29 二度目の春が来て 29 引継ぎとパン袋
グロ描写あり。お食事中の方など、特にご注意ください。
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パンジー・ビオラの精アンジーは、拓に、《――リッピアには、ちょっと気をつけた方がいいかもしれない》と忠告する。
そして、十七世紀前半にオランダで起こった、「チューリップ・マニア」という経済現象について語るのだった。
菖蒲院高華が花壇を荒らした犯人か言おうとしたアンジーの言葉を、拓は遮った。
――俺と茜だけが園芸部の部員だった時代なら、答えを聞いただろう。だが今の園芸部には、恭平のように、俺に花の精が見えることを知らない部員もいるからな。なるべく花の精に頼らずに問題に対処できるようにしておかないと、俺が引退したあと、部が立ちゆかなくなってしまう。
――わかりました。
拓には、アンジーが微かな笑みを浮かべたように見えた。
彼女の話は続いた。
歴史に残るバブルとまでは全然いかなくても、チューリップ・マニアに少し似た話は、ほかの植物についてもあるという。ラン、バラなど、品種改良され次々に生み出される美しい花に人々は夢中になり、惜しみなく金を払うのだと。
アンジーは喜びと悲しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべ、遠くを見やった。
――なあ。どうして、俺にこんな話を?
区切りのいいところで、拓は尋ねた。
――わたしの前任者であるスミレの引継ぎ事項にあったんです。「緑高校園芸部の水原 拓という少年を助けろ」と。
アンジーは、あるかなきかの笑みを浮かべた。
優しい姉のように薫を見守っていたスミレの顔、オレンジがかった長い金髪などが拓の頭に浮かんだ。
昨年、薫の家の庭であることをしてスミレは力尽きた。別れの言葉を最後まで言う暇もなく、彼女は一糸まとわぬ姿でまばゆい光に包まれ、光の粒子となって消えていった。引継ぎなどいつ行われたのだ?
――引継ぎというよりは、前任者の心情をデータのようなものとして共有した、と言った方がわかりやすいですかね。
拓の気持ちを見抜いたかのようにアンジーは答えた。
――そ、そうなのか。ありがとう。ただ、いくら引継ぎ事項だからって、お前が厭だったら、無理にしてくれなくていいんだぞ?
――大丈夫です。あなたを助けても、パンジー・ビオラ全体の利益に相反することはありませんし。
きりっとした表情に戻り、アンジーは胸を反らした。そして続けた。
――拓こそ、わたしを疑ってくれてかまわないのですよ。リッピアとキスまでしたあなたに、急にこんな話をしたんですから。
――あれは不可抗力だ!
拓は自分の顔が上気するのを感じた。
――片方の話を鵜呑みにするのもよくないですから、双方の話を聞いて冷静に、総合的に判断してください。そして、なぜリッピアがそんな行動をとるのかを考えてみてください。
アンジーは空色の目で拓の目を覗き込んだ。そして、「では」と揃えた指と肘を張り敬礼して、去っていったのだった。
リッピアはなぜ、俺にキスをしたのか?
俺を誘惑して、菖蒲院を園芸部から追い払って、誰得? いったい何があいつにとっていいっていうんだ?
考えても考えても、拓にはわからない。
首をひねっている間に、花壇に着いた。
花壇を前にした高華は、放心したようにその場に立ち尽くしていた。顔からみるみる血の気が引いていく。
彼女は手にしていたカバンを落とすと「うっ!」と口を手で押さえた。
指の隙間から黄色い液体が漏れる。
「大丈夫!?」
茜がパン袋からパンを取り出し、中の紙ナプキンにくるんで花壇の煉瓦に置いた。そして、袋を大きく開いてさっと高華の口元に差し出した。
「これに吐いちゃって! 楽になるから」
拓は自分も何かしたいと思いながら、おろおろしていた。とりあえず自分もパンを袋から出し茜のパンのそばに置き、茜の袋では足りないときに備えた。
高華は顔面蒼白のまま吐き続ける。
酸味の強い吐瀉物の臭いが辺りに漂う。だが茜は厭そうな顔もせず、袋を持ったまま、心配そうに高華を見守っている。
「申し訳ありません。もうだい……じょう……ぶ、です」
胃の中のものを吐き終えた高華は、すまなさと悔しさとが入り混じった顔で茜を見つめた。
自分で袋を捨ててくる、というのを茜が制した。
「貧血っぽい顔色だし、途中で倒れたら大変だよ。立ってるのつらかったら座ってね」
「大丈夫です」
「そう? 座ってた方がいい気もするけど。あ、気を失いそうなときは、拳を握りしめてぎゅって力を入れるといいってお父さんが言ってたから、よかったらやってみて」
茜は袋の口を縛るとごみ箱まで駆けていった。
高華はその後ろ姿に会釈した。が、バランスを崩し、ふわっと拓に倒れかかってきた。
「おい、大丈夫か」
拓は両手でその体を抱きかかえた。フローラル・フルーティなシャンプーの匂いと吐瀉物の臭いとが、同時に鼻の穴に飛び込んでくる。
高華は頷き、自分で姿勢を立て直そうとする。が、足元が酔っ払いみたいにもつれ、拓の目から見ても、ちっとも大丈夫そうでない。
拓はパン袋を地面に敷き、そこに腰を下ろすように彼女に言った。今度は彼女も従い、パン袋を座布団代わりに横座りした。
「ちょっと、めまいと頭痛で吐き気が。チューリップの、おびただしい数の『あるべき姿』がいっぺんに押し寄せてきて……悪路を走る車の中で細かい字のメールや本を読むような、乗り物酔いに似た状態になってしまって」
高華は、花壇から顔をそむけた。
「無理しないで。すごく顔色悪いし、一緒に保健室に行く?」
戻ってきた茜は、ささめき声で言いつつ、なおも高華を心配そうに見守る。
「平気です。……カレーパンなど、買うのではありませんでした。なぜ今日に限ってあんな匂いの強いものを買ってしまったのか」
目をつぶりこめかみを指で押しつつ、高華は唇を噛みしめる。その後も、花壇をちらっと見るのにトライしては、また手で口を押さえるのだった。
「食えねえなら、俺が食ってやろうか?」
拓は、吐き気や頭痛に響かぬよう、努めて穏やかな声で提案した。――客観的には、ふだんと大して変わらぬぶっきらぼうな声だったが。
「結構です。あなたにあげるくらいなら、秘書かごみ箱にくれてやります!」
ぷい、と高華は横を向く。
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