52 変革
かつての勇者は言った。
全ての人を救いたい。
この世界の全てを。
勇者は魔王を倒し、世界に平和が訪れた。
平和は訪れた。
訪れたのか――?
そこに訪れたのは、誰にとっての平穏であろうか。
エルフやドワーフは森や山に隠れた。
魔族は荒れ地に追いやられ、狩られる存在となった。
人間たちはその数を増やし、同種同士で争った。
世界を救ったはずの勇者は排除された。
かつての勇者が救ったものは、なんだったのだろう。
そもそも、救われたものはあったのだろうか。
世界の調和は乱れ、変容した。
それが新たな平常であるのか、それとも、滅びへの道であるのか。
変革の意味は見出だせておらず。
その先の未来も見出だせておらず。
かつての調和を取り戻そうとする者。
更なる変革による滅亡を望む者。
現在の調和を維持する者。
傲慢なる復讐者に身を堕とす者。
「正しいとは、思っていないさ」
誰に言うでもなく、クロスは呟く。
「正しいと信じるのは、結構辛い」
それが結果的に正しくなかったと悟ったときの瞬間を、クロスは知っているから。
もしかすると、再召喚されたとき、クロスの心は壊れてしまったのかもしれない。
無償で世界を救いたいと思った。そのために多大な犠牲を払った。
そして、人間たちから追われ、仲間も失った。
それでも、すぐに復讐しようとは考えなかったのだ。今にすると疑問しかないが、不思議なことに、その発想は本当になかった。
無欲で自分に無頓着。
日本での記憶も代償としてどんどん抜けていき、自分というものが希薄になっていたのかもしれない。
それで幸せになっている人がいるのなら、それでいい。
自分は救われなかったかもしれないけれど、世界は救われたのだから。
でも、違った。
なにも変わっていない。
なにも解決していない。
争いが消えても、新しい争いが生まれただけ。
再召喚で思い知らされ、クロスは絶望した。
自分が行ったことは全て無駄で、なにも残らなかった。
知った途端に怒りがこみ上げて、こみ上げて、こみ上げて! こみ上げて! こみ上げて……!
正しいことだとは思わない。
思わないが。
日々、代償として失われていく自分らしさと人間性。
一片も残さず消えてしまう前に、自分の欲のために生きてしまっても、いいのではないか。
自分を犠牲にし続けたクロスに許される我儘ではないか。
「ご主人様ぁ♪」
クロスの脇に、イスファナが飛びつく。
腕が豊満な胸部が埋もれた。露出の激しいローブは人間の娘であれば一言注意しているところではあるが、死霊なので関係ないだろう。
「後方のララよりご連絡でぇ〜す! アッカディア・カルディナの連合軍と交戦開始。数は二万らしいですよぉ。ねぇねぇ、ご主人様ぁ。イスファナも行って、殺してきても良いですかぁ? 人間、殺して大丈夫ですよねぇ?」
イスファナが蕩けそうな顔で舌なめずりをする。柔らかい胸部を擦りつけながら、おねだりしているとわかった。
「お前はこっちにいろ」
「ええ!? どうしてです!? イスファナも! イスファナもぉ! あ、おっぱい揉みますか? 好きなだけ揉んで大丈夫ですよ! しばらく、イスファナと離れても安心です!」
「いや、揉まないよ。俺が胸のためにお前を置いてるような言い方やめてくれないか」
「違うんですかぁ?」
「違う」
確かに、イスファナの外見と性格はクロスの好みではあるが。
娘のような存在の胸を触って性欲を満たすなどという趣味はない。
「おっぱいだけじゃなくても、構いませんよぉ?」
「別にいい」
恥じらいもなく、ローブの裾をめくりはじめるイスファナの手を押さえて止める。
チラッと見えた太腿も実に扇情的ではあったが……思ったよりも興味はそそられなかった。それよりも、戦況の方が気になってしまう。
クロスは大きな溜息をついた。
「交戦中なのは二万なのか」
「はいぃ。その通りですぅ。だから、イスファナもチョロッと殺したいですぅ」
「やっぱり、お前もここにいろ」
「えええええ!」
イスファナが酷く落胆する。勝手にクロスの手を掴んで、自分の胸部を触らせようとしてきて、反省の色が見えない。
柔らかい。以上。
「すぐに殺せるさ。飽きるくらいな」
クロスはニヤリと嘲笑って立ち上がる。
手には、剣が一振り。用意周到な相手を無準備で迎え討つのは面倒というものだ。
「新しいアイテムですかぁ? 殺せますか?」
「まあね。それなりに歓迎してやるさ」
「はいはーい! イスファナちゃんが命名したいでーす!」
イスファナが剣を見ながら指を咥える。口の端からヨダレが垂れて、蕩けそうになっている。
「えーっとぉ。『キラキラ恋のおっぱい体操』とか、どうですか?」
「却下」
「えええ! どうしてですぅ? 新曲のタイトルなんですよぉ?」
「趣味じゃないね」
「え? ご主人様?」
イスファナが驚いた顔でクロスを覗き込んだ。
珍しく、イスファナとセンスがズレていると感じた。愛娘的な存在であるイスファナのことは、たいてい受け入れるつもりだが、不思議とロマンが感じられない。
まあ、こんなこともあるか。
そう感じた瞬間、ある疑念が頭を過った。
「そんなはずは――」
そんなはずは――ない。
たまたまだ。
こういうことがあっても、いいではないか。
否定すると同時に、受け入れる自分もあった。
もうクロスは以前の自分ではない。
勇者クロス・カイトでもなく、普通の黒栖海斗でもない。
思い出は日々抜け落ちて、自分のものではなくなっていく。かつての自分ではなく、全く異質な自分へと変容していっている。
自分が消えていく。
最終的にクロスは、なにに変わってしまうのか。
もしも、この身を動かす復讐の炎さえ消えてしまったとすれば?
そうしたら、なにが残るのだろう?
「ご主人様ぁ?」
イスファナが甘い声で首を傾げた。
クロスは表情が消えたまま、イスファナの顎を指で掴む。
躊躇いもなく、艶めく唇に唇を寄せた。貪るように、なんの配慮もなく。イスファナは特に文句も言わず、クロスのされるがまま従っている。恐らく、この死霊は主であるクロスが命じれば、自害だってするだろう。
特に感慨などなく。
単なる作業をこなしただけ。
そんな気がした。
「もうっ! ご主人様ってばぁ♪ イスファナ、嬉しいですぅ! キャピキャピッ♪」
「そうか」
イスファナが胸を揺らしながら、満足げに笑う。
クロスは特に頓着せず、踵を返した。
自分の行く末に恐怖しないこともない。
だが、そのときはそのときで、やりたいようにすればいいのではないか?
いくら変わろうと、別段構う必要を感じない。
自分のやってきたことが無になることなど、よくある話ではないか。
魔王を倒した勇者が裏切られたときのように。




