60 夏から秋へ、そして 1 夜に来たのは
いらしてくださり、ありがとうございます。
今回から連作の新しい話です。
水原拓は、私立緑高校園芸部の部長で、高2です。
土屋茜は、拓の幼なじみで同じく園芸部員、高2です。
夏休みも終わりに近づいたある日のこと。
水原拓は、窓近くの机で宿題に取り組んでいた。
時計はもう夜の十時を回ろうとしている。
「くそっ、もっと早めに手をつけていれば!」
何度見ても、カレンダーの日付は変わらない。
シャープペンシルを放り出して背伸びをしたそのとき。
チャイムが鳴った。
「どなたですか?」
拓の家は古く、インターホンは音声のみだ。
「わたし。向かいの土屋茜」
「今開ける」
拓は、息を呑んだ。
乾ききっていない髪を下ろした、Tシャツにパイル地の短パン姿の茜がうなだれている。
ふだんのシャキッとしたポニーテール姿とは、別人のようだ。
Tシャツは薄手で、大きな胸を包むブラジャーのラインが透け、手にはバスタオルが握られている。
「ど、どうした!? 」
目のやり場に困りながら拓は尋ねた。
茜は黙ったまま拓を見上げた。
茶色く大きな目に涙が盛り上がり、光がちろちろ揺れている。
唇は噛み締められ、寒くもないのに細い肩が震えている。
髪や体からいい匂いがする。
「とにかく、上がれ」
拓が言うと、茜はこくんと頷き、ダイニングキッチンまでついてきた。
「ジュースと麦茶、どっちだ? あったけえのがよけりゃ、コーヒー・紅茶も作れるが」
「……どれでも」
茜らしくない答えだった。いつもだったら、自分が飲みたいものをはっきりと言うだろうに。
やはり今日の茜はおかしい、と拓は思った。
ダイニングキッチンのテーブルを挟んで拓は、茜と向かい合った。
「飲めよ」
椅子に座ってもまだ震えている茜を見て、拓は温かいコーヒーを出したのだった。スティックシュガー二本とコーヒーフレッシュ一つ、缶に残っていたクッキー数枚も添えた。
茜は、心ここにあらずといった顔でコーヒーをすすった。
「めしは食ったのか」
「食べた」
そうか、と拓は次の言葉を待ち、自分もコーヒーを飲んだ。
熱い。冷凍庫から氷を出してきて、表面張力ぎりぎりのラインまでカップに放り込んだ。
「お風呂から上がって、『おやすみ』って言ったあとに喉が渇いて。……で、しばらくして一階に下りてったのね」
カップの柄を握ったり離したりしながら、茜は話し始めた。
「そしたら、お父さんとお母さんが、リビングで――覚えてるかわからないけど、階段からちょっと離れた所の部屋ね――小さい声で話してて。あ、これは今出て行かない方がいいな、って、足を止めたんだ?」
茜はようやく、視線を上げた。
「拓が言ってたみたいに、普通の夫婦喧嘩かなって思ったの、最初は。けどね。『翔太にはなんて言うつもりだ? まだ小さいのに!』ってお父さんが語気を強めたら、お母さんが――」
声を詰まらせた茜に拓は、
「ゆっくりでいいぞ。なんなら、クッキー食ってからでも」
と声をかけた。
彼女は首を横に振り、つかのま、小さく笑った。それから言葉を継いだ。
「お母さんが言ったの。『まずは茜だけに話せばいいじゃない。受験が近くなってからより、今くらいの時期に話した方がいろいろ考えられるだろうし。それに万一、先に本人が戸籍謄本を見ちゃったらどうするの? その方がかわいそうよ』」
「戸籍謄本?」
そう、と茜は頷いた。
「結論から言うとね、わたし、お父さんとお母さんのほんとの子じゃないらしいの。養女みたいなんだ」
拓の目を見ながら一気に言うと、茜はコーヒーを飲み干した。
途端に、コーヒーが濾過されでもしたみたいに、彼女の目から涙があふれてきた。
「ごめん。今、拓のお母さんが帰ってきてこんなところを見たら、びっくりしちゃうよね」
手の甲で涙をぬぐいながら、茜は笑った。だがすぐに目元も口元も歪んでしまう。
「おふくろは、今日も遅いと思う。ここんとこずっと終電かタクシーで帰ってるし」
そういうことを訊かれてるんじゃない、というのはわかっていた。けれども、こんなことしか答えられない。
拓はティッシュをボックスから乱暴に引っ張り出し、茜に渡した。手が震えた。
なんで胸の鼓動が速くなってるんだ。茜の話なのに! ――俺が気が動転してどうする。
胸のうちで、拓は一人ごちた。
「元々、わたしが高校生になったら本当のことを話すつもりだった、って、お母さん言ってた」
茜はティッシュで涙と鼻水を拭き、そばにあったくずかごに捨てた。
「もうしばらくこのままでいられないか、ってお父さんが頼んだら、あたしだってそうしたい、言わなくて済むものならずっと今のままでいたい、ってお母さん、泣き出して。……ティッシュありがと」
「お、おう。ここに置いとくから好きなだけ、使え」
「サンキュ。もう、大丈夫と思う。……あー、やっと泣けたわ」
茜はコーヒーカップを両手でくるみ込むようにして肩をすくめ、それを一気に下ろした。
「お母さんが泣いたとこまで話したよね。で、お母さん、茜にはほんとのことを知る権利がある、それを邪魔することはできない、って。そしたらお父さんが、美花子さんにも相談すべきじゃないかって」
「美花子って……おふくろ!?」
拓はまだ結構な大きさの氷を飲み込み、むせた。
ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ご来訪に心から感謝いたします。
なお、今回から不定期連載になります。




