26 二度目の春が来て 26 願望だよぉ
唇を重ねた感覚はない。だが拓はリッピアとキスしてしまったらしい。
体と心は別物だと言う拓に、リッピアは、《そういうの、男だけだと思う? 人間だけだと思う?》と問いかけるのだった。
リッピアの目は、とろみと強い光とを合わせ持って拓の目を射抜く。
彼女の唇にも、同じ力が宿っているようだ。
拓は動くことができなくなった。街灯の明かりに吸い寄せられて死んでいくガは、こんな感じなのだろうかと思った。
――し、知らねえよ。
それだけ言うのが精一杯だった。
――フフ、こっどもだねぇー。
リッピアはゆっくりと顎を反らし、左から、右から、拓の顔を眺めるのだった。
それから、しゃがんだままワンピースの裾を直した。丈が短い服なので、太腿が厭でも拓の目に入る。
不意に茜のことが頭に浮かんだ。
あいつも、心と体は別物なんだろうか。
拓は首を回した。身をかがめて足跡を探している、茶髪のポニーテールが見えた。
――あの茜って子や菖蒲院高華だって、あたしがしたみたいなこと、いろんな男としてるかもよぉ。
拓の心を見透かすように、リッピアは自分の唇を指でなぞる。
ふっくらした下唇のエロさと、少女が学校であったことを食卓で親に話すみたいな、明るくのんびりした声とが対照的だ。
――いや! 菖蒲院はともかく、茜は、そんなやつじゃねえ!
――なんで?
――よく知ってるからだ! 子供の頃から。
――二十四時間見てるわけじゃないでしょ? それは拓の願望だよぉ。なぁに? 自分は心と体は別物、なぁんて言っておいて、彼女には聖母マリアみたいな純潔を求めるわけぇ?
膝上で交差させた腕に顔をうずめ、リッピアは上目づかいで拓を見る。
――違う!
心内語ながら拓は怒気を込める。
ジリ、と土や砂を踏みしめる音がし、 拓は、ようやく手や足が再び自分のものになった気がした。
ただ、リッピアの言葉を否定する理由については、うまく説明できない。水やりをしすぎた土に生える白いカビのように、もやもやとしてしまう。自分が茜のことを本当によく知っているのかどうかも、自信がなくなってきた。
――自分に惚れてるから大丈夫ぅ、なぁんて安心してると、痛い目見るよぉ?
舌っ足らずな甘い声で、リッピアは追い打ちをかけてくるのだった。
――惚れてる? ……茜が?
ぼそっと言った拓の動作が止まった。
リッピアは、
――えぇー? そこからなのぉ? 拓って鈍いの? 馬鹿なのぉ?
と甘く花の蜜みたいに粘り気がある声を出しながら、物珍しげに拓の周りを回った。
「こっちの方は、足跡は残ってない。そっちはどうだ?」
拓はリッピアを無視して大きな声を出した。ふだんどおりに、と思ったけれど、自分でも動揺は隠せないと悟った。
「同じ。見つからないよ足跡」
茜のさっぱりと明るい声が聞こえてきたとき、拓はすぐに返事ができなかった。
拓は、茜の顔をまともに見ることができなかった。そのくせ視線が合ったわずかな時間に、彼女の唇を何度も盗み見ずにはいられなかった。リッピアよりはピンク色が少し薄く、上下に厚みの差があまりない。口角はたいてい上がっている。
「しっかし、また花を植えてもさぁ、万一まぁた荒らされたら、ほんとたまんねえな」
恭平が、組んだ腕に後頭部を乗せ、顔をしかめた。拓、茜、薫とともに並んで廊下を歩いているときのことだ。
「不吉なこと言うの、禁止」
薫が彼をジト目で睨む。
「いや、可能性としてはあるっしょ。そこ目ぇつぶっちゃだめだろうよ」
「可能性としては、ね。でも想像したくはないよ」
茜が困ったような顔で二人に微笑みかけている間も、拓は押し黙っていた。
とそこへ、向こうから青く長い髪の、背が高い少女が歩いてきた。背筋を伸ばし、拓たちの姿を視界にとらえたであろう後も、無表情である。
「しょ~お~ぶ~~い~~ぃ~~~んっ! あんたなぁあんたなぁあんたなぁっ!!」
恭平が、彼女を指差しながら大股で進んでいく。声には激しい抑揚がついている。
「何ですか? 下手くそな能ですか? 現代の日本語で話してください」
切れ上がった眦プラス冷ややかな視線の相乗効果で、本当に空気の温度が下がったようだ。そう拓は感じた。
「くぅぅう、ムカつく!」
恭平は、拳を握りしめ頭を左右に振った。そして続けた。
「なんの恨みがあってあんなことすんだよ! とぼけるな。花壇だよ花壇。滅茶苦茶にしやがって!」
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