28 二度目の春が来て 28 アンジーの話 チューリップ・マニア
15.9.2 サブタイトルを「アンジーの話 チューリップ・マニア」に変更しました。
――じゃ、あたしちょっと用事があるから。
リッピアは去っていった。
恭平と薫も、次の授業の関係で拓や茜とは別の方向に向かった。
――あの。
花壇に向かう途中、拓は声をかけられた。
パンジー・ビオラの精、アンジーだった。リッピアを見たあとだと、オレンジがかった金髪でショートカット、空色・ピンク・白などの入り混じった不思議な光沢がある透明がかったシャツに、金糸の刺繍が施された鮮やかな濃い青のベストと半ズボン・革ブーツ姿のアンジーは、ずいぶんこざっぱりとして見える。
中性的な見た目や声からは、いまだに性別がわからない。男だと言われても、女だと言われてもさほど驚かないだろうな、と拓はぼんやり思った。
――リッピアには、ちょっと気をつけた方がいいかもしれない。
辺りを見回したあと、アンジーが拓に囁いた。
――同じ花の精である自分から見ても、チューリップは確かにきれいでかわいい。でも、人間にとっていいものというばかりではなかったんです。
――どういうことだ?
拓は、歩きながら心内語で答える。
――オランダがチューリップの有名な産地なのは知ってますよね?
拓が頷くとアンジーは、思慮深げな青い目でじっと彼を見据え、
――じゃ、チューリップ・マニアという言葉は、聞いたことありますか?
と訊いてきた。
――いや。
今度は、拓は頭を横に振った。
――十七世紀前半、オランダでは――当時はネーデルラントですけど――チューリップ・マニアという、チューリップについてのバブル経済とその崩壊が起こったんです。
――バブルって、二十世紀の日本で、土地の値段がやたらと高くなって、そのあと一気にがくっと下がったっつうあれか?
――ですね。でも、価格が高騰したのは土地じゃなくてチューリップの球根。拓も知っていると思いますが、チューリップは花の色も形も、模様も実にさまざま。珍しくて美しい品種の球根を、貴族から庶民まで多くの人々がこぞって求めたんです。
拓にはよく飲み込めなかった。確かにチューリップの花は、赤、白、ピンク、オレンジ、黄色、黒というかチョコレート色、と色がバラエティに富んでいる。形や模様も、丸っこいの、炎に似たの、オウムの羽みたいなの、斑入り、縞模様入り、と、形や模様も多様だ。
しかしそれだけで、バブルなんて起こるのか? 大量に品種改良すりゃいいだけの話じゃないか?
――当時は、チューリップの変種がウィルスによって生じる、なんて知られていなかったですからね。望んだとおりの、珍しく美しいチューリップができるかは、博打みたいなもの。おのずと需要に対して供給が少ない状態が続き、球根の価格は上昇する。価格が上がれば、転売して大儲けしようとする者もどんどん参入してくるというわけです。
アンジーはゆっくりと瞬きをした。
――あと、売ったり買ったりするのは球根でも、花が咲くのはずっと後、というタイムラグがあります。人々の目当ては花ですよね? だから、球根が土の中にあったりして手元になくても、年中いつでも取引ができるよう、取引は手形のような紙で行われるようになったんです。現物がなくても取引できるとなれば、取引に参加する人の数も飛躍的に増える。でも価格があまりに高くなりすぎてしまえば、誰も買えなくなって売買は行き詰まる。
アンジーは、目を伏せ、溜息をついた。
――で、1637年2月、バブルははじけ、チューリップの球根価格はものすごく下がった。チューリップを買って転売しようとしていた人々や、借金してチューリップを買ってた人々が、お金的な意味でひどい目に遭ったというわけです。
――知らなかった。でもそりゃ、チューリップがどうこうっつうよりは、人間がアホなだけなんじゃねーのか?
拓は、顔は前を向いたまま、視線だけをアンジーに送った。
――全否定はしません。チューリップについてじゃありませんが、バブル経済とその崩壊は、後年、世界のあちこちで起こっていますし。でも、リッピアがいるところでも言える話ですが彼女が言うには、チューリップ・マニアは戦略だった、そうで。
アンジーは真剣そのもののまなざしで拓を見つめた。
――戦略?
拓の中では、そのときどきの気持ちのままに行動しているようなリッピアと「戦略」という言葉とが、うまく結びつかない。
――はい。チューリップをオランダに浸透させ、その後オランダ以外のヨーロッパの国々で需要が高まったときに、オランダから供給ができるような仕組みを整えるという戦略です。
――なんでまたそんなめんどくせーことを?
――より多くの土地で、チューリップが生きていけるようにです。そのためにまず、多くの人間に「チューリップは魅力的だ」と思わせる策を講じた、と。
ふむ、と拓は腕を組み、廊下の天井を見上げた。その後すぐに腕はほどいた。
――今のリッピアが俺に菖蒲院のことをあれこれ言うのも、戦略だと? 犬を使って花壇を踏み荒らした犯人はやつだ、とか。
――わかりません。ただ、菖蒲院さんが犯人かどうかは――。
――それは言わなくていい。
拓はアンジーの言葉を遮った。
ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ご来訪に心から感謝いたします。
なお、色原理音名義のツイッターアカウントでは、ツイートと共にさまざまなチューリップの写真をアップロードしています。
今回の話と共に、そちらもお楽しみいただければ幸いです。




