が消えたのですか?」
クロスの心中を察したのか、単にタイミングが合っただけなのか。リリィシアが笑顔を向ける。
「まあな」
クロスは別段気にすることもなく、握っていた掌を広げる。
薄紅色の結晶。光に透かすと、記憶の断片を覗き見ることが出来た。
「特に意味もない記憶だよ」
旅をしていた頃の何気ない日常の一コマだ。
寝坊するクロスを怪力のストリェラが叩き起こして、朝食を作れと強請る。無視すると「お腹すいた! 死んじゃう! あたしが!」と言って暴れはじめるので、渋々作っていた。
朝食を終えたら、ジンと剣の稽古。なかなか上達しないクロスに「そのうち上手くなるさ。がんばれよ、勇者!」とジンが豪快に笑った。
それだけの記憶だ。なんの変哲もない。
「楽しそうですわね。魔王軍と戦っているとは思えないくらいに」
「この頃は、まだ四天王も倒してなかったしな……勇者って言っても、その辺の冒険者と大差なかったと思う」
「冒険者ですか。昔は神殿以外にも魔族狩りを生業にしている方々がいらっしゃったと聞きました」
「今はいないのか? お前、聖騎士なんだろ?」
「神殿の討伐隊以外だと、地方に少々。聖騎士や魔法使いは職業と言うよりも、称号のようなものでしょうか。恐らく、冒険者が活発だった頃の名残りですわね」
「百年も経つと、結構変わるんだな」
リリィシアの言葉を聞いて、クロスは腕組みした。
元居た世界も百年で歴史が随分と変わっていたと思うので、似たようなものだろう。勉強する側は覚えることが多くて、堪ったものではなかったが。
「クロス様は歴史も勉強されていたのですわね。元の世界では上流階級のお生まれですか? それとも、こちらと同じで魔法の学校が?」
「身分や魔力がなくても、みんな学校へ行くよ。男も女も。ダルいけど……平等ってやつかな」
「え、そうなのですか? そんなことをして、意味はあるのですか?」
「意味……全体の学力が上がると、それだけ科学も進むと思うし、いろんなことが出来る。たぶん、世の中を豊かにするためじゃないかな」
「世の中を豊かに。素晴らしいですわ」
リリィシアはにっこりと笑って、手を叩いた。
「平和だったからな」
「平和……?」
リリィシアが心底不思議そうな顔をする。
「ふん。魔王殺しの勇者が、今度は魔王気どりの殺人鬼か」
二人の後ろで憎々しげな声が聞こえた。
ダークエルフの少女だ。彼女は貧相な胸の上で腕を組み、クロスに挑むような視線を向けている。
「気に入らないか」
「言ったはずだ。儂らダークエルフは、貴様ら人間のように無意味な殺しはせぬ」
「魔王軍に加担していたくせに」
そう言うと、ダークエルフの表情があからさまに歪んだ。
憎悪を叩きつけるよう。しかし、なにかに耐えているような。
「……儂は魔王軍には入っておらぬ」
ダークエルフは長命種だ。恐らく、このダークエルフは百年前の世界から生きている。
だが、クロスを見ても勇者だと気づかなかった辺りで察していた。彼女は、あのとき魔王の軍勢にはいなかったのだろう。
「確かに前魔王はダークエルフの出身だ。だが、ダークエルフが皆魔王軍に加勢したわけではない。ごく一部に過ぎぬ」
ダークエルフは拳を握り、唇を震わせていた。けれども、やがて正面からクロスに視線を突きつける。
「邪悪な闇の眷属などと……! 儂らはなにもしておらぬ。それなのに、人間どもは魔王軍に加勢した悪の種族として、他の魔族らと共に儂らを狩りはじめおった! ……だいたい、魔王は……好き好んで魔族を率いたわけではない」
ダークエルフの身体から魔力が溢れ出るのがわかる。精霊族らしい強大な魔力だ。
「確かに、定期的に神殿が魔族狩りを行っております。人間は生活圏を大きく広げることになりました」
リリィシアが補足するように説明する。
魔王軍は敗北した。魔王を失い、魔族全体の力も弱まったことだろう。
魔王とは単に強い魔族がなるものではない。
魔の火山に選ばれ、火山の魔力を制御出来る者に与えられる称号であると、クロスが倒した魔王が言っていた。
魔王と一緒に魔の火山も封印したので、今は機能していないはずだ。そのせいで、魔族や魔物全体の力が落ちている。
「それで、あなたは人間を殺しに人里へ現れ、捕えられたのですね?」
リリィシアに問われて、ダークエルフはハッと表情を固める。
この情報は、彼女を売り物にした奴隷商人から得たものだ。彼女の表情を見た限り、嘘ではなさそうである。
「彼奴らは、儂らの村に踏み入った……! 儂らが狩りに出かけておる間に……村に残された力の弱いダークエルフを狙ってな!」
ダークエルフの瞳の色が焔のように揺れる。まるで、村に放たれた火を映し出すかのようだ。
「それで、お一人で復讐をしようとして、返り討ちにされたのですか?」
「誰でも良いから、人間どもを殺してやりたかったッ。わかるか? 儂が村に帰った頃には、全てが終わっていた。家は灰にされ、同胞の死体を燃料に火が燃えていた。何度も刺され、誰のものかもわからなかった! 生きたまま獣に食い殺された者もいた。刃で身体を磔にされ、辱めを受けながら死んでいった者が野晒しにされていた!」
溢れ出る感情が魔力になって放出される。けれども、術が完成することはなく、黒い霧のような闇を伴って空気に広がるばかりだ。
「全てが終わったあとで……儂は、同胞らになにをしてやるべきだった? 弔ってやるしかあるまいよ!」
歯が折れてしまいそうなくらい、口を噛み締めている。
浅黒い頬に涙が流れていった。
彼女もクロスと同じである。復讐にとり憑かれ、人の死を求めている。
狂おしいほどの感情の焔に身を焼かれ、耐えることが出来なくなっている。
そして、無意味に殺さぬ高潔なダークエルフを誇りに思う自我の崩壊に苦しんでいる。
その様は、クロスにはないものだ。人の心を失ってしまったクロスには、想像しか出来ない。だが、もしもクロスに、もっと人間らしさが残っていれば、きっと彼女と同じだっただろう。
共感は出来ないが、理解は出来るつもりだ。
「なら、好きなだけ殺せ」
クロスはダークエルフへ踏み出す。
ダークエルフは戸惑った様子で一歩さがった。クロスはその間に三歩詰め寄る。
「俺に従えば、好きなだけ殺させてやるぞ?」
自然と唇が吊り上って笑みを描く。クロスは伸ばした手で、ダークエルフの頬を拭った。
「お前と同じ想いの魔族はどれだけいる? お前だけではないはずだ。違うか?」
ダークエルフは困惑した様子で視線を逸らす。
「【目を逸らすな】」
魔力を込めて命じると、ダークエルフは素直に応じた。抵抗の意思はないようだ。空気中に放出されていた魔力も徐々に鎮まる。
「貴様は……本当に、魔王となるつもりなのか?」
「俺の目的は、この世界を壊してやることだ。俺を裏切った世界の連中を殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して――殺し足りない。その手段が魔王になるというだけの話だよ」
優しい感情は意識しても、思い出すことが出来ない。いや、思い出すことは出来る。
だが、至極つまらなく、価値のないもののように思えてしまう。
復讐にとり憑かれた憎悪の焔は止むことを知らない。無意識のうちにわき上がり、なにもかもを壊したくなる。
「魔の火山への道を開くには、魔族の力が必要だ。俺の復讐のついでに、お前たちの復讐も手伝ってやるよ。少なくとも、お前は殺したくて仕方ないんだろ?」
ダークエルフの首筋を掴んで問う。
こんな首はすぐにへし折れると見せつけるように、肌に爪を食い込ませた。
「……ああ、儂は人族が憎い……村を襲った神殿の連中を一人残らず殺してくれるッ!」
ダークエルフは視線に力を込めて、クロスを見つめ返した。わずかに口角があがり、笑っている。
クロスは満足して、首から手を離してやった。
「アスワドだ。儂のことは、そう呼べ」
ダークエルフ――アスワドは掴まれていた首に触れて、そう言った。あまり力を入れたつもりはなかったが、アスワドの首には薄っすらとクロスの爪痕がついている。
「俺のことはクロスでいい」
「そうか、クロス」
別に敬語を使えとか、かしずけと言うつもりはない。まだ魔王でもないし、アスワドにもその気はないようだ。【精霊隷属】の力を使う必要もない。
「クロス、貴様は魔族よりも禍々しく笑うのだな」
皮肉めいた声で笑われた。だが、クロスは否定しない。
たぶん、本当のことだから。