42 人間
「わたしは人間だ!」
叫びながら地を蹴る。
人など殴ったことはない。しかし、「とにかく誰よりも強くなりたい」と祈った通り、アリアの身体は勝手に動いていた。「そうしたい」と願うと、身体が自然と実現させる。
「ああああああああああああああ!」
雄叫びのような、悲鳴のような。よくわからない声をあげながら、アリアは腕を振る。
人間の身体が曲がり、骨が砕ける感触がする。いとも簡単に肉が潰れる様は気持ち悪くて吐き気がした。
それでも、それなのに、衝動はおさまらない。
目の前の魔王を跡形もなく消し去ってしまいたかった。
「わたしは……わたしは! 少しでも救いたくて……この世界を、変えたくて……!」
悲鳴のような声は言語にならない。動物かなにかのように感じられた。
アリアは自分を止める術を知らないまま、何度も拳を振った。
硬いはずの頭の骨がパリパリと呆気なく割れて、中のものが飛び散る。紅のような灰のような色の内容物を手で掴んで、ぐちゃぐちゃになるまでバラ撒いた。
わたしは人間だ。わたしは人間だ!
目から涙がこぼれて鼻先に滴る。こんな風に人間を潰していても、わたしはちゃんと人間だ。涙も出るし、声だって出せる。
だから、大丈夫。だって、わたしは人間だから。
「あは……あははははは」
魔王を倒せばいいんだ。
そうすれば、世界を救える。みんなアリアを受け入れて、一緒に世界を変えていける。だって、アリアは偉業を成す英雄なのだから。かつて魔王を倒した勇者クロス・カイトと同じ。人々に讃えられ、後世まで語り継がれる伝説となるのだ。
「わたしは、変えるの……世界を、変えるの!」
胴も半分に割って、中のものを引き摺り出す。人の中身って、こんなに柔らかいんだ。妙な感慨と共に、躊躇なく骨を砕いた。
そこに、かつての人間はいない。
魔王として立って笑っていた男は文字通り、ただの肉の塊になってしまった。禍々しい黒髪も血で元の色がわからない。足元に転がる黒い瞳を宿した眼球を踏みつけて潰してやる。
気がつけば、アリアは肩で息をして立っていた。
「ふふ……ははっ……あははは! なぁんだ……呆気ない!」
あんなに強かった魔王が、こんなにも呆気なく死んでしまった。
アリアの手で殺した。肉を裂いて、骨という骨を砕いてやった。温かい内容物も全部引き出して地面にぶち撒いた。
「いい気味よ」
当然の報いだ。
だって、彼は魔王だ。
何十万人も殺した大罪人である。
彼を倒すことは正義であり、人間を救うこと。
アリアは魔王を倒した英雄なのだ。
「お前が望んでいるのは、世界の変革か? それとも、英雄ごっこで讃えられたいだけか?」
ぞっとするような声がした。
いや、声がした気がする?
背筋が凍り、アリアは後ろを振り返ろうとした。
途端、首筋を強い力で掴まれる。
「うっ……ぐッ……」
なんで?
目を見開いて、後ろに立った男を必死で見る。
「どれだけ強くなっても、お前はただの小娘なんだよ」
弄ぶような感覚。力を入れれば、アリアの首など折れてしまうだろう。その恐怖をしっかりと刻みつけながら、男は笑った。
「夢見すぎだろ」
黒い双眸には、明らかな嫌悪が映し出されていた。
足元にバラ撒かれていた血が消えていく。バラバラに砕かれた骨や抉り出された肉が灰のように細かく崩れていった。
魔法で作り上げた幻だ。
アリアは祈りの力で自らを強化した。だが、決定的に戦闘の経験が足りない。元々魔法使いでもないアリアには、紛い物を見破ることすら出来なかった。
「お前の大好きな勇者の末路ってのを、教えてやろうか?」
何故だか耳を塞ぎたくなった。
まだ男は何も語っていない。それなのに、アリアは聞いているのが耐えられなくなっていた。
「勇者は世界を救えると思っていた。異世界から呼ばれて、言われるがままに戦って……魔王を倒せば、全てが上手くいくと信じてな」
手首が掴まれ、後ろに捻られた。特殊な捻られ方をしているのか、どれだけ力を入れても上手く腕が動かない。
「あ、く……は、ぁッ」
「勇者は世界を変えられると信じていたよ。力を持てば不条理な差別も争いもなくなる。誰も傷つかない世界を作ることだって出来る。魔王を倒せばハッピーエンドになると信じて、自分を犠牲にして戦ってきた」
首にかかる力が増して、アリアは呻き声をあげた。骨が軋む音が耳に響く。
「でも、世界は勇者を裏切った」
腕の骨が捻じれて折れる音がした。どうしようもない苦痛にアリアは叫び、身をよじらせる。祈りの代償として体質が変化して、傷はすぐに癒えるが、痛みははっきり刻まれるのだ。
「魔王を倒した勇者は用済みになった。仲間は一人ずつ無残に殺された。魔王さえいなくなれば、勇者に用なんてないからな。力を持ちすぎて、今度は俺が魔族のような言われようだ」
「な、に……を?」
この男は、なにを言っているのだろう。
勇者? 俺? 誰のこと?
「散々追い回して命を狙った挙句、今度は百年後の世界に召喚されて、人間同士の戦争に加担しろだと……ふざけるなよ。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ」
男が言っている意味がわからない。
わかりたくもない。
アリアは耳を塞ぎたくて、必死に首を横に振った。
「作り話、なんて……」
魔王を倒せば全てが上手くいく。そんなことなんてない。
全部作り話だ。
「俺は一度勇者をやったんだ。今度は魔王やったって、いいだろう?」
なにを言っているんだろう。
これ以上、聞きたくない。
聞きたくない!
「黙ってよ!」
アリアは力の限り男の腕を振りほどく。
自分の腕が軋み、肉が裂ける音がする。痛みが身体を貫いたが、構わずその場から離れた。
「黙ってよ、なんの話をしてるのよ!」
アリアは耳を塞ごうとする。
しかし、無理に振りほどいたせいで、片腕が肩から千切れていることに気がつく。思っていたほどの痛みはなく、そこで初めて自覚した。
千切れた腕の断面で肉が蠢いている。流石に失った腕を再生することは出来ないが、代わりになろうと、不自然な形で肉が盛り上がっていた。
「いやよ……」
いやだ。信じない。
こんな身体の自分自身も、男の話も、これからのことも――。
なにもかも、信じたくはなかった。
「この世界の奴らがお前の思うような人間たちかどうか、確かめてみるといい」
冷酷に笑う男から顔を背けた。
これ以上、ここにいたくない。
アリアは踵を返して、その場から逃げだした。男が追ってくる気配はない。
「どこか、遠くへ……!」
足取りは重いのに、足は羽が生えたように軽かった。
破壊された街。廃墟と化したユキカリアには、以前の面影はない。先日歩いた街とは思えなかった。
足の赴くままに進むと、見覚えのある場所に着く。
なにか大きなものがぶつかって倒壊したと思われる建物。しかし、それが神殿だと気づいて、アリアはまっすぐに進んだ。
ここには、転移門の跡がある。
アリアが閉鎖した神殿の転移門だ。
「開いて!」
閉じたときと同じように、祈りの力を使った。
とにかく遠くへ。とにかく、あの男の話を聞きたくない!
アリアが祈った通り、転移門が光に包まれる。全ての神殿の転移門が機能を回復させた。
アリアは迷わず門を潜った。
「大神殿へ……!」
神殿領にある大神殿への転移を望む。光のベールに包まれた門を潜ると、廃墟が取り囲む景色から一変。アリアが見慣れた大神殿の間へと転移していた。
「……帰った……?」
アリアは周囲を見回して、息を整える。
「はぁ……はぁっ……」
思った以上に息が切れており、動悸も止まらなかった。気がつけば、汗もたくさんかいている。
どっと疲れを感じ、アリアはその場に座り込んでしまった。
「おい、門が……!」
門が開いていることに気づいた神官が声をあげた。その声に反応して、次から次へと、転移門の間に神官が現れる。アリアの見知った顔も多い。
よかった。帰ってきたんだ。
アリアは安心して、胸をなでおろした。
「なん、だ……あれは?」
「魔族か?」
「おい、離れろ!」
まさか、転移門からなにかが追ってきたのだろうか。
アリアは後ろを振り返って確認した。だが、門からはなにも出てきていない。
「あの、わたし――」
「こいつ……!」
胸に衝撃が走る。
なにが起きたのか、わからなかった。
「なん……で……?」
深々と自分の胸部を貫いている槍を見て、アリアは言葉をこぼした。口から血がこぼれ、傷口から緑色の液体がこぼれる。
頬を涙がこぼれた。
「バケモノ!」
投擲された槍がもう一本、今度は脇を貫通した。次いで矢が飛び、身体に穴が空いていく。
「わた、しは……」
アリアはこぼれたものをすくい取ろうと、必死に手を伸ばす。
けれども、その手はなにを掴むことは出来ず。
伸ばした腕が魔法で吹き飛ばされ、消し炭となる。
「わたし……人間……」
わたしは、人間です。
わたしは人間なのに。




