1 勇者召喚
※この小説では人が死にます※
「ああっ! やったぞ……歓べ、リリィシア。妾は勇者の召喚に成功した!」
「ええ、流石はナターシアお姉様。素晴らしいですわ」
ここはどこだ?
意識はないのに立っている。
その奇妙な状況から、黒栖海斗――クロスは一気に覚醒した。
足元で魔法陣の光が火の粉のように消失していく。蒼白い火の粉が舞う中で、クロスはぼんやりと立っていた。
見慣れない部屋。先ほどまでいた丘の上とは、違う場所のようだ。
目の前には、女が二人。
「妾がお前を呼び出した。名はナターシア・イメラ・カルディナ。カルディナ王国の第一王女である。勇者クロス・カイトよ、歓迎しよう」
ナターシアと名乗る女が前に出た。
身体のラインがくっきりと見える煽情的な紅いドレスが動きに合わせて衣擦れの音を鳴らす。銀色の髪が美しくて、まるで月の宝冠のようだった。
クロスが無言で立っていると、ナターシアは気の強そうな顔に笑みを浮かべて話を続ける。
「お前が百年前、この世界に召喚された伝説の勇者であることは心得ているぞ。紛うことなく最強の勇者を召喚出来て、妾も鼻が高い」
「百年……前……? 召喚?」
クロスは初めて口を開いて確認する。すると、ナターシアは強気な態度でクロスの肩に右手を置く。
だいぶ息が上がっているようだ。疲労の色が濃く、召喚魔法で魔力を使い果たしたことがうかがえる。
「ここは、お前が魔王を倒した百年後の世界。お前にとっては、未来ということだ」
「未来……魔王が倒された未来の世界で、俺になんの用があるんだ?」
相手は王族らしいが、敬語を使う気にはなれなかった。
代わりに、随分昔となった記憶が蘇る。
――ここは、そなたがいたのとは違う世界。そなたにとっては、異世界ということだ。
眠っていた記憶の光景と、現状が一致していく。
確か、最初に召喚されたときもこんな風に……思い出した途端、クロスの胸中である感情がわきあがってくる。
「魔王はいない。だが、我が国は危機に瀕している」
クロスがその感情を温めているとも気づかずに、ナターシアは笑う。息が切れて、立っているのも限界のようだ。それほど、召喚魔法は消耗するらしい。
ナターシアはついにクロスにもたれかかるように身体のバランスを崩した。
クロスはとっさに片腕でナターシアの細い腰を支える。
「勇者よ、その力を我が国のために使わないか? 思い上がったアッカディア王国の連中に鉄槌を下すのだ。報酬は充分に用意しよう。望みはなんでも叶えてやる」
ナターシアの言葉に眩暈がしそうだった。
これは、なんだ? デジャヴか?
――勇者よ、その力をこの世界のために使わないか? 世に蔓延る魔王の軍勢に鉄槌を下すのだ。報酬は充分に用意しよう。望みは叶えるし、なんの不自由もさせはしない。
それは、この世界にはじめて召喚されたときに、言われたセリフと酷似していた。
今まで忘れていた。だが、記憶の引き出しが開いた瞬間に、虚無だった心が感情の海で満たされていく。
その瞬間に、クロスの中で抑えられない衝動が破裂した。
「……ふざけるな」
「勇者を召喚した我が国の勝利は確実――え?」
クロスを映すナターシアの目が大きく見開かれる。
なにが起こったのかわからない。
そう紡ごうとした唇から、大量の血液がこぼれた。
「冗談じゃないぞ、ふざけるな」
クロスの腰から抜かれた剣が、ナターシアの腹を貫いていた。
「え……? え?」
ズズッと濡れた音を響かせながら、クロスはナターシアから剣を引き抜いた。
ナターシアはよろめきながらクロスと数歩距離をとるが、そのまま膝から脱力して崩れてしまう。
「がッ……は、はあッ……な、なん……だと……?」
腹に空いた傷と口から血を吐き出しながら、ナターシアが問う。
「俺にもう一度勇者をやれと? それも、人間同士の戦争の道具として? ふざけるなよ」
先ほどナターシアが挙げたアッカディア王国という名は、確か、人間の国だ。百年前と変わっていなければ、カルディナ王国も人間の国だったはず。
つまり、魔王が倒された現在の世界では人間同士が戦争をしているということだ。
そして、このクソ王女はクロスのことを戦争で利用するために召喚したと言い出す。
「もう一度言う。ふざけるなよ」
苦しそうに肩を上下させるナターシアの傷口を蹴りつけた。
「ひ、ぁッ……あああああッ、いだッぃ……!」
「勇者として魔王を倒した俺に、お前たちはなにをした? この世界は、なにをしてくれた?」
それは物語の中ではありふれた。けれど、クロスにとっては全く新しくて過酷な冒険。
異世界での生活は楽ばかりではない。辛いこともたくさんあったし、元の世界が恋しくもなった。
それでも魔王を倒すまで耐えられたのは、仲間がいてくれたおかげだったと思う。
――クロスってば、無茶しないで!
――当たり前だろ。仲間なんだから!
――ここはあたしに任せて。クロスにばっかり頼れないよ。
クロスはキラキラした思い出を叩きつけるようにナターシアの肩を蹴って、地に倒す。
もがき苦しむ腹から流れた血が海のように広がり、その中心で深紅の姫が泳いでいるようだった。
「魔王がいなくなって用済みになったら、お前たちは俺を裏切ったじゃないか。召喚されて異能を手にした俺は、平和になった途端にバケモノと罵られた。あんなに助けを求めていた村人たちが掌を返して、石を投げつけてきやがった。邪魔になった仲間たちは一人残さず王国や神殿に殺された。騙し討ちや惨たらしい方法で生贄のように!」
今だって覚えている。
ああ、忘れてはいないさ。
むしろ、忘れたいくらいだ。
魔法使いのトマは魔物討伐の依頼を受けて独りで森に入り、そこで人間たちに襲われた。人間を攻撃出来なかったトマは、死んで動かなくなるまで殴られ続けた。
剣士のジンは神殿から魔物化の呪いをかけられた。理性を失った獣と化したジンは恋仲だった神官のユッカに殺された。そのままユッカは精神を病み、数日後に自害した。
――ごめんなさい、クロス。あたし、もう一緒にはいられないみたい。
ハーフエルフのストリェラも……死の直前までクロスのことを気にかけていた。だが、彼女もクロスの目の前で死んだ。
みんな殺された。
クロスだって何度も何度も命を狙われた。
「この世界は俺になにも与えてはくれなかった。ただ奪っただけじゃないか」
クロスは言いながら、ナターシアの腹を踏みつける。
「残念だったな。せっかく召喚した勇者が俺で。悪いが勇者をもう一度やる気はない。俺は勝手にさせてもらうぞ」
傷口に踵がめり込んで、ナターシアがエビのように跳ねる。最初は甲高い悲鳴が上がっていたが、次第に低くおぞましい呻き声へと変わる。
放っておいても、この女は失血で苦しみながら死ぬだろう。勇者と言って他人を勝手に拉致して私利私欲のために利用しようとした女だ。当然の報い。
どうして、最初に召喚されたとき、当時の召喚者にも同じことをしなかったのか。今では悔いが残る。
「あ、あああッ、は、あッ……か、はッ……リ、リリィ、シア……まほ、回復魔法……!」
虫の息になったナターシアが傍らに立っていた女に助けを求めていた。
銀色の髪に、菫色の眼。白と青を基調とした清楚な印象のドレスを纏った少女だった。右手には身長と同じくらいの長い杖が握られており、魔法使いのように見える。
顔立ちがナターシアと似ており、会話から姉妹であることがわかった。
クロスはリリィシアと呼ばれた少女を睨む。
目があった瞬間、リリィシアは杖を握り締めて身を震わせていた。
怖がっているのだろうか。
だが、彼女はなにかを呑み込むように目を閉じたあと、ゆっくりと、前に歩み出た。
「素晴らしいですわ、勇者様」
清らかで優しい色の眼には女神のような笑顔が浮かんでいる。
今度はクロスの方が、どういうことかと眉を寄せる番だった。