第二十八話 覚醒
投稿が遅くなってしまい、申し訳ないです。重要な回なので、今回は時間をかけました。そして自分がもっとも好きな回でもあるので、その分楽しんでいただけたらいいかなと思います。
フィールカとダイン、クレイルが一斉に散らばって駆け出すと同時に、イービルワームもそれに対応してすぐさま攻撃体勢に移る。魔虫の纏っている黒い殻から先ほどと同様に無数のトゲをめきめきと突出させると、それに地属性の魔力が強く帯び始める。
次の瞬間、爆発の連鎖とともに魔虫を覆う岩盤が砕け散ると、無骨なトゲが三人に襲いかかる。
だがさすがと言うべきか、剣術科の上位組はそれぞれ慣れた剣捌きで次々とトゲを打ち落としていく。三人がイービルワームの攻撃を引き付けている間に敵の纏っていた殻の一部が剥がれてくると、隠れていた体表が次第にあらわになり始める。
「二人とも、行くわよ!」
その機会を逃さず、シエルたち後衛部隊は剥き出しになった体表に向かって間髪いれずに魔法と銃弾を放つ。怒濤の遠距離攻撃は逸れることなく全て魔虫に命中すると、激しい爆発が立て続けに起こる。
黒煙を立ち上らせながら、イービルワームの体からドス黒い血が間欠泉のように噴き出し、ようやく目に見えて魔物が苦しみ始める。今は亡きベラムが魔虫の体表を軽く斬ったように、やはり岩盤さえなければ攻撃はしっかり通るようだ。
「いいぞ、効いてる!!」
フィールカは殺到してくるトゲを難なく迎撃しながら、懸命に皆を鼓舞する。とうとう魔虫を保護している岩盤があらかた無くなると、前衛のフィールカたちも透かさず反撃に転じようとする。
だがその時、イービルワームが纏っていた魔力に異変が起きる。魔力がひときわ強く光り始めたその直後、突然、フィールカたち三人の足元から黒い岩石のトゲが勢いよく生えてくる。
「……っ!」
フィールカは反射的に横に向かって地面に転がる。間一髪のところで攻撃を回避するが、数秒前まで自分がいた場所には歪なトゲが醜い姿をあらわにしていた。
――攻撃パターンを変えてきた!?
思いも寄らない不意打ちに、これには青年も動揺を隠せない。
「――ぐはあっ!!」
すぐ向こうで悲鳴が上がる。
思わず視線を向けると、クレイルが両手で右足を押さえて地面で悶えていた。どうやら今の攻撃で足をやられたらしく、とても一人で立ち上がれる状態ではない。一方、ダインはどうにか攻撃を避けた様子で地面に膝をついていたが、もはや足手まといの青年を助ける気などさらさら無い。
「くそっ……!」
フィールカは咄嗟の判断で、クレイルを助けに行こうとした時だった。
「クレイルさんっ! いま助けに行きますっ!!」
フィールカより先にアルーナが勢いよく飛び出していた。
「アルーナさん!?」
シエルやレオンが止める隙もなかった。魔虫の攻撃に我が身構わず、アルーナは決死の覚悟でクレイルのもとに突っ込んでいく。
しかしこの時、シエルの顔からすーっと血の気が引いた。アルーナが向かう前方の地面――そこから僅かに洩れた魔力を感じ取ったからだ。だがアルーナは彼を助けに行くのに必死で、それに全く気づいていない。
「アルーナさん、行っちゃだめ―――ッ!!」
シエルは思わず手を伸ばして絶叫する。
「えっ――?」
突然、アルーナの視界が平衡感覚を失ったように歪む。
自分の身体を見やると――いつの間にか足下から突出していたトゲが、無情に心臓部分を深く貫いていた。何が起きたのかも解らず、アルーナはその場にどさりと倒れた。その無惨な光景を目の前で見ていたクレイルは、ぶるぶる恐怖で身体をわななかせている。
自分もいつああなってしまうのか、そんな死の恐怖に駆られていると――。
次の瞬間、彼の背中の下の地面が爆発したように吹き飛んだかと思うと、槍の如く生えたトゲに突き上げられて串刺しにされる。
「ああ……あああ…………」
声にならない声で、シエルは首を絞められたように激しく呻く。
だがこのとき、少女も全く気づいていなかった。地面の下から、密かに彼女に這い寄っていた魔の手を――。
それに気づいたのは、この中で一人冷静なフィールカだけだった。
「シエル――――ッ!!」
フィールカは少女に向かって全速力で駆け出していた。シエルのすぐ足元の地面――そこから魔力の反応を感じ取ったからだ。
その叫び声を聞いたシエルも、ようやく我に返ったように青年のほうを見る。その時にはもう、フィールカは少女の眼前まで迫っていた。そのまま彼女に向かって巻き込むように飛び込むと、二人とも激しく地面に倒れる。
一体何が起きたのか、この数秒間で起きたあらゆる出来事を理解できずに、シエルは頭の中が完全に真っ白になっていた。何秒か時間が過ぎてから、少女はようやく自分が天を仰いでいることに気づいた。
しかし、やけに身体が重たかった。ほとんど力の入らない首をどうにか持ち上げ、自分の身体を見てみると――そこには背中を鮮血で真っ赤に染めたフィールカが少女を庇ったような形で倒れていた。
「うそ……どうして……」
その震えた呟きに、フィールカが掠れた声で応えた。
「よかった……シエルが無事で……」
「どうして……どうして私を庇ったりなんかしたのよ……!」
「当たり前だろう……。お前に……傷ついて欲しくなかったんだ……」
「待ってて……すぐに治療するから……!」
シエルは急いで彼を仰向けにして、傷の具合を確認する。
単刀直入に言うと、とても直視しがたいほどの重傷だった。背中からトゲが貫通したのだろう。背骨の腰椎に当たる箇所が粉々に砕かれ、すでに内臓までもがスクランブルエッグのように原形を留めていなかった。
絶望的な状態だが、それでもシエルは先ほどと同様に光属性の魔法で回復を試みる。癒しの白光が両手から生み出され、それを生々しい傷口に当てる。
だが――いくら光を当て続けても彼の身体は一向に修復する気配を見せないどころか、おびただしい量の血がただただ溢れ出るばかりだった。
「どうして……どうして治ってくれないのよ!! ちゃんと治してるじゃない!!」
神にでも訴えかけるように怒声を迸らせながら、尚も傷を治そうとする。
しかし、フィールカはそれを優しく制止させるように、少女の血塗れの手に自分の右手をそっと添えて呟いた。
「いいんだシエル……俺はもう無理だ……。見ての通りだ……自分の身体のことは……自分が一番わかってる……。だから……魔力の無駄遣いは止すんだ……」
「いやよっ!! そんなの絶対にいやっ!!」
頑なに首を振って聞こうとしない少女に、フィールカは必死に喉から言葉を絞り出すように囁いた。
「シエル……ずっとお前に……伝えたかったことがあるんだ……」
生気を失った青年の虚ろな瞳には、もはや話す猶予もほとんど残されていないことを残酷に物語っていた。だからシエルは全てを悟ったように昏く顔を俯けると、最期まで彼の言葉に耳を傾けようと心に固く決めたのだった。
「入学して……初めてお前に逢って……それから毎日がどんどん楽しくなって……。そしたらいつの間にか、シエルのことが好きになってて……。今までずっと……この気持ちを伝えることができなくて……」
「ううっ……今更なんでそんなこと言うのよっ……」
くしゃっと顔を歪ませ、青年の顔にぽたぽたと涙をこぼしながら、シエルは彼の告白にちゃんと向き合って答えた。
「私も……私もずっとあなたのことが好きだった……。もう一生離れたくないと思った……。ずっと……ずっと一緒にいたいと思った……。だから……だから……」
そこまで言った時にはもう、青年は眠るようにその瞳を閉じていた。
フィールカの安らかな表情を見た瞬間、少女の瞳から止めどなく涙が溢れ出し、いつの間にか青年の唇に自分の唇をそっと重ねていた。彼の温もりを忘れたくない、彼にもっと触れていたい、そんな気持ちが次々と身体の底から込み上げてくる。
出来ることなら、彼を救いたかった。だがそれは、己の不甲斐ない力でどうすることもできない。彼の死をただただ見届けることしかできない自分を激しく呪った。
その光景を見ていたレオンも青年の死を悟ったように、目元を拭いながら涙を流している。ダインに関しては、見ていて気分が悪いといった様子でその場からすたすたと歩き去っていく。
「今年のルーキーたちには随分と期待していたのだが……それもここまでか」
グラウスが残念そうに呟く。
戦場に生き残っている反乱兵はたった三人。これ以上無為に戦いを続けても、結果など火を見るよりも明らかだった。他の皇国兵たちも、もはや彼らには何も期待していないようにクスクスと嗤っている。
そして、広場の中央では、いよいよ二人が別れの刻を迎えていた。
シエルはゆっくりと唇を離し、もう目覚めることのない青年に最後の言葉をかける。
「……私もすぐそっちに逝くからね。あなたの仇を討ったら……」
この時すでに少女の中では、家族や同胞の仇討ちに対する決意は完全に消えていた。
――もうどうでもよかった、彼がいない世界なんて。
たとえ魔物を斃せたとしても、これから生きていきたいとは決して思わないだろう。
自分のせいで彼を殺したも同然だった。自分がもっと冷静に周囲に注意しておけば、今頃彼はこんなことにならなかった。せめて彼への償いのため、そして死んでいった皆のために、命に代えてもあの怪物を斃す。そして自分も潔く命を絶ち、死後の世界で彼と再会する。
そうすれば、もう一度彼の声が聞ける。彼の温もりを感じることができる。
「……また逢おうね」
胸の裡に揺るぎない覚悟を決め、シエルは音もなく静かに立ち上がる。
広場の中央にそびえる魔虫を見据えて、終焉への一歩を踏み出そうとした時だった――。
不意に、少女の身体が仄かに光を帯び始める。
次の瞬間、シエルを中心に放射状に地面に亀裂が走ったかと思うと、少女の身体から虹色の波動の奔流が勢いよく溢れ出す。きつく結んでいたはずのツインテールの黒いゴムがあっさりと千切れ、ロングストレートの真紅の髪が激しくなびく。
「なっ……なんなのよ、これっ!!」
突然の身体の異変に、シエルは混乱したように声を上げる。
自分の身体を見下ろすと服の下から胸元が発光し、何度も激しく明滅を繰り返している。留めてある軍服のボタンを上から順に外していく。
すると、胸元にある属性紋様――《七属性》の全ての光点がくっきりと肌に浮かび上がっており、それぞれが光線を結んで星型正七角形の紋様を形成していた。虹色の紋様の輝きは弱まることなく、いっそう強くなっているようにも感じる。
「な、なんだあの光は!? あれほどの魔力は報告になかったぞ! ま、まさか……七属性まで覚醒したというのか!?」
衝撃的な光景を見せつけられ、グラウスの眼に興奮の色が浮かぶ。他の皇国兵たちも皆、一体何が起きているんだ、といった様子で表情から驚きを禁じ得ない。
レオンだけでなく、ダインもこれには喜悦の表情で歯を剥き出しにする。
「どうして今頃……まさか、さっきの回復魔法の連続使用で最後の闇属性が目覚めたっていうの……!?」
確かに魔力は、他の属性の上位魔法を使えば使うほど解放される確率も上がると言われているが、この瞬間、しかも唯一目覚めることがないと思っていた闇属性がついに目覚めたのだ。
まさか自分が、百年に一人の七属性解放者に選ばれるなんて夢にも思っていなかった。そして、少女を包み込む虹色の鮮やかな光は、更なる変化を彼女の身体に与えた。
「す、すごい……傷がどんどん治っていく……! これなら……いけるかもしれない!」
たちまち身体が癒えていくのを目の当たりにしながら、シエルは絶望の底に抱いた微かな希望を実行する。
それは――フィールカの蘇生だ。
これほどの魔力ならば、もしかしたら瀕死の彼を生き返らせることができるかもしれない。一縷の望みをかけ、シエルはいま自分が引き出せる最大限の魔力で治療に取りかかる。両手に収まり切らないほどの大きさの治癒白光が生み出されると、それを青年の身体にそっと当てる。
「はぁ……はぁ…………」
やはり想像以上に魔力の消耗が激しいせいか、徐々に少女の顔に疲労の色が見え始める。まだこの力を完全に制御できていないのか。青年の身体が全く修復される気配がないまま、ついに視界までもがぼんやり霞み始める。
――私は……あなたのおかげで…………。
二年前、学校の訓練場で初めて出逢ったあの日から、あなたは私の人生にほんの少しだけ彩りを与えてくれた。あなたと遭うたびに、活き活きと話している自分がそこにいた。私が荒野に咲いた一輪の紅い花なら、あなたは時折降ってくる恵みの雨のような存在だった。
なぜあなたはいつも、心を閉ざしてしまった私にそこまで笑顔で接してくれるの……? 今まで自分の胸に味わったこともないような不思議な感覚が駆け巡ると同時に、日に日に戸惑いが増していくばかりだった。
――でもそれは、今日で全部はっきりわかったの。きっとこの胸を締め付けてきた苦しい気持ちは、紛れもない恋なんだって。
今頃になって、彼と一緒に過ごした二年間の記憶が鮮明に蘇ってくる。これが、いわゆる走馬灯というやつなのだろうか。このままいっそのこと一滴残らず魔力を使い果たし、彼とともに最期を迎えるのも悪くないだろう。肉体的にも精神的にも、すでに限界を超えていた。
ゆっくり眼をつぶり、完全に諦めようとした――まさにその時だった。
シエルは思わず眼を見開く。信じられないことに少しずつだが、青年の身体の中でも特に重傷だった内臓と脊髄が、損傷した箇所から細胞増殖するように修復され始めているのだ。それを見たシエルは一気に活力が湧き起こり、ペース配分など考えず彼の身体にひたすら魔力を与えていく。
あれだけ重傷だった内臓と脊髄が五分とかからず原形を取り戻すと、その後の身体の再生は一瞬だった。終わったと気づいたときには、フィールカの身体は完全に元の状態に戻っていたのだった。
だが――――。
「心臓が……動いてない……」
再度青年の腕を握って脈拍を確認するが、やはり心臓は停まったままだ。彼の上着を全て脱がし、すぐにシエルは心臓マッサージに移る。胸の中心に両手を組むと、自分の体重をかけて垂直に圧迫する。
「お願い……動いて……! 神様お願い……彼を助けて!!」
必死に懇願しながら、一定のリズムでマッサージを続ける。
「――シエルちゃん、心臓マッサージは俺がやる! 代わりに人工呼吸を頼む!」
レオンもすぐ隣に駆けつけると、マッサージを彼に任せることにして、少女は人工呼吸を始める。体温を分け与えるように、青年の唇に自分の唇をそっと塞ぐ。彼の唇は氷のように冷たく、すでに死人のように血の気を失っていた。
――もう一度、彼の声が聞きたい、もう一度、好きって言ってほしい。
最後まで決して諦めず、シエルはレオンと何度もタイミングを合わせて青年の蘇生を続ける。ひたすら同じ作業を繰り返し、永遠にも思えるような時間感覚がようやく過ぎ去ったときだった。
「ま、待ってレオン! いま確かに……」
僅かにだが、青年の身体がぴくりと動いたのだ。シエルは彼の鼻先に耳を当てて、静かに呼吸音を確認する。
――確かに……息してる……。
念のため胸のほうも見てみるが、微動ながらそれはしっかり上下運動を繰り返していた。
「生き返った……ホントに生き返ったんだよね……?」
真紅の瞳から思わず涙が溢れ出てくると、シエルは嗚咽を洩らす。
「ああ……シエルちゃんがこいつの命を救ったんだ」
レオンも瞳にうっすら涙を滲ませて、傍らで少女の肩にそっと手を置く。まだ意識は戻っていないが、それもしばらくすれば時期に目を覚ますだろう。
「よかった……」
一気に全身の力が抜けると、シエルは安堵に表情を緩ませる。
「ところでシエルちゃん、その光は一体……」
レオンは少女の身体から今もなお少しずつ流れ出ている、虹色の魔力の正体が一体何なのかを訊いた。
シエルは、胸元に瞬く星型の属性紋様を青年に見せる。
「多分……七属性が覚醒した証よ。まだ完全には制御できてないけど、ホントにすごい力だわ。これなら……」
その言葉を聞いたレオンは、驚きとともに納得した顔で言った。
「やっぱシエルちゃんは、紛れもない天才だったんだな……」
すると少女はすっくと立ち上がり、少し考えてから重苦しい表情で呟いた。
「……ごめんレオン、フィールカをお願い」
「し、シエルちゃん……?」
「――私が、この戦いに決着をつけるわ」
少女の向こう見ずな発言に、レオンは困惑した声で反論する。
「い、いくら何でもあの魔物に一人じゃ……!」
「わかってる。自分でも無茶苦茶なことを言ってるのは百も承知よ。でも私がやらないと、いまの状況を打開するのは厳しいのも事実だわ」
一方的にそう言い残し、少女は単身でイービルワームの方に向かって歩いていく。
「し、シエルちゃん!」
レオンは慌てて少女を引き留めようとするが、自分の言葉はもう彼女の心には届いていないようだった。
「――おい、待てよ」
不意にダインが肩に剣を担ぎながら、シエルの前に横から豪然と立ちはだかる。
「まさか、七属性なんて言うすんげぇ隠し球を持ってたなんてなァー。水くせぇじゃねぇか、俺様にそんな重大な秘密を黙っとくなんてよ」
「……だったらなに? 見ればわかるでしょ。わかったら、さっさとそこをどいて」
しかし、ダインは当然退く気がないといった様子で、剣を携えた右手の肩を乱暴に回す。
「あんな魔物よりよっぽど面白そうな相手が目の前にいるってのに、戦わずにいられるわけがねぇだろ。――さあ、やろうぜ。俺様に世界最強の力を存分に堪能させてくれよなァー」
少女に剣を突きつけ、不敵な笑みを浮かべる。
シエルは改めて思う。結局この馬鹿は、常に強者と戦いたいだけであって、最初から誰かのために協力する気などさらさらないのだ。
だから少女は、諦観した様子で一度大きく息を吐き出すと、おもむろに右手の甲を正面に突き出し、くいくいと挑発するように手首を曲げる。
「……そこまで言うなら、軽く相手してやるわ。かかってきなさい」
「……調子ブッこいてんじゃねぇぞ。今すぐその減らず口を聞けなくしてやるよ!!」
言い終えると同時に、ダインは勢いよく地面を蹴って少女に突っ込んでくる。恐ろしい速度で彼女との距離を瞬時に詰めると、真横に剣を一閃する。
だが、ダインが斬ったのはただの虚空だった。
刹那、少女の姿が目の前から消えたかと思うと、いつの間にか彼女の身体はふわりと宙に浮かんでいた。
風属性の最上位魔法――《エアライド》。
全身に魔力の風を纏い、自由自在に飛ぶことができる、数少ない最上位魔法の中でも極めて珍しい技だ。さしものダインも、これには驚いたように眼を見開いている。
「――残念だけど、今はあんたの相手をしてる余裕はないの」
青年の頭上から冷たくそう言い放つと、シエルはイービルワームに向かって一気に飛んでいく。浮遊していられる時間は、長くても十分が限度だ。しかも魔力を完全に制御できていないこのダダ漏れの状態では、いつ体力に限界が来てもおかしくなかった。今は魔物との決着を急がねばならない。
少女はイービルワームの手前の上空でぴたりと静止すると、いま自分が発動できる最高レベルの風属性の起句を詠唱する。すると、彼女の全身から溢れ出ていた魔力が虹色から次第に純粋な黄緑色へと変化し始める。
「はあああああああ――――ッ!!」
親指と人差し指で三角形を作るように両手を前に突き出すと、裂帛の気合とともに魔力を溜め始める。それにより、三角形の中にひときわ眩い光が輝き始める。
シエルは一度、すっと瞳を閉じる。二人の青年が、瞼の裏でぼんやりと浮び上がってくる。
――フィールカ……レオン……、あんたたち二人だけは必ず……。
「生きて還してみせる!!」
直後、決意の叫びとともに三角形の中の光が魔虫に向かって投射されると、魔物を閉じ込めるように三角錐型の魔力結界を作り出す。それに異変を感じたイービルワームは、すぐに生成した黒い岩盤で自身の体を覆い隠していく。
だがそれは、これまでの戦いの中でとっくに計算済みだ。シエルは溜めていた魔力を一気に解放すると、突然、空間の中に小さな風の渦を発生させる。たちまちそれは巨大な竜巻へと姿を変え、地面を削り取りながら激しく砂塵を巻き上げる。
さらに少女は、虚空を押さえ込むように力強く両手を合わせていく。するとそれに従い、魔虫を取り囲んでいた結界もどんどん狭まっていくと、同時に魔物がまとっていた殻からぴきぴきと不快な音を立て始める。
結界内の風圧で全てを圧し潰す、風属性の最上位魔法――《エアロ・プレシオン》。
いくらあの堅固な岩盤でも、数百ロン(トン)もの恐ろしい風圧には耐えられないはずだ。
少女の規格外の戦いぶりを放心したように見ていたレオンは、不意にようやく我に返り、未だ目の前で意識の戻らない青年の身体を激しく揺する。
「フィールカ、目を覚ましてくれ! シエルちゃんが一人で戦ってるんだ!」
するとその声に反応したように、彼の顔がぴくりと動く。ゆっくりと眼が開かれる。
「……れ……レオン……? 俺は……」
「よかった、意識が戻ったんだな! まったく……心配させやがってよ!!」
目尻に溜まった涙を拭い、金髪の青年は喜びの声を上げる。
フィールカは無意識に自分の唇を触わり、何か感触が残っていたような気がしたが、とりあえず現在の状況を確認した。
「確かあのとき……シエルを庇って倒れて……それから……」
その先のことをようやく思い出すと、青年の顔が沸騰したように真っ赤になる。
そうだ――自分はいまわのきわに、彼女に告白したのだ。そこから段々と意識が遠ざかっていき……。
――何も思い出せない……。
自分が意識を失っている間に、一体何があったのだろうか。その場の勢いで自分の気持ちをはっきりと伝えてしまったが、彼女はどう感じたのだろうか。そう言えば、自分は背中から身体をトゲに貫かれて瀕死の重傷を負ったはずだ。それなのに、どこを探してもそんな傷は一切見当たらなかった。痺れて動かなかった足も、今はしっかりと動く。
不思議そうに自分の身体を見つめる青年に、レオンはやれやれといった様子で肩をすくめる。
「シエルちゃんがお前の命を救ったんだよ。後でちゃんと感謝するんだな」
「シエルが……そっか……」
フィールカは納得したように、未だ脱力気味の声で呟く。
また彼女に命を救われてしまった。卒業試験の日、洞窟で竜に殺されそうになった時も、シエルは決して自分の命を見捨てずに救ってくれた。その時と同じように、今回もまた彼女のことを酷く悲しませてしまったのだ。思わず青年の顔に辛い表情が浮かぶ。
「それよりも大変なんだ! シエルちゃんが……!」
レオンが急に切羽詰まったように言う。
フィールカは重くなっていた身体をゆっくり起こすと、遅まきながら誰かが広場の中央に居座る魔虫と激しい戦闘を繰り広げていることに気づいた。凄まじい量の魔力だ。一体これほどの量の魔力を誰が操っているというのだろうか。
周囲に視線を巡らせると、空中に浮かんでいる一人の姿を捉える。真紅の長髪を激しく風になびかせながら、以前とは全く異なる雰囲気をまとった少女。間違いなかった。
「あれが、シエルなのか……?」
これまで見たこともないような少女の真の姿に、フィールカはただ茫然と呟く。にわかに信じがたいが、あれは間違いなく七属性の力だ。ということは、シエルの中に秘められた全ての属性が――。
「ついに目覚めたんだな……」
フィールカは一週間前、卒業試験のときに炎竜と戦ったあの日から薄々と感じていた。もしかしたら、シエルは百年に一人の逸材ではないのかと。やはり自分の見込みは間違いではなかった。
世界最強の力を解放した紅き少女。勇敢に戦うその後ろ姿は、これまで見たどの彼女よりも美しかった。
「――これならいけるッ!! はあああああああああ――――ッ!!」
シエルは風圧力を極限まで高めようと、さらに魔力の空間を狭めていく。荒れ狂う嵐の中に閉じ込められた魔虫はどうにか反撃しようにも、全くそれに転じることができない。あまりの凄まじい風圧に、魔虫のまとっていた岩盤がついに耐え兼ねたようにあちこちから亀裂が生じ始める。
シエルは勝利を確信した。このまま魔虫ごと粉々に圧し潰そうとした時だった。
突然、視界がぐらりと大きく傾く。
――っ……! 滞空効果が切れたの……!?
シエルは咄嗟に焦りを覚える。このまま落下して地面に激突すれば、確実に無事では済まないだろう。身体のバランスを取れないまますぐに加速が始まり、続いて背中から襲ってくる痛みを充分に覚悟したが――
「えっ……?」
少女は驚きの声を洩らす。確かにぶつかったのだが、不思議なことに背中に痛みは感じなかったのだ。
それは、黒髪の青年――フィールカが下でしっかりと受け止めてくれていたからだ。
「……大丈夫か? 遅れてすまなかった」
「もう……遅いわよバカ……」
青年のいつもの元気な姿を目にした途端、シエルの瞳から再び温かな雫が頬を伝ったのだった。