第二十話 説得
シエルと屋上で別れた後、フィールカは早速校舎の一階にある保健室の前に来ていた。
普段よりやけに緊張しながら、こんこんと軽く扉を叩く。するといつものように、どうぞ、と冷たい声ですぐに中から応えが返ってくる。
「失礼しまーす………」
恐る恐る保健室に入ると、白いデスクの前で椅子に座りながら、山積みにされた書類の作業にひたすら追われているミスリアの姿があった。
白衣の美人教諭はこちらを一瞥すると、肩をすくめて呆れ切った様子で言った。
「………また怪我かしら? 毎度ご苦労ね。あれほど安静にしてなさいと釘を刺したにもかかわらず、一体どうやったらそんなに傷が増えるのか、是非とも教わりたいものだわ」
「いえ………今日は他の用事で………」
いきなりの早合点にフィールカはがくりと肩を落としたが、今までここに訪れた理由はそういう類いのことしかなかったので、内心で仕方ないと思いながら渋々割り切ることにする。
ミスリアは、少々意外といった様子で冷やかに言い返した。
「まさか、あなたが怪我以外の用件でここに来るなんて思わなかったわ。それで、一体なんの用かしら? くだらない話ならお断りなんだけど」
嫌悪感を露骨にした態度にフィールカは思わず心が折れそうになるが、ここで引き下がるわけにはいかない。なけなしの勇気を振り絞り、どうにか言葉を口にする。
「その………実は今夜、先生にこれまでのお礼がしたくてここに来たんです。いまから俺と一緒に壁外までついて来てくれませんか? もちろん勝手な頼みですけど、レオンやシエルも楽しみに待ってます。これが校則違反に当たることはわかってますが………」
自然と敬語になりながら理由を説明すると、ミスリアはうんざりした様子で答えた。
「わかってるなら話が早いわ。あいにくと、校則を破ってる生徒たちを見過ごすほど私はお人好しじゃないし、今日の仕事もまだ残ってるの。さっさと二人を呼び戻して来なさい」
当然というように、愛想の欠片もない態度で突き放してくる。
しかし、ここでフィールカは深く頭を下げた。
「………お願いします」
突然の青年の行動に、ミスリアは思わず目を丸くする。
フィールカはゆっくり顔を上げると、これまで過ごしてきた学校生活での二年間の気持ちを素直にぶつける。
「………今まで先生には本当にお世話になりました。毎日のように怪我をしては見てもらい、そのたびに迷惑をかけてすみませんでした。けど、明日にはレオンやシエル、俺もこの学校から出て行きます。だからせめて、最後くらいはちゃんとお礼をさせてほしいんです」
想いを込めた説得に、ミスリアは青年の頭をじっと見つめた。少しの間を置いて、中庭が見える窓のほうに目をやる。
「あなたたちが居なくなれば、この学校も少しは落ち着くでしょうに………」
それを聞いてフィールカは顔を上げると、ミスリアは嘆息して神妙な面持ちになる。
「昔、私がまだこの職業に就いて間もない頃、あなたに似た生徒がこの学校を卒業していったわ。明るく元気な男の子でね。いつも他人に迷惑ばっかりかけて、ホント面倒見が大変だったわ。そんな子でも、私にとっては大切な生徒の一人だったの」
そこで彼女は表情を曇らせると、沈んだ声で言葉を続けた。
「でも、彼は学校を卒業してから数週間後、戦場で呆気なく命を落とした。そのとき、私は気づいてしまったの。自分は生徒たちが死ぬとわかっていながら、ただただ彼らを卒業させていく立場なのだと………。だからもうこれ以上、あなたたちとは関わりたくないの。戦場に無駄死にしに行くような彼らを、みすみす卒業させていくことがどれほど辛いのか………あなたにはわかる………?」
フィールカはようやく全てを理解した。
なぜミスリアは、いつも自分たちに冷たい態度をとっていたのか。それはきっと、彼女が自分たちと親しい関係になることをずっと恐れていたからだろう。これまで何度もこの時期に、胸が痛むような経験をしてきたに違いなかった。
しかしそれでも、フィールカは彼女を見据えて真剣な眼差しで答えた。
「だからこそ、俺たちのことを最後まで見届けてほしいんです」
そう言って少し目を伏せると、胸中に秘めていた本音を正直に伝える。
「絶対に死なない、なんてことは決して口には出せないけど、それでも俺たちは明日から戦場に向かいます。もしかしたら、自分たちの命は明日までかもしれない………。でもだからこそ、巣立っていく生徒たちの背中を最後まで見届けてほしいんです―――逆境に立ち向かっていく自分たちの姿を」
どこまでもまっすぐな言葉に、ミスリアは昔を思い出すようにそっと呟いた。
「きっと死んでいった彼にも同じことを訊けば、あなたと同じ返答をしていたんでしょうね………」
昔、毎日のように放課後の保健室を訪れていた無邪気な青年。
青年に仕事の邪魔をされるたびに、いつも自分はうんざりげに彼を叱っていた。今となれば、そんな下らないことなどいくらでも許してあげればよかったと思う。彼の笑顔を脳裏に思い浮かべるだけで、なぜだか自然と目頭が熱くなってくる。
いや、とミスリアは首を小さく横に振る。青年が亡くなったあの日、もう厭というほどいっぱい泣いたではないか。胸が張り裂けそうなくらいたくさん苦しんだではないか。だから今まで心を閉ざして誰も信じてこなかった分、今度は心から彼を信じてみたくなった。
もういなくなってしまった青年と、今ここにいる青年。
二人の姿をゆっくり重ねながら、ミスリアはこくりと頷いた。
「わかったわ。私も………ちゃんとあなたたちと最後まで向き合う。明日が最後の別れだったとしても………もう現実から目を背けたりしない」
ずっと氷のように閉ざしていた心を開いてくれた彼女に、フィールカは、いつの間にか胸の奥で何かが温かくなっていくのを感じたのだった。