殺人衝動 Ⅰ
「……神宮司?」
初めて聞く名前だった。
いや、初めても何も、どこの誰だかわからない人の名前を聞いて、聞き覚えがあるのもおかしい話であるけれど、とにかく、籠目ちゃんが平然とした面持ちで言ったその名前に思い当たる節は一切なかった。
顔見知りや友人を含めた、限られた僕の人間関係において、思い出す限りではいない。
いないということは。
思い当たらないということは。
『神宮司』という人が一体何者なのか、それを知らないということだ。
どこの誰で、どんな人なのか、『神宮司』に対する情報は露ほどないわけだ。
まぁ、しかし。
考えてみれば、ここで籠目ちゃんの口からその名前が発せられたということはつまり、籠目ちゃんと僕に関係があることなのだろう。
何かを経由して、どこかを辿って、それは僕に繋がることなのかもしれない。
勿論、八千代のように幅広い人脈があって、建設的な人間関係を築いているわけではないし、どうしたって彼女に比べれば一目瞭然に劣る僕のそれを穿った見方をすればある意味幅が広いと言えるのかもしれない。
八千代との繋がりを考えれば。
八千代が築く繋がりを考えれば。
そうすれば、僕の人間関係の広さは八千代以上とも言えるだろう。
広い人間関係と言えど、浅いことに変わりはないけれど。
しかし、一体全体どうして、籠目ちゃんの口から『神宮司』という聞いたことのない名前が発せられたのか、そしてそれ以上に疑問なことは、どうして彼女は僕と一緒に八千代の部屋の中にいるのか、一先ず『神宮司』については後回しにするとして、その辺りから問うべきだと思う。
後を追ってきた籠目ちゃんをついつい部屋に招き入れたものの、どう考えても、それは悪手だった。
そもそも、見ず知らずの人を招き入れるなんて常軌を逸している。
それに。
警戒するべきなのだ。
『神宮司』が何者なのかわからないと同様に、籠目ちゃんの正体も不明なのだ。
もしも彼女が僕を襲った犯人だとするならば、誰の助けも来ないであろう密室に二人きりはよくない。
よくない、と言うか、非常にまずい。
籠目ちゃんが僕を二度も襲った殺人未遂の犯人だとするなら、まさに今、僕は彼女に活殺自在だ。
しかし、後になって悔やんでも仕方あるまい。
後悔先に立たず、とも言う。
「神宮司、聞いたことないな――」
曖昧にそう返答しつつ、僕は籠目ちゃんと五日前に襲った『彼女』を比較していた。
繁華街の裏路地で突然現れ、そして、唐突に僕の腹部を刺した『彼女』。
恐らく、大型スーパーから出た僕の後を付けて来たであろう『籠目ちゃん』。
一致するかと言えば、難しいことだった。
声で判断できそうではあったけれど、しかし断定はできない。
そもそも、激痛の中で薄れていく意識で聞いた声だったのだ、そんな過酷な状況下で明確に物事を判断する方が困難だろう。
だから、結局、わからない。
しかし、籠目ちゃんと『彼女』の背丈はおよそ同じ、これだけは見間違いはないと思う。
見間違いがないということは、その点のみ一致すると言えるけれど、しかし、この推測は大きな欠陥がある。
欠陥であり、大きな穴――女子の背丈は大抵、どれも同じようなものだということだ。
突出さえしていなければ――極端な高低があれば、それは有力な犯人像の一つとして数えることができるけれど、籠目ちゃんも『彼女』もそうではなく、至って普通、至って平均的なのだ。
高いと言うには足りず、低いと言うには十二分だった。
唯一、籠目ちゃんと『彼女』を見分けることあるとするなら、それは。
淀みのない確固たる殺意だろう。
人を殺すために振り撒く殺意。
殺人を犯すために放つ殺意。
抑制の効かない狂った殺意。
衝動を抑制しない狂った殺意。
『彼女』にはそれらがあった。
どうしたって隠し切れないほどの、対象を本気で殺しにかかる殺意があった。
僕はその殺意を知っている。
僕は以前にも、そんな殺意を持った人間を見たことある。
そんな人間は――
アレは――
日常においても、殺意を隠すことなく狂った生活をしているはずだ。
少なくとも、見る限り、籠目ちゃんにはそんな殺意を隠しているようには見えない。
能ある鷹は爪を隠すと言うけれど、『彼女』の殺意は爪なんてものじゃない。
『彼女』は本能のままに牙を剥き出し、対象を引き裂こうとした。
まるで、弱肉強食の世界を生きる獣のように。
剥き出した本能のままに、牙で獲物を抉るように。
「あれ、キミなら知ってると思ったんだけどなぁ……うーん、やっぱ人違いなのかな?」
僕の推測を他所に、籠目ちゃんは眉をひそめた。
「籠目ちゃんはその『神宮司』って人を探しているのかい?」
「うーん……探してるって言うか」
何とも言えない、曖昧な表情だった。
眉の辺りで揃えた前髪を指先で遊びながら、籠目ちゃんは露骨につまらなそうに溜息を吐いた。
はぁ。
はぁ、と二度。
「そもそも、『神宮司』って何だ?人の名前だってことはわかったけれど、それと僕が一体どんな関係があるって言うんだ?」
「うーん、何となく?」
「ふぅん……」
「なら、籠目ちゃん、さっきこの後死ぬとか言ってたけど、それはどういう意味?」
「……うーん、何となく?」
「…………」
会話にならない……。
聞くべきことも聞けないなら、彼女の正体も明らかにならない。
それに、『彼女』かどうか、その判断もできない。
「え、いや、ちょっと、露骨に不愉快な顔しないで!わかった、話すから!」
籠目ちゃんはどうしてか慌てた素振りをした後、声調を一段低くした。
真剣な面持ちで。
鋭い眼差しで、言う。
「この後死ぬ、って言うのは冗談。うーん、違うなぁ、冗談ではないけど、『神宮司』に会って死のうと思ってたの」
「ふぅん?」
「でもいつ会えるか、どこで会えるのかもわからないんだけどね。神出鬼没だって言われてるし、むしろ、本当に存在するかどうかも疑わしいって話。架空の存在かもしれないし、実在するのかもしれない」
「その『神宮司』っていうのに遭ったら死ぬのか?」
「死ぬ、確実に。殺されるの――」
籠目ちゃんは神妙にそう言った。
そこに何か別の意味合いを含めたようだった。
「『神宮司』っていうのは、殺人鬼の名前。都市伝説のような、殺人鬼の名前。冗談のような、信じ難い絵空事のような噂話だよ」
都市伝説。
街談巷説。
籠目ちゃんは言う。
「私、『神宮司』を探しているの、ずっと」
「……ふぅん、その殺人鬼に遭ってしまったら死ぬっていうのに?」
「構わない、むしろ光栄でしょ?そんな都市伝説とも言われてる殺人鬼が本当に実在して、その上、殺してくれるんだから。私みたいなただの高校生でも、『神宮司』が狙う対象になれるんだから。成り上がることができるんだから」
「有能な殺人犯に殺された犠牲者の存在は上位になる――みたいなことか」
「そう、そんな感じ。ある意味、憧れみたいな」
「…………」
その言葉が仮に彼女の本音だとするなら、それは本当に危なっかしい。
一歩踏み外せば、いや、あと半歩でも踏み外せば――日常に戻って来れなくなりそうな、そんな気がする。
殺人鬼の犠牲者になりたい、か。
確かにそれは、籠目ちゃんの言うようにドラマティックのようだし、センセーショナルだろう。
劇的で、扇情的な――『神宮司』という都市伝説染みた存在が人の情欲を煽り立てているのだ。
まぁ、理解できる。
理解は、できる。
けれど、籠目ちゃんは知らないのだ。
殺人鬼というものが、憧憬を抱くほど有能でないことを。
殺人鬼はドラマティックでもセンセーショナルでもない、ただのエキセントリックだということを。
犯行動機は専ら単純明快、知慮浅薄だということを。
「籠目ちゃん、君はおかしいよ」
「えへへ……」
と、籠目ちゃんは目元に届かない前髪を指先で伸ばしながら小さく笑った。
「いや、褒めてないから……」
人格がおかしいと指摘されてどうして照れてるんだよ。
「まぁ、確かに籠目ちゃんの気持ちは理解できる。理解できるだけであって、共感は全くできないけどね。それに、いずれにせよ、その『神宮司』っていう殺人鬼に遭わなければ殺されることもできないって話だろ?」
「まぁ……うん」
「で、最初に戻るけど、その殺人鬼をどうして僕が知ってるって思ったんだよ」
「えっと、それは――」
籠目ちゃんは少し沈黙して、十分な間を空けた後、目の前のテーブルの上に転がるリモコンを手に取ってテレビを点けた。
幾つかのチャンネルを切り替えて、ニュース番組を見つける。
六月十一日のニュース速報。
その日付は、僕が三日間も眠り続けていたことを知らせたものだった。
そして。
今回は。
僕たちの住む街の中心部で二人の犠牲者を知らせたものだった。
人の多い繁華街で白昼堂々と行われた通り魔事件。
そして、僕の通う大学の教室で一人の教授が惨殺された殺人事件。
その二つが速報として放送されていた。
「……これは」
「ちょうど、キミがスーパーで買い物してる頃かな?」
「やっぱり、付けてたのか」
ニュースキャスターが滔々と発する言葉を一言一句聞き逃すまいと集中しながら、僕は嘆息した。
「だってさ、この殺人事件――きっかけは、キミなんだよ?」
「……は?」
「あはは、そんな顔してる」
籠目ちゃんの妙に含んだ物言いが気になったが、それより、そんなことより、すぐそこで起きた二つの殺人事件の方が気になって仕方がない。
彼女の言う通り、丁度僕がスーパーに入った頃に起きた事件のようだった。
通り魔事件に惨殺事件か……。
それは五日前に僕を襲った『彼女』を彷彿とさせるものだ。
奇跡的に九死に一生を得たけれど、あれは確かに通り魔だったように思える。
いや、明確に僕を狙った犯行だったという可能性を除外できない以上、断定こそできないが――しかしどうだろう、あの殺意から伺えたことは本能のままに殺人を犯そうというものだったのではないだろうか。
対象なんて誰でもよく、むしろ、自分以外の人間全員が対象であって、牙を向ける獲物だと言わんばかりの殺意だった。
それを考えれば、もしかすれば、同一犯なのか。
まぁ、僕がそんなことを考えるまでもなく、とうに警察機関が動いているようで、速報として細かい情報こそ入ってこないものの、そこまで心配することではないのかもしれない。
遅かれ早かれ犯人は捕まるだろう。
いや、この考えは悪いか。
次の犠牲者が出ては遅いのだ、それならば一刻も早く犯人を見つけ出す必要があるだろう。
これこそ、僕がそんな不安を感じるまでもなく、捜査に当たっている警察機関の誰もがそう思っているに違いない。
しかし、どうだ。
どうして未だに、僕を襲った犯人が捕まらない。
もうあれから三日――
僕が襲われて三日――
「僕をきっかけに殺人事件が起きたってどういう意味だよ」
ニュース速報に夢中になったあまり、会話として成り立つのか怪しいほどの間を空けた僕は訊く。
何だかいい気がしない籠目ちゃんの含みのある言葉の意味を問う。
「えっと、うーん……それは、キミが――」
キミが――と言ったところで、籠目ちゃんは「あ!」と大きな声を上げた。
甲高い張った声に思わず体が反応してしまう。
「ど、どうした――」
「帰る!帰らないと!猛ダッシュで帰らないと!そんな顔してるでしょ!?」
問うまでもなく、彼女は僕の言葉を遮りながら、そしてそんな風に忙しく叫びながらベランダへと続く大きな二重窓を開けた。
遮光カーテンを揺らす涼しい風が部屋に入ってくる。
「お、おい!ちょっ――」
ベランダの柵に手を掛け、そのまま下の階層のベランダへと飛び移り、そしてまた同じように柵に手を掛け、器用に下へと降りていった。
僕は籠目ちゃんの行動に一瞬心臓が爆ぜそうだったが、心配無用と言わんばかりの手馴れた様を見ていると、むしろ呆れて言葉を失ってしまった。
あの奇妙なスタイルのまま二十六階下の地上まで辿りつくのかと思うと、殺人事件と並んでニュース速報で報じられるのではないかと不安になった。
しかし。
何だったのだろう……。
籠目 紫――一体、何者だ。
それにしても、どうしてわざわざベランダから危険な真似をしてまで出て行ったのか不思議で仕方がない。
いくら手馴れているとは言え、強風でも吹けば女子の体などあっという間に吹き飛ばされてしまいそうだけれど。
まぁ、殺人鬼をエキセントリックと言ったのと同じくらい、彼女も変わった人間だったことは確かだ。
お似合いな行動と言えばそうかもしれないけれど、気になることは、年頃の女子高生が可愛らしいスカートを履いたままベランダを飛び降りていったことだ。
下から見上げれば、一体どんな光景になるのだろう。
それはそれで想像するだけでセンセーショナルだろうが、少なくとも彼女のことを何も知らない人から見れば、それは想像を絶するほどの恐怖だと思う。
女子高生がスカートの中を晒しながらマンションの外壁をベランダ伝いに降下する、なんてどこのアクション映画だ。
僕は籠目ちゃんの姿が小さくなって、無事に地上まで辿り着くだろうと確信したところで溜息を吐いた。
一つ、二つ。
台風のような子だったなぁ、そんな印象を抱きつつ、ベランダを出て窓を閉め、キッチンへと向かった。
八千代の帰りがいつになるかはわからないけれど、先に料理の準備でもしておこう。
何だかんだ、僕もまだ何も口にしていないわけだし。
つらつらとそんなことを考えながら、買い物袋に入った大量の栄養剤と食材を分ける作業を始めようとしたところで、部屋の鍵が音を立てて回った。
静かな音を立てて開く玄関の扉とは逆に、忙しない足音を鳴らした彼女――八千代 真伊の帰宅だった。
「あぁ、参った参った。まさか警察機関から直々に依頼が来るとは思わなかったよ。と言うか、『神宮司』の犯行だって推測が立った時点で私に委ねるか、普通。それにしたって、『神宮司』だってさ。いつ振りかな、あの兄妹の犯行は――って、少年、いたのか」
「……お、おかえり」
「ん、何だか、女の臭いがする」
「…………」
「さて、ここで質問。私の部屋の合鍵を持っている少年が一人います。では一体、どうしてテーブルの上には口紅が付着したグラスと少年がいつも使用するカップの二つが置かれているのでしょう」
「どうして、ですかね……」
八千代はさらに大きな足音を鳴らしながら勇み足で近づき、先ほどまで籠目ちゃんが口を付けていたグラスを手に取った。
「女子高生の唇だな」
「……ふぅん」
「…………」
「…………」
沈黙。
この沈黙が僕を殺そうとしていた。
「さて、再度質問。『神宮司』とは一体何でしょう」
「存在すら疑わしい、都市伝説のような殺人鬼……」
僕は籠目ちゃんからの情報をそのまま言う。
「では、その殺人鬼ですが、たった今、殺人を犯しました。そのきっかけになったのは一体何でしょう」
「…………」
八千代は僕がそこで沈黙することを知っていたかのように、ニヒルに笑った。
「君だよ、少年」
そんな風に、八千代もまた籠目ちゃんと同じことを言うのだった。
僕は彼女の言葉を理解できないまま、大量に転がる栄養剤の中から一本を飲み干した。