52 二度目の春が来て 52 最後の願い
いらしてくださり、ありがとうございます。
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夜も更けた学校の廊下。
瀕死のリッピアは、「華眼師は、自分だけだと思っているのか」と拓に問うた。
二人の心内語での会話は続く。
リッピアは、さきほどより苦しみの少なげな顔になっていた。
声にも、わずかに甘えるような響きが戻っている。
――俺と、あと、じいちゃんだろ?
――違うよぉ。
リッピアはまた笑った。笑いながら顔をゆがめている。
口にはしないが、傷が痛まなくなったわけではなさそうだった。
――そういうことじゃなくて。……庭師だって気象予報士だって、世間にはいっぱいいるでしょ? 華眼師だけ二人っきりって、どうしてそう思うの?
妹のようでもあり、子を見つめる母のようでもあるまなざしが、拓に問いかける。
――華眼師で食っていけてるやつがいるとは思えねーし。庭師や気象予報士とはやっぱり違うんじゃね?
――食べていけてもいけなくても、仕事は仕事でしょ。
リッピアは、寝たまま肩をすくめてみせた。
といっても、細い肩は微かに動いただけだ。
そしてどうやっても、胸の下の、縁が焦げたようになった大きな空洞が拓の目に飛び込んでくる。
白い縁取りがある赤いチューリップの花と、ウェイビーで長く尖った葉とを髣髴とさせるショート丈ワンピース。服が明るく華やかな分、そこに開いた穴の異様さはいっそう際立っていた。
――すまない。俺は短期バイトしかしたことねえしよくわからん。
拓は、目の奥が急に熱くなった。
横を向き、明日からの作業工程を思い浮かべた。そうするうちに、目の方はなんとか治まった。
――お前が言う「あの方」って、ひょっとしてその、別の華眼師なのか?
拓は、再びリッピアの目を見つめた。
――さあね。
彼女は、こちらが吸い込まれそうな目を見開いたまま呟いた。
――そのくらい、自分で考えて。
やわらかく言った直後。
リッピアは顎と体を大きくのけ反らせた。
腹に開いた穴の周りを掻きむしりながら、彼女はのた打ち回る。
目を固くつぶり、歯を食いしばっている。
――お仕……置き、あれで終わり、ってわけじゃ……なかった……みたい。
体全体を震わせながら、リッピアは唇の端を上げた。
リッピアの腹に開いた大きな穴の中に、目もくらむような光が生じている。
拓は反射的に目を細めた。そして、腕を目の辺りにかざした。
――痛いよぉ、拓。……最後の、お願い。……ここに、手を当てて。
リッピアは大きな目を目を潤ませ、穴を指さした。
血色のいいピンク色の唇が小さく開いている。
下唇が特にふっくらとしたそれは、さらに、お・ね・が・い、と声を出さずに蠢いた。
拓は腕で光を防ぎながら、反対の手を穴に当てた。
すぐに心内語で小さく叫んだ。
温かいのだ。
できるならば手だけでなく全身、入りたいくらいだ。
光の奥に、シャボン玉の表面さながらに虹色が揺らめいているのが、細めた目でも確認できた。
――ありがとう。少し、痛みが、とれたよぉ。……「手当て」って言葉、本当なんだね。
リッピアは微笑んだ。
ゆるふわボブカットの茶髪はほつれ、幾筋か額や頬に貼りついている。
すぐに彼女は、背を反らし苦しそうに息をした。
――でも、今度は、奥の方が痛くなってきたよぉ。
痛みをこらえているのか、唇を噛みしめている。
――どうすればいいんだ?
拓は身を乗り出した。自分にできることがあればなんでもしたかった。
――手を、そのまま沈めて。
――こうか?
――うん。もっと……かな。
拓は言われるままに穴の中に腕を伸ばした。
温かさが腕を上り、全身に浸み渡る。
――……楽になってきたよぉ。でも、もう少し、深いところ……。痛みが……移動してる、みたいなの。
リッピアは、ほっとしたような表情と苦悶の表情とを交互に浮かべる。
拓の手首は既に見えず、さらにじりじりと、肘が虹色の穴に沈んでいく。
ん? と拓は思った。
いつまで経っても床に当たらない。沼のように底なしなのだ。
――あぁ、だいぶ痛くなくなったよぉ。ありがとう、拓!
リッピアの声は、さっきまでとは打って変わって元気になっていた。
呼吸も落ち着き、目には、生きることに貪婪、と言ってもいいような力強い光が満ちている。
――そうか。よかった。
拓は腕を引き抜こうとした。
が、逆に強い力で穴に引っぱられた。
容赦なく、ずぶずぶと二の腕の方まで吸い込まれていく。
バランスを崩した拓は、リッピアの腰の辺りをまたいだ床に顔を打ちつけた。
その間にも腕は穴にめり込んでいく。
不思議と、抵抗する気にならなかった。
ひなたでまどろむような心地良さだ。
こうなったのも、自業自得。
元はと言えば、俺のせいなのだ。
もっと早く俺が本当のことを打ち明けていれば。
リッピアだって、きっと腹に穴を開けられずに済んだ。
そのあとで話し合えばよかったのだ。そうすれば、リッピアも無事。花壇のことも解決して、菖蒲院も……。ん? 菖蒲院って、誰だ……?
ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ご来訪に心から感謝いたします。
また、『ある高校生華眼師の超凡な日常』の書籍が発売されて、今日でちょうど一年になります。
これまで、書籍作り及び流通・販売、サイト来訪、お買上げ、宣伝協力、お気に入り等でお世話になりまして、本当にありがとうございます。
今後とも精進してまいりたいと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。




