43 二度目の春が来て 43 見える理由と、自分を抑(おさ)える方法
「い、今、そこに!」
高華が小さく叫んだ。同時に拓は、
―――言うな! 頼む! 口に出すな!
と心内語で彼女に語りかけた。
高華は鳩が豆鉄砲を食らったように――というにはシャープな目だが――目を見開き、固まった。
拓は
――頼む!
と渾身の力を込めて重ねた。
すると彼女は、拓の目を見て微かに頷いたのだった。
茜が、落ち着かぬ様子で拓と高華の方を見る。
背後に陽炎が揺らめいているのは、拓の錯覚か。
う、と拓は唾を飲み込む。が、今ここで茜に説明するわけにはいかない。
――ふぅん、あたしが見えるのかぁ。ねぇ、ほかに何が見える?
リッピアは可音の顔ぎりぎりのところを蹴るのをやめ、腰をひねって高華に微笑んだ。
濡れたような唇をゆっくりと動かすリッピアは、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。
けれども、相変わらず拓には、膝を抱えて泣いている彼女の姿が二重写しとなって見えていた。
酔いそうだ。というか既に吐き気がしてきている。
ちょうど、撮影の手ぶれがひどい映像を眺めているときみたいな感じなのだ。
菖蒲院高華は以前、「花の本来あるべき姿」や「本質的な美」が見えると言っていた。
実際の花とそれらが重なって見え、吐きそうだとも。
そしてそれよりずっと前、茜や薫が自分の体に触れたとき、自分にしか聞こえないはずのパンジー・ビオラの精スミレの声が彼女たちにも伝わった。
スミレの姿は、拓には見えていたけれど彼女たちには見えなかった。
これらの事実から類推すると、今起こっている現象は、通常の人間と異なる「能力」を持つ高華の手が自分の腿に触れているため、という可能性が大きい。
身体的接触により高華の「能力」が自分にも流れ込んできて、目の前にいるリッピアと同時に、リッピアの「本来あるべき姿」――膝を抱えて泣いている姿――が見えているのだとしたら。
おそらくは、高華にも、リッピアの両方の姿が見えているのではないか。
そしてリッピアはなぜ、「膝を抱えて泣いている」ような気持ちなのか?
にもかかわらず余裕たっぷりの態度をとるのはどうしてだろう?
考えても、答えは出ない。
「立てるか?」
拓は自分の脚に目をやりながら言った。
高華は、はっとしたように手を引っ込めた。顔がたちまち真っ赤になる。
「も、もちろんです!」」
彼女は、床とテーブルに手をつきながら立ち上がった。
それから、リッピアがいる辺りをきょろきょろ見回すと、汚いものでも見るような目で拓を凝視したのだった。
え。なんでそんな目で見るんだ。
目や眉を動かさぬようにしつつ、内心、拓は慌てた。
絶対、何か誤解されている。だが、ここでは反論できない。もどかしい。
そして前方からは口をへの字にした茜の視線が飛んできて、文字どおり矢のように刺さる。
「あぁっ、だめだよぉチロ」
横からレトリーバーに飛びつかれた可音が、くすぐったそうな声を上げた。
重量感があるチロは、可音の体に前脚をかけ、主人を見上げてさかんに尾を振る。ヘッヘッヘッヘッ、と息もはずんでいる。
(大丈夫ですか? ご主人。ご主人好き! ご主人好き! ご主人好き!)とでも言っているようだ。そう拓は思った。
「おとなしくして。この人たちは悪くない。ぼくが悪いんだよぉ。ちゃんと、菖蒲院さんの――青いロングヘアの人の言うことを聞いて。ほら!」
可音がまじめな顔でたしなめると、チロは「おすわり」の姿勢になった。
(えぇー、どうしてですか? 悪いやつらなら自分がやっつけますよ?)
やや困ったような顔でチロは首を傾け、また元に戻す。
――どうするのぉ? 拓。あっちもこっちもおもしろいことになってるじゃなぁい。
リッピアが再び、可音の顔すれすれのところを蹴り上げ始めた。
――ちょっと黙っててくれ。一度に全部は無理だ。
高華やリッピアのことはひとまず置いておき、先に可音のことを片付けよう。
拓はそう決意した。
「キレたら自分を抑えられないっつったよな?」
「はい」
「けど、俺たちがお前を追ってたときも、捕まえたときも、お前は犬のことを気にしてた」
はあ、と可音は不安げな顔で頷く。
「ってことは、犬についてなら、自分を抑えられるんだよ。なら、花壇についても自分を抑えろよ。つうか、抑えてもらわないと困る」
「ぼくも、ほんとはそうしたいんですぅ。でもどうやったらいいかわかんなくて」
ニットが皺になるくらいきつく、可音は胸元のビジューをつかんだ。目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「羊を数えるとかどうよ?」
恭平が口を挟んだ。
「羊は……、眠れないときじゃないの?」
茜が困惑したような声を出す。
「いくら俺でもそりゃ知ってるよ、茜ちゃん」
恭平は両の手のひらを上に向けた。
「けどさぁ、数を数えてりゃ気がまぎれるだろ? 犬が好きなら、同じ動物の羊を数えりゃさぁ、なごんで怒りが消えるかもしんねーし」
「じゃ、犬でいいじゃん」
薫がぼそっと突っ込む。
「犬でも羊でもいいが、数を数えればなんとかなりそうか?」
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