53 二度目の春が来て 53 穴と腕そして
リッピアの腹に開いたまぶしく光る穴に、拓の腕は吸い込まれ、彼の意識も朦朧としていく。
不意に腕を掴まれ、拓は目を開けた。
――んんっ!!
パンジー・ビオラの精アンジーが、すぐ目の前にしゃがんでいた。
空色・ピンク・白などの入り混じった不思議な光沢がある透明がかったシャツに、金糸の刺繍が施された鮮やかな濃い青のベストと半ズボン。
それらの細かい皺や陰影まで、くっきりとわかる。
中性的なうめき声は彼女のもの。
彼女は、拓の腕を実際に両手で握りしめていた。そして大綱を引くようにそれを引っぱった。
頭をのけ反らせ、歯を食いしばり、革ブーツに包まれた脚の一方をぴんと伸ばしている。
意識が朦朧としている拓は、アンジーの「物理的な力の行使」にも特に疑問を持つことはなかった。
彼女を見て、拓は再び腕を穴から抜こうとした。
どうにも力が入らない。
アンジーには悪いが、自分が穴に吸い込まれて消えてしまった方が、あらゆるもののために良いのではないか。
ショートカットのオレンジがかった金髪がまぶしい。
どこかの貴公子のようだ。
女だろうとは思うが、実はアンジーの性別はわからない。
――やっぱり、こいつ、……男かも?
ともすれば消えそうになる意識の中で、拓は思った。
その間にも、床に密着しているアンジーの足の裏は、ずるずると穴に吸い寄せられていく。
彼女の尽力で速度は落ちているとはいえ、拓の腕も穴に引きずり込まれていく。
――邪魔、しないでよぉ。
リッピアは身をよじらせた。大きさや息づかいからすると、まだ回復途上といった声だった。
――却下です。
淡々とした表情で答え、アンジーは拓の腕を引っぱり続ける。
――花の精なら、花の精の味方を、うぅ……しなさいよ!
――いやです。
――なんで。
――ナンノブユアビジネス(none of your business)、あなたに関係ないことです。
アンジーは体勢を立て直し、拓の腕にいっそう指を食いこませて自分の作業を続ける。
――何をぼうっとしているのです。助けを呼んでください。
苦しそうに顔をゆがめながら、アンジーは言った。いつもどおり中性的で冷静なトーンの声だ。
ただ、大きく肩で息をし、腕も脚も震えている。
――助け……?
――トイレにいるでしょう、ふだんからあなたにさわれる人たちが。
それでようやく、拓は、アンジーが掟破りともいえる「人間に対する物理的な力の行使」をしていることに気がついた。
花の精は、人や物を直接動かすような力を使うと、極端に体力を消耗してしまう。
――だめ……だ、アンジー。そんなことを、したら、おま……え……が。
簡単な言葉も、容易に出ない。ひとこと発するたびに、開けていられないほど瞼が重くなる。
――早く、助けを呼んでください。
ほとんど抑揚のない声で、アンジーは繰り返した。
有無を言わさぬ空色の目で、彼女は拓を見つめる。
――わか、った。
拓は息を吸い込み、「助けてくれ」と口に出した。そのつもりだった。
ところが。
「ふぁ……」
何度やっても、息がへにゃへにゃと口から漏れるばかり。
寝ていて金縛りに遭ったときのように、まったく声が出ないのだった。
そればかりか、心内語で話しているときよりもさらに強烈な眠気に襲われる。
――どうしたんです?
――こ、声……が。
心内語ならなんとか言葉になるのに。
力が入らない腹を無理やりへこませ、拓は救助を求める言葉を何度も絞り出そうとした。
が、やはり結果は変わらない。
何も言わないものの、アンジーの表情も険しくなっている。
茜の顔が、頭に浮かんだ。
ポニーテールを揺らす、はじけるような笑顔だ。
茜。
拓は胸のうちで呟いた。
そのときだった。
「拓!」
凛とした小さめな声が廊下に響いた。
駆け寄ってきた茜は、中腰で拓の腕に飛びついた。そして顔を顰めてそれを思いきり引っぱった。
アンジー一人で引いているときとは比べものにならぬほど、腕が穴から出てきた。
「大丈夫だからね!」
皺を寄せていた眉根を押し広げ、茜は拓に笑いかけた。
驚きや恐怖を奥底にしまい込み、つぶらな目に明るい光を満たしている。
拓にはそう見えた。
三日月形に開いたピンクの唇の間から、大きな白い前歯が覗いている。
茜の垂れた目、唇、歯を見つめていると、安心感や新たな気力が生まれてくる気がした。
「おう」
と言おうとしたがまだ声にならない。拓は黙って頷いた。
すぐに茜は真顔に戻った。
しゃがみ込み、アンジーと同様、一方の脚を伸ばして、床を踏みしめる。
平気でぶつかったり腕を重ねたりしているところからすると、アンジーの姿は見えていないようだ。
「菖蒲院さんも手伝って!」
「は、はい」
腕を顔にかざして突っ立っていた高華も、すぐに茜に倣った。
顔をくしゃっとしかめ、涙さえ流している。
「茜先輩は、まぶしくないんですかっ?」
拓の胴体を引っぱりながら、高華が尋ねる。
「夜光塗料みたいに穴がぼうっと光ってはいるけど、ぜんぜん、まぶしくはないよ。菖蒲院さんはまぶしいんだね。無理しなくて、いいからね?」
「平気です。わたしの方が穴から離れてますしっ」
ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ご来訪に心から感謝いたします。
なお、アンジーについては、「28 二度目の春が来て 28 アンジーの話 チューリップ・マニア」、「29 二度目の春が来て 29 引継ぎとパン袋」辺りをご参照ください。
今回の話の何割かは、睡魔と闘いながら書きました。
それが本文に活きるかというとまた別の問題なのが、つらいところですね。
少しでも本文に活かせているといいのですが。




