第二話 保健室
「……ん………うっ………」
フィールカは重い瞼をゆっくり開いた。天井から白い光が眩しく目に降り注いでくる。
首を巡らせ周囲を見回してみると、純白のカーテンが張られた衝立、体重計や身長計、怪しげな瓶がたくさん入ったガラス張りの棚などが据えてあり、空気中に漂う薬品の臭いが鼻腔を刺激する。
「ここは……」
その光景は、普段から見慣れた学校の保健室だった。
どうやらずっとベッドで横たわっていたらしく、白い壁に掛けられた時計を見るとすでに時刻は午後五時を大きく回っており、室内と中庭を仕切った四角い窓からは黄昏の空がどこまでも広がっていた。
フィールカは脱力した身体をおもむろに起こし、布団から足を出して床に着けた瞬間、足裏から冷たい感覚がすーっと伝わってくる。
――頭がずきずきする……。
反射的に右手で額を押さえると、今更ながら頭にぐるぐると包帯が巻き付けられていることに気づく。
「そうだ……俺は……」
――あいつに負けたのか……。
数時間前の訓練試合を思い出すと同時に、フィールカは二年前にこの《第二魔導軍事学校》に入学した当時を回想する。
あの金髪の青年――ダインとこの学校で出逢ったときから、フィールカは彼とどこか似たような感覚を覚えていた。
実際それを確信したのが、入学してから一ヶ月後の訓練試合の授業であいつと初めて剣を交えたときだ。剣術は物心ついた頃から嗜んでいたこともあり、それなりに勝つ自信はあった。
だが試合が始まってみると、その慢心はいつの間にか消え去っていた。ダインは青年と互角かそれ以上の戦いを魅せ、試合は最後までもつれたのだ。しかし、授業が終わっても決着がつかず、結局試合は引き分けに終わった。
それ以来、フィールカはダインのことを自然と意識するようになり、ダインもまたフィールカのことを強く意識するようになっていった。きっと自分たちは、こいつにだけは負けたくない、という気持ちが誰よりも強かったのかもしれない。
それから二年間、二人は互いに切磋琢磨し合い、今では学校の成績上位を争う犬猿の仲とまでなってしまった。
そんな過去の苦い記憶を思い返していると、不意に入口のスライドドアが開いて一人の女が入ってくる。こちらが起きていることに気づくと、足早に近寄ってくる。
「あら、意識が戻ったのね。具合はどうかしら? ――問題生のフィールカくん」
「…………」
第二魔導軍事学校の剣術科二年生、フィールカ=ラグナリア。
ありふれた少し長めの黒髪にそこそこ端整な顔立ちをしており、今は制服ではなく訓練用の黒い軍服に身を包み込んだ、どこにでも居そうなごく普通の学生だった。
いきなり問題生呼ばわりされた青年は、ふて腐れたように唇を尖らせて呟く。
「……だいぶましになりました、ミスリア先生」
目の前に佇むスレンダーな体型の彼女は、この学校の養護教諭を務めており、フィールカが最も世話になっている校内の花形的存在、ルナ=ミスリアだ。
清楚な白衣を装い、艶やかな長い黒髪が胸元あたりまで伸びており、露出した華奢な脚が見る者を惹きつける。だが見た目とは裏腹に、彼女の性格はとても冷淡なのだ。
ミスリアはデスクの前にある黒い革張りの椅子にゆったり腰掛けると、白い美脚を交差させて早速冷ややかに言った。
「まさか訓練試合中に失神するなんてね。一体どれだけ本気でやればそんなことになるのかしら? この際いっそのこと、死んでくれたらよかったのに」
「あれはあの時あいつが……。……あと、後半の言葉は余計です」
相変わらずの美人教諭の塩対応に、フィールカはやさぐれたように文句を洩らす。
しかしそんなことはお構いなしに、ミスリアは青年に追い打ちをかけるようにさらに意地の悪い口調で言ってくる。
「まあ、あの子は誰に対しても容赦ないわね。特にあなたに対しては」
「なんで俺ばっかりなんだよ……」
フィールカがぶつぶつ愚痴っていると、ミスリアは嘆息して呆れた様子で言った。
「とりあえず二人とも、学校を卒業するまで反省ね。これ以上、無駄に仕事を増やさないでちょうだい。ただでさえあなたたち問題生のせいで疲れが溜まってるっていうのに、これじゃ私が過労で倒れそうだわ」
「すみません……」
すっかり落ち込んだ様子でうなだれる。
フィールカは十五歳のときに魔導軍事学校に入学し、二年間、毎日訓練で怪我をするたびにこの保健室に頼りっぱなしだった。一応仕事なのでミスリアに手当てはしてもらえるが、そのおかげで今では彼女に酷く嫌われてしまっている。来る日も来る日も、青年は血と汗が滲むような訓練漬けの日々を繰り返してきた。
しかし、これまでの過酷な訓練を耐え抜き、ついに学校卒業まで残り一週間と迫っていた。
現在フィールカは十七歳。この魔導軍事学校を二年かけて卒業したとき、自分は反乱軍の魔導傭兵精鋭部隊――通称《ソルジャーリベリオン》の一員として初めて認められるのだ。
――この広い世界を知る上で、必ず知っておかなければならない三つの巨大勢力がある。
その一つが、この世界で最大最悪と言えるであろう、皇国軍――《ヴァルキュリア》だ。
現在、皇国エンシェリアの女帝の座に君臨するルティシアはこの殺戮軍隊を使い、無差別に街や村を次々と占領し、住民たちを捕虜として扱っていた。最初は民たちも、ただただ黙ってやられていたわけではない。その中には、皇国軍に勇敢に立ち向かおうとする人間も少なからずいたのだ。
だが、実戦において徹底的に訓練された皇国軍の強さは、そこらの傭兵や騎士たちのレベルを遥かに凌駕していた。次々と無惨に殺されていく仲間たちの姿を前にして、もはや皇国軍に抗う術を持たない人々は、最終的に奴らに屈するしかなった。
次は自分たちが殺される番ではないのか、そんな不安や恐怖に人々が日々苛まれる中、悪逆無道な所業を繰り返す皇国軍に対抗するべく、すぐに発足された特別組織がある。
それが二つ目の勢力、現在フィールカが在学している魔導軍事学校を含む組織、反乱軍――《ソルジャーリベリオン》だ。勢力的には皇国軍のほうが圧倒的に大きいが、その分個々の育成に力を入れているのが反乱軍である。
この世に生を享けた全ての生物が内に秘めていると言われる魔力――《センス》。
その呪われた力を駆使して戦うことにより、皇国軍との開いていた戦力の差を大きく縮めることができる。無論、皇国軍の上位階級の兵士には魔力を使える者もいるらしいが、それはごく一部だ。皇国軍は、殺しを日常生活の一部としているプロの殺戮集団なのだ。奴らに対抗するためには、どうしても魔力が必要不可欠だった。
そして未だにして、もっとも謎に包まれている三つ目の勢力――《魔物》の存在だ。
いつから魔物というのは世界に存在するのか、それを知る者はまずいないだろう。一説によれば、魔力によって生物が突然変異したものとも言われているが、実際正体は不明のままである。
人が街から出ると魔物は猛獣の如く当然のように襲ってくるが、幸い、大抵の街や村には《魔導防壁》と呼ばれる装置によって魔力結界が張り巡らされており、余程のことでない限り魔物が中に侵入してくることはない。
だが年々、事は深刻さを増している。ここ最近になって、世界の魔物が急激に増殖し始めているのだ。何かの予兆なのか、原因はわからない。このまま放って置けば、民間人に被害が増すばかりだろう。
そんなことをずっと考えながら、ぼーっとしていたせいだろうか。
「――ちょっと、聞いてるのかしら?」
夢中になって思考していた青年の意識を、ミスリアの声が戻した。
「あっ、すみません……。ちょっと色々考えてました……」
それに対して白衣の養護教諭は疲れたように、はあ……と嘆息する。
「勝手に考えるのはいいけど、あんまり悩み過ぎないことね。一人で何もかも抱え込んでると、あなた自身が保たなくなっちゃうわよ」
忠告するように言われて、フィールカは脱力した声で返事する。
「……わかってます。でもあんな性格だけど、俺はあいつのことを一度も嫌いになったことはないですし、あれがあいつなりの、気持ちの表現だってことはちゃんと理解してます」
「……そう。あなたがそう思うのなら、それでいいんじゃないのかしら」
どんよりとした雰囲気で二人が話し込んでいると、不意に出入り口のスライドドアが勢いよく開く。
すると、一人の青年が慌てて飛び込んでくる。
「――おい大丈夫か、フィールカ!? 試合中に倒れたって聞いたぞ!」
相当な勢いで駆けつけたせいか、突然の闖入者は荒々しく息を切らしている。
服装は学校で義務づけられている黒い制服を着用しており、頭にはいつものミリタリー柄のバンダナを巻いて金髪を逆立てている。魔導軍事学校の射撃科の名手であり、フィールカの一番の親友でもある青年、レオン=シークガルだ。
わざわざ駆けつけてくれた相棒の青年に、フィールカは感謝の言葉をかける。
「心配かけてすまなかったな、レオン。俺ならもう大丈夫だ」
「まったく……試合で全力を出すのはいいが、あんまり熱くなるなよな」
呆れたように注意されると、黒髪の青年は肩をすくめてすぐに言い返す。
「そう言うお前こそ、この前の射撃演習のときはマジな顔になってたぞ」
「うっ……あれはだな……」
痛いところを突かれたようにレオンが言葉を詰まらせていると、不意に壁に設えられたスピーカーからチャイムの音声が流れてくる。
「あら、もうこんな時間」
ミスリアに釣られて二人は壁に取り付けられた時計を見てみると、いつの間にか時刻は六時を回っていた。夢中になって話していたせいか、全く気がつかなかった。
フィールカはミスリアに向き直り、ぺこりと頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございました、先生。そろそろ俺たちも寮に戻りますね。その……また怪我したら、よろしくお願いします……」
何気なくそんなことを口にすると、白衣の養護教諭は冗談混じりの口調で言った。
「そうね。その時は、ぜひ苦い薬でも飲んでもらおうかしら」
「いえ、遠慮しておきます!」
即答で拒否し、最後に彼女に挨拶してから、青年たちは保健室を後にした。