41 奇跡の代償
その力は奇跡。
神の所業と謳われ、持て囃され、崇められた。
祈るだけで全ての法則を捻じ曲げる万能の能力。
故に、アリアは聖女と呼ばれた。神の力を宿した娘として神殿に保護され、そして、魔王を倒すためにカルディナとアッカディアの架け橋となった。
――おい、聖女さん。お前、見捨てられてるぞ?
そんなはずない。
そんなはず、ない!
「そんなはずないッッ!」
目覚めたアリアが最初に感じたのは、手足を繋ぐ冷たさだった。
動くとシャラリと金属の音が鳴る。どこかの地下室のようだ。石壁と石の天井に囲まれた部屋は冷たい空気で満たされており、わずかな物音を幾重にも反響させる。
「ここは……」
どこだろう。
寝台のようなものに寝かされている。手足を鎖で繋がれており、容易に動くことが出来ない。それでも、アリアは出来る限り現状を把握しようと首を起こす。
自分の身体には傷はついていないが、衣服が切り裂かれてあられもない裸体が晒されている。石で出来た寝台は緑色の液体で濡れており、ヌメリとした感触が気持ち悪かった。
伸びていたはずの青い髪も短く切られている。
「お目覚めですか、聖女様?」
「ひっ」
ぬっと現れた人の姿に、アリアは肩を震わせた。
清らかで慈悲深い笑みが、上からアリアの顔を覗きこんでいる。月光の宝冠のような美しい銀髪が一房落ち、アリアの頬に垂れた。
優しそうな人。
それなのに、底なしの恐ろしさのようなものを感じて、悪寒が止まらなかった。
「はじめまして、聖女様」
「あ、あなたは……」
菫色の瞳に魅入られれば、後戻り出来なくなる。そんな錯覚に陥った。
「あら。自己紹介が遅れましたわ。わたくし、リリィシア・アルデ・カルディナと申します。お兄様がお世話になっておりますわ」
「カルディナ……? お兄、様……?」
単語を拾って、意味を繋げていく。
リリィシアと名乗った女の髪色には見覚えがある――オルフェウスの妹?
思い至った瞬間に、ゾクリと背筋が凍った。
新しい記憶の中に焼きつく夕陽色の瞳。アリアをまっすぐに捉えていた。
――おい、聖女さん。お前、見捨てられてるぞ?
違う。違う……そんなはずない。
アリアは首を横に振った。
「お可哀想に」
憐憫の眼で見つめられ、アリアは唇を噛む。
「そんなはず、ありませんっ!」
「あら、そうなのですか? わたくしの知るお兄様は、そういう方ですよ? 最近、性格が変わったのでしょうか?」
否定するアリアの唇にリリィシアが触れた。
「最小の犠牲を払うことで、多くの利益を生むことを理解している方です。あなたを失う代わりに、魔王を倒す機会を得る。実にわかりやすいではありませんか。わたくしでも、そうしますわ。そう思わなくて?」
まるで、雑談をしているかのような軽くて自然な口ぶりだ。
アリアは信じられずに、身体を震わせる。
「あなた、ご自分がどうなっているのか、自覚はお有りですか?」
頭の上から覗きこみながら、リリィシアはアリアの身体を指先でなぞった。指は首筋を這い、鎖骨へ、控えめな丘陵を描く胸へ。
ぞっとするほど甘美で優しい指の軌道が気色悪くて、身体を捩る。
「放してくださいっ!」
アリアは思わず叫ぶ。
祈った瞬間に自分を拘束していた鎖が砕け散った。アリアは石の寝台から立ち上がり、リリィシアから離れる。
身体についていた緑色の液体が床にこぼれ、濡れた音を立てた。
「最初から、そうすればよかったのに」
リリィシアがクスリと笑う。
アリアは無我夢中で傍らにあったものを手に取る。それがなにかを確認する暇などない。
とにかく、今は話を聞きたくない。ここから逃げ出してしまいたい。
掴んだものを投げる。
「え?」
そんなに大きなものだったのか。夢中だったとはいえ、アリアは大きなテーブルを軽々とリリィシアにぶつけていた。控えめに言って、物凄い速度と勢いだったと思う。
無意識のうちに、祈っていたのだろうか?
「流石に……痛いですわね」
テーブルと一緒に後ろの壁に叩きつけられても、リリィシアは笑っていた。その笑みが不気味で、アリアは戦慄する。
「そのご様子だと、気づいていないのですわね? それとも、気づかない振りをしているのかしら?」
「なんのこと……です」
もう聞きたくない。
アリアは自分がなにも着ていないことに気づき、すぐに祈った。祈った瞬間に光のベールがアリアを包み、衣服が現れる。外に出たいと祈ると、石壁に囲まれた部屋の扉が開いた。
「そんな無駄遣いをして……ご自分の姿を、しっかり見たらどうですか? 目を逸らさずに」
駆け出すアリアの背に、リリィシアの笑い声が響いた。
だが、アリアは無視をした。無視をして、無心のまま逃げ出す。
早く外へ。
外へ出たら、きっと、助けが来る。
アリアは聖女だ。失っては魔王との戦いには勝てない。絶対に誰かが助けに来てくれる。
まだ戦闘だって終わっていなかったのだ。魔王軍など破って、既に連合軍が包囲しているはずである。
「やあ、バケモノに磨きがかかったな?」
地下室を抜けて階段を駆け上がると、声が投げられた。
振り返ると、そこには黒髪黒瞳の男――魔王が立っていた。
「バケ、モノ……?」
アリアは思わず立ち止まり、息を呑む。
眉を寄せた。
「わたしは……人間です」
同じ人間のくせに、魔王になどなろうとしている男に言われたくない。
出来るだけ寛容に。清く、正しく。そう行動しようと心がけているアリアですら嫌悪してしまった。
そっちの方が、何倍もバケモノではないか。平気で人を殺して、平気で踏み躙って。
「気づいていないわけ、ないよな?」
アリアはキッと魔王を睨みつけた。そんなアリアを嘲笑うように、魔王の青年は魔法陣を展開した。
「な、なんですかっ!」
アリアの目の前に大量の水が現れる。
鏡のように反射して、アリアの姿が映し出された。
青い髪は肩で雑に切り揃えられている。祈りで作った服に包まれた素肌は白く滑らかで、傷一つなかった。
アリアの姿。
けれども、これがどうしても自分だとは思えなかった。
「幻を見せたって、無駄ですよ」
祈りの力で水の魔法を消し去った。足元に水たまりが出来る。
「幻、ねぇ……身に覚えはないのか? 無償で破格の奇跡を起こせる祝福が存在するとでも、本気で思っているのか? 祝福には必ず代償がある。お前の場合は能力が強すぎて、俺より随分とキツイ代償を背負っているみたいだな」
薄っすらと笑う表情が憎らしかった。
身に覚えなど、ない。
――気味が悪い。
――あまり関わるなよ。
――あの聖女は祈りのたびに……。
身に覚えなんて、ない。
「わたしは……特別な力を授かったんです。あなたのように、身勝手に使ったりしません。きっと、人々のために使うのが使命だから!」
「そうやって、神殿にでも教えられたか? それとも、お前が信じてる王子様にでも言われたか?」
問われて、アリアは目を見開く。
――その力は神の御力に違いない。アリア、いいや、アリア様。あなたは聖女だ。民草を導くべき崇高なる存在だ。この世界を正してください。
――きっと、あなたの祝福は神が与えたもの。この世界に再臨した魔王を倒すための力でしてよ。
――では、君が失くせ。きっと、そのために力があるのだろうから。
身に覚えなんて、ない。
アリアは首を横に振った。
「わたしは、聖女だから……わたしが、みんなを……!」
足元に視線を落とすと、水たまり。
そこに映った自分の姿を否定して、拳を握り締めた。
水たまりに映ったアリアの瞳が紅く光っている。血のように禍々しい。
背中で、なにかが広がる。大きな漆黒の翼が六対羽ばたき、風を起こした。
「祈ります。わたし、戦いたい。そう、戦うんです。この魔王を倒して……世界を変えてみせる。そのための力を、祈ります!」
戦わなきゃ。
結局、不意をついてもオルフェウスでは魔王に勝てなかった。ならば、アリアが戦うしかない。
今よりも、もっと強く。
ただの小娘ではない。歴戦の勇士よりも強く。そして、誰よりも強力な魔法使いに。
最強の戦士になる。
「そうよ、魔王を倒せばいいんだわ……倒せば、きっと……!」
自分の身体に力がみなぎるのがわかる。祈りが成就し、アリアが望んだ通り、最強の戦士になったのだと自覚した。
その瞬間、自分の身体に新たな変化が起こったことも。
「俺を倒せば、お前は用済みだよ。連合軍だって撤退した。それなりの損害を被ったからな。助けは来ない」
「うるさい! うるさい! うるさい! 黙りなさい!」
言葉を振り払って叫ぶ。
その声が自分のものとは思えないほど大きく、歪んでいることに気づく。先ほどまではなかった変化だ。だが、そんなことは些細なことだ。
だって、魔王を倒すのは聖女であるアリアの役目だから。
この代償だって、仕方のないものなのだ。魔王と戦うために、仕方のない変化である。受け入れられないはずがない。
「俺の代償は内面の喪失。お前の代償は身体の変化……つくづく、この世界の神様はバケモノを産みたがるらしい」
代償に全く気づかないわけではなかった。
最初は髪が伸び、髪質が変わり、次第に傷が自然治癒するようになり、血の色が変わった。先ほどは信じられないくらいの怪力になっていた。祈りを重ねたことで眼の色が変わり、翼が生えた。
石の寝台に撒かれていた緑色の液体はアリアの血だ。服が切り刻まれていたのは腹でも裂かれたからかもしれない。
わかっていた。
自分の身体の変化には、薄々気づいていた。これが黒い霧の言っていた代償なのだと、最近になって理解した。
「それでも、辞められるはずがないじゃない……」
どんどん人間から離れていく自分自身。祈りのせいだと理解している。
それでも、祈りの能力を使わずにはいられない。それがアリアの役目であり、存在意義。
人々に求められる自分こそが、人間であると証明する手段。
求められなくなったとき、それはアリアが本当のバケモノになる瞬間だから。
「魔王を倒せば、きっと大丈夫……だって、みんなわたしの力を求めてくれるんだもん。わたしは必要な人間だから。聖女だから!」
足に力を入れて踏み込むと、それだけで石造りの床に亀裂が入った。人間では考えられない速さと勢いで魔王との距離を詰める。
「いいや、お前はバケモノだよ。俺と同じ」
笑われた……。
笑われた……!
嘲笑う表情が憎くて、アリアは唇を噛む。
初めて、人に殺意を抱いた。
この男に、アリアのなにがわかると言うのだ。なにもわからないくせに!
殺してやる。殺してやる! 顔も身体も微塵も残さず砕いて殺してやる!
「わたしは人間だ!」
まっすぐ突き出した拳が魔王の身体に当たる。有り得ない力が加わり、魔王の身体が歪に軋んだ。
そのまま後方へ吹き飛ばされる魔王を追って、更に地を蹴った。




