46 同じ鼓動
「クロスは人間だよ。あたしが保証してあげる」
ふと振り向いたストリェラが、クロスを見上げて笑った。
ハーフエルフの少女は、愛くるしい表情のままピンク色の髪を耳にかける。それでもクロスは笑うことが出来ずに、表情が死んだまま見下ろしてしまう。
もう勇者として旅をはじめて二年になる。
冒険初期と違って自分の能力も使いこなして、出会う魔物にも苦戦しなくなってきた。ようやく、召喚された勇者らしくなってきたが、――この頃から、クロスは自分の身に起こっている変化に気がついていた。
祝福の代償によって、自分の感情が、人間としての心が……少しずつ失われていくことに、純粋に恐怖した。
「そんな顔しないで」
両手で握り締められた手に温かみが伝わる。
「手の形も、あたしと一緒。口だって、みんなと一緒だよ」
そう言いながら、ストリェラはそっとクロスの唇に触れた。
探るような指先が当たって、クロスはなんだか恥ずかしくなってしまう。ストリェラの方も顔を真っ赤にしていて、恥ずかしいのだとわかる。
「ほ、ほら、ここも……」
熟れた果実みたいな顔のまま、ストリェラはクロスの手を自分の方へ引き寄せる。
そのまま右手をストリェラの胸に押し当てられ、クロスはいよいよ狼狽した。
「一緒!? いや、明らか違うだろ!?」
「え、ええ? あ、ごめん……あたし、ハーフだから……」
「そこ、あんまり大事じゃない。俺はそんなものは重視していない!」
男と女ではだいぶ胸の厚みが違うんですけど!?
思っていた以上に大きくて柔らかい胸の感触が絶妙に気持ち良い。自慢ではないが、日本にいた頃から換算しても、女の子の胸を触るなどという経験はしたことがなかった。ザ・童貞並みの感想である。
「ち、違うわよ。馬鹿なんじゃないの!? む、む、むむむ胸の音に決まってるでしょ!? 察してよ、馬鹿!」
ようやく理解したストリェラが叫んだ。
「健全な男子に、その辺察しろと言われても無理なんだけど!?」
「いっつも、色気ない色気ないって言うくせに!」
「おい、跳ねるなよ。揺れてるぞ!?」
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」
ストリェラがものすごい剣幕でポコポコ殴ろうとしてくる。
とっさに避けると、後方にあった大きな岩にポコポコと凄まじい穴が空いてしまった。自分の怪力を自覚して欲しいものだ。
危うく死ぬところであった。
「まったく、これだから可愛げも色気もないんだよなぁ。おまけに痴女とか、冗談じゃないぞ」
「あ、あたしのどこが……! 馬鹿、もう、ホント馬鹿! 知らないんだから!」
真っ赤な顔でキンキン喚かれると、耳が痛い。
クロスは適当に聞き流しつつ、数歩後すさる。
「でも、ありがとな。ストリェラ」
口にすると照れ臭かった。
ストリェラが頬を膨らませて「べ、別に!」と言うのを確認して、クロスは踵を返して歩き出す。
祝福の代償。
抜け落ちた記憶の結晶が、床を跳ねる。
透明度の高い薄紅色の結晶に映った記憶を、クロスは無感情に眺めた。もう自分のものではなくなってしまった気がする。
「拾えよ」
クロスは椅子に座ったまま短く告げた。
「はい、承知しました。クロス様」
リリィシアが前に出て身を屈めた。
クロスは足元に来たリリィシアの頭に、靴の裏を押しつけるように蹴る。
「口で拾え。犬みたいに」
特に意味はない。
クロスの命令にリリィシアは躊躇することなく、両膝を床についた。犬みたいに四つん這いになった王女の姿を、クロスは黙って眺める。
記憶の結晶を唇で挟み、リリィシアは跪いたままクロスを見上げた。犬みたいに次の指示を待っているのだと理解して、クロスは軽く手招きしてやる。
「王族のくせに」
やはり、リリィシアは笑っていた。
王女である彼女にとって、これは辱めである。それでも、リリィシアはいつも通りの表情で立ち上がった。
しかし、これくらいで屈するような女なら、もうとっくに殺している。
クロスは満足げに笑って、口を軽く開いた。
リリィシアがひじ掛けに両手をついて、前に乗り出す。クロスの足の間に自分の膝を挿し入れて、ゆっくりと近づいた。
特になんとも思わない。
クロスはそのまま、リリィシアから口渡しで結晶を受け取った。
この世界に召喚されて祝福を受けて、四年と少し。随分とたくさんの記憶が自分から抜け落ち、そのたびに空っぽになっていった。
どんどん人間的な感情が消えていくのを実感して、恐怖した。
同じように祝福を受けて、祈るたびに姿が変わってしまった聖女を見て、嘲笑う一方で怯える自分もいた。
同時に少し羨ましかった。
クロスの祝福は成長型。破格の能力を手に入れるまでに長い月日を要するものだ。代わりに、代償も遅行性で、記憶が抜け落ちるのは一日に一度である。
ゆっくりと代償に蝕まれてきた。何年もかけて。
どうせ、人間の心などなくなってしまうなら、もっと早く終わらせて欲しいのに。
「お前は、人間か?」
わかりきっている答えを問う。
「わたくしは人間ですよ」
リリィシアは当然のように答えて、クロスの目を見つめ続けた。息がかかるほどの至近距離で、菫色の瞳が笑みを描く。
「人間です、わたくしは」
あなたは違う。そう言わんばかりの言い回しだ。
いや、違う。
俺は人間だ。
そう叫びながら、目の前の女を殺してやりたい。
でも、言葉は出てこなかった。
「クロス様は、ご自分が人間だと信じていらっしゃるのですわね」
リリィシアの言葉なんて、聞こえなくなっていた。
クロスはおもむろに、リリィシアの胸部に触れる。
柔らかに肌の盛り上がりと、体温。
その奥から落ち着いた律動の鼓動が伝わった。
トクン、トクン。
心臓が動き、命が続く鼓動。
目を閉じると、自分の中にも同じものを感じ取れる。
「あなたは最高の魔王ですよ」
ああ、よかった。同じだ。
あのときと同じ。根拠のない安心感に、クロスは息を漏らした。




