第二十三話 巣立ちの刻
皇国軍が攻めてきたのは、卒業式当日からちょうど二日前のことだった。
リースベルから南東へ向かっておよそ百五十ルーロルメール(キロメートル)ほど大海を進んだところに浮かぶ、《バレス》という小さな島がある。
その絶海の孤島に、皇国海軍部隊《レヴィアタン》の魔導船十隻が着岸したという情報が昨日魔導軍事学校に入ったのだ。敵の兵力は約二千。皇国軍はバレス島に侵入した後、そのまま島の中心にある高台の街《ニルヴァス》を占拠したという。
しかし、その行動にはいくつか疑問が残る。
バレス島は街以外に特に何もない辺鄙な土地で、とてもではないが占領する価値などほとんどない島なのだ。さらに二千という、そんな無益な島を奪い取るには割に合わない圧倒的な兵力。何よりもこの島は、数年前から皇国軍に占領されるたびに反乱軍が奪還するという行為を毎年繰り返していた。
そして今年も当然のように、皇国軍はバレス島に侵攻してきた。
なぜそこまでして島に執着するのかは解らないが、奴らが動いた以上、反乱軍が動かないわけにはいかなかった。
卒業生たちは残された時間を使い、今まで世話になった家族や友人、先生や後輩たちに挨拶を済ませて昼食をとった後、リースベルの東にある港に集まっていた。船着き場には大小様々な船が停泊しており、時折吹き抜ける潮風が爽やかで気持ちいい。どこまでも広がる紺碧の大海原は陽光を反射させてきらきらと輝き、いつまでも潮騒の音色を美しく奏でている。
そんな波止場の先端でフィールカは一人、茫洋と広がる青の世界を眺めていた。
「――あ、こんなところにいた」
不意に後ろから耳触りのいい声がすると、いつの間にか隣にはシエルの姿があった。
「海って、こんなに広いんだねー」
少女の思いも寄らない言葉に、フィールカは不思議そうに首を傾げる。
「そんなに珍しいのか?」
「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど、こんなに近くで見たのは一度もなかったの」
すると、フィールカは空と海の水平線に視線を戻し、ぽつりと言った。
「なんか意外だな」
「え、どうしてよ?」
「だってシエルって、何でも知ってるような印象しかなかったからさ」
青年の口から出た素直な言葉に、少女は呆れたように細い肩をすくめる。
「そんなことないわよ。私だって、この海の遥か先にある大陸でさえ見たことないんだから」
そう言って、フィールカと同じように遠くの地平線を見つめる。
この果てしない大海の向こうにはこれから自分たちが向かうバレス島、さらにその先には皇国エンシェリアがあるクロフィア大陸、そんなまだ見ぬ世界が広がっているのだ。
しばらく二人は無言で、その壮大な光景を飽かずに眺めていた。
「あ、そういえばまだ言ってなかったな」
フィールカはふと思い出したように少女に向き直った。
「卒業おめでとう。やっぱシエルはすごいよな。最後に逆転して今年のトップで卒業だしさ」
突然の祝いの言葉に、シエルは恥ずかしさを隠すように顔を逸らす。
「べ、別にそんなに大したことじゃないわ。私の目標は、もっと上のところにあるんだし……。それに、フィールカこそ惜しかったわね。……ずっと頑張ってあいつに追いつこうとしてたのに」
少女の沈んだ声に、青年は顔を俯けて表情を少し昏いものにする。
あいつ、とはダインのことだ。二年前、学校で初めて試合をしたあの日から、自分はあいつと今日まで競い合ってきた。常に互いを意識し合い、ずっと勝つために訓練に励み続けてきたが……。
「それも今日で終わりか……。結局、あいつには一度も勝てなかったな……」
どこか名残惜しそうに呟く。これまでの思い出が次々と溢れてきそうな、そんな気分だった。
「もうこの場所ともお別れなのね……。苦しいこともたくさんあったけど、やっぱり皆と過ごしたこの二年間は、私にとって掛け替えのないものになったわ」
すると、シエルは青年の黒い瞳をじっと見つめて言った。
「ねえフィールカ、一つだけ約束して」
不意に表情を真剣なものにすると、少女は自分の想いを正直に伝えた。
「どんなことがあっても、絶対死なないって……」
彼女の心からの本音に対して、フィールカは力強く頷いてみせた。
「ああ、もちろんだ。必ずみんなで生きて還ろう」
フィールカは笑顔で答えると、シエルも自然と顔が綻ぶ。
潮騒だけが静かに響く中、二人はずっと見つめ合っていた。まるでそこだけ時間が止まったかのように。
すると、すぐに二人は我に返ったように頬を赤らめる。
「な、なんかごめん……」
「う、ううん、こっちこそ……」
突然の気まずい雰囲気に、二人は思わず黙り込んでしまう。
「――おーい、二人ともー! もうすぐ点呼とるってよ!」
不意に後ろからレオンの声が耳に届いてくる。フィールカはすぐに振り返ると、金髪の青年に言葉を返す。
「ああ、わかった! いま行く!」
そう叫んで、改まった顔でシエルに向き直り言った。
「そろそろ行くか」
「そうね」
海原に逞しい背中を向け、二人も皆が集まっている場所に向かった。
∞
「――どうやら一人も欠けずに全員集まってくれたようだな」
卒業式のときと変わらず紺色の軍服に身を包んだグラウスは満足げに点呼を終えると、目の前に整然と並ぶ卒業生——否、今日から反乱軍の一員として認められた新兵たちに愉快そうな口調で言った。
「初の出兵にもかかわらず、よく集まってくれた。皆それぞれ不安や恐怖はあると思うが、それでも諸君は決して尻尾を巻いて逃げることなく、己の使命を果たすためこの場に正々堂々と揃ってくれたわけだ。諸君の愛する家族や友人たちに、最後の挨拶はしっかり済ませてきたかね?」
その質問に対し、黒い軍服を着用した新兵たちは「はい!!」と力強く返事をして敬礼する。
実際、戦場に出兵される直前になって怖気づく者は少なくない。結果的にこの場にいる八十人の新兵たちは、それなりに覚悟と自信を併せ持っているということだ。
グラウスはこれ以上にない上機嫌な顔で鷹揚に頷いた。
「うむ、いい返事だ。今日から諸君も反乱軍精鋭部隊の一人の兵士。その名に恥じぬよう、それぞれが意識を高く持ち、己の責務を最期まで全うしてほしい。さて、それでは――」
すると、紺軍服の教官はおもむろに右手を掲げ、ニヤリと口許に不気味な笑みを浮かべた。
「今日は諸君が反乱軍の一員となった記念に、私たちを快適に島まで運んでくれる《ある物》を用意した」
そう言って、パチンと高らかに指を鳴らしたその直後――海面から勢いよく水飛沫を上げて二隻の黒い潜水艦が姿を現す。
全長はおよそ五十ルメールほどもあり、まるでクジラのような艶やかな漆黒の船体には、砲塔に備え付けられた二門の巨大な機関砲が搭載されている。
突如現れた圧巻のその姿に、新兵たちからは「おおー」とどよめきと歓声が湧き起こる。
「こ、これってまさか《魔導艦》ですか?」
シエルが少々驚いた様子で訊ねる。
魔導艦とは、動力源である魔導石を利用して稼動する潜水艦の一種であり、シエルたちが授業でも習ったことだが、実際に実物を見たのはこれが初めてだった。
グラウスは毅然とした態度で首肯する。
「そういうことだ。これから諸君には、二つの班に分かれてもらう。学年別総合成績の下位四十名はA班、上位四十名はB班とする。A班は一号艦に、B班は二号艦に搭乗し、十分後にここを出港する予定だ。特に質問がなければ、これにて解散とする」
素っ気なくさらりと指示し、グラウスは先に一号艦の魔導艦の側面に開かれたハッチから中へと乗り込んでいく。そのまま彼は艦内に姿を消すと、八十人の兵士たちもそれに倣って次々と自分たちの指定された魔導艦に乗り込み始める。
フィールカとレオン、シエルは二号艦になるので、一号艦とは反対側に停泊してある魔導艦に乗り込もうとした時だった。
「――待ちなさい、三人とも」
不意に後ろから聞き馴染みのある声をかけられる。
フィールカたちは振り返ると、そこには先ほどの黒い礼装から一変して、いつもの白衣に身を包んだミスリアの姿があった。
突然の彼女の登場に、フィールカは興奮したように喜びの声を上げた。
「先生、来てくれたんですか!」
「大切な生徒たちの船出を、教師の私が見送らないわけにはいかないでしょう」
普段通り素っ気ない口調で言葉を返し、ミスリアは念を押すように彼らに確認した。
「いい、三人とも、危なくなったらすぐに逃げるのよ? 何も無理に戦う必要なんてないわ。――たとえ兵士だろうと、死ぬのが怖くない人間なんていないもの」
彼女のありがたい助言に、フィールカたちは小さく頷き、感謝の言葉を述べる。
「ありがとうございます、先生。しばらくここには帰ってこれないと思いますが、いつか先生に会いに必ずここに帰ってきます」
「必ず生きてね……」
消え入りそうな声でそう言うと、ミスリアは順番に三人を抱き締めていく。彼らの温もりをいつまでも忘れないようにと、彼女は自分が満足するまで抱き続けた。
「――おい、何をしている。お前たちが最後だぞ」
不意に反乱軍の隊員の男が、急かすような口調でこちらに呼びかけてくる。
フィールカはミスリアに向き直り、最後の言葉をかけた。
「それじゃ、行ってきます」
「気をつけてね……」
互いに別れの挨拶を告げると、隊員に連れられて三人は魔導艦に颯爽と乗り込んでいく。
「――フィールカ! 約束はちゃんと覚えてるわね!?」
青年の背中に問いかけるように、ミスリアが言葉を投げかける。
前夜祭の夜、森の中で彼女がレオンとシエルのことをしっかり守るようにと言われたことだ。彼女の言葉に対して、フィールカは背を向けたまま右手を横に伸ばし親指を立てた姿で力強く示すと、黒い船体の中へと静かに消えていった。
それから程なくして二隻の魔導艦は港を出航し、海原をひたすら突き進んでいったのだった。