エンディングの場合
『神宮司』と言う名の殺人鬼が巻き起こした連続殺人事件の終幕は思った以上に呆気なく、思った以上にあっさりとしていて、そして、思った以上に尾を引くものだった。
粘着質の液体を頭から被ったような、泥沼に足を踏み入れているような感覚は消えない。
事件が収束した今となって確かに安堵しているだろう、安心しているだろう、けれど、僕はどうしてこんなにも『神宮司』に対して未練がましい気持ちを抱いているのだろうか。
断ち切ることもできず、執心してしまっているのだろうか。
事件の全貌と真相は確かに明瞭と化したというのに――きっと、僕は心のどこかで未だ納得していないのだろう。
都市伝説が人を殺すということ。
都市伝説に心酔している者がいるということ。
都市伝説が実現したこと。
犯人は未だに捕まっていない。
雪間さんに連行された少女、首吊り自殺の女性役員、甘奈と蓮ニ――彼ら彼女ら以外にも実行犯は存在するだろうというのが、僕たちの見解だった。
それもそうで、その三人が事件の犯行の全てを担っていたという可能性は低いということは言わずもがなのことだった。
六月十一日、一件目の通り魔殺人事件――被害者、樋野 瞳。
六月十二日、二件目の通り魔殺人事件――見立てられた死体の守名 三上、津乃 大城、大道 浩史。
これらに関わった犯人が未だに姿を見せないというのは、きっとそういうことなのだろう。
事件は確かに収束した。
終幕した。
終焉した。
根拠はない。
証拠もない。
終わったのか、始まったのか、
終わり続けているのか、依然として始まり続けているのか、
終わりが始まったのか、
始まりが終わったのか、
始まったから終わったのか、
終わったから始まったのか、
どこから始まってどこで終わったのか、
どこから終わってどこで始まったのか、
どこまでが都市伝説だったのか、
どこからが都市伝説だったのか、
誰が『神宮司』だったのか、誰も『神宮司』ではなかったのか、
誰もが『神宮司』で、誰かが『神宮司』ではなかったのか、
そんなこと、誰にも――わからない。
僕にも八千代にも、林檎ちゃんにも雪間さんに三間さんにも、籠目ちゃんにも甘奈にも蓮ニにも――わからない。
都市伝説級の殺人鬼――『神宮司』。
しかし確かに、彼は現実に存在して、彼女は現実を生きていた。
リアリティのないリアルを、現実味のない現実を、リアルなまでに現実と現実以上のリアルの中に存在していた。
非日常――
異常――
非現実――
仮想――
さて、僕らが生きる外れた世界は《リアル》なのか《フェイク》なのか――それすら、誰にもわからないことなのだろう。
病室を後にし、ナースステーションで同僚と思しき者と楽しそうに会話する志木式さんを尻目に、僕は病院を出た。
本格的な夏の到来はまだ先のようで、春らしい爽やかな風を感じながら、行く当てもなくそぞろ歩きで徘徊する途中、背後から声を聞いた。
「こんにちは」
八千代も雪間さんも仕事に戻ったであろう、林檎ちゃんは実家に帰るはずで、三間さんも事件の捜査を継続しているに違いない――だから、この声の主が誰なのかという疑問は、たとえ振り返ったとしても解かれるものではないだろう。
そう思った。
思って、振り向く。
「こんにちは」
彼女は再度言った。
「……こんにちは」
僕の応答に満足したのか、薄ら笑みを浮かべる彼女――およそ僕と同年代か、或いは年下かもしれない。
大人しい印象を受ける黒髪と縁のない眼鏡である。
しかし、内側に隠れた意思の固い眼差しと決意の表れでもあるかのような太めの眉がそれを相殺していた。
まるで意図的に似合わない格好をしているのではないかと思うほどに、その違和感は大きいものだった。
青のスキニーパンツにパンプス。
グレーのカーディガン。
大人びた服装もまたミスマッチを加速させているような印象である。
いや、ミスマッチというより、どこかバランスが取れていないような感じだ。
「そうだね、どうしよっか――」
彼女は言う。
艶やかな薄い唇が開く。
「――あなたは『神宮司』って知ってる?」
見れば、そこに眼鏡はない。
見れば、そこに固い眼がある。
見れば、そこに決意の眼差しがある。
見れば、そこに本物がある。
偽りでも偽者でもない、確かな本物と真実がある。
アンリアルでもフェイクでもない――正真正銘の《リアル》だった。
「じんぐうじ……?」
僕の反復に何を思ったのだろう、何を感じたのだろう。
何を言いたくて、何を知ったのだろう。
何を企み、何を計算したのだろう。
けれど、僕はそうなのだろうと確信することができた。
彼女が『そう』だと、正しく『そう』なのだと理解して認識することができた。
これ以上にないくらいに、これ以上のことはないくらいに――常識と理解の範疇を遥かに凌駕する勢いで突飛な情報が脳味噌に流れ込むようで、そのせいか視覚と聴覚が奪われたような感覚に陥った。
手が震えている。
足も震えている。
呼吸が荒い。
肺が潰れる。
心の臓を握られているような気分だ。
自分が見ている視界が――自分が認識している視界が、本当に自分が生きている世界なのかどうかわからなくなってくる。
視界も、世界も。
世界も世界も世界も、世界も――わからなくなってくる。
けれど、確かにわかっていた。
最初からこういうものだと、僕が生きている世界は初めからこういう風にできているのだと、歪んだ異物で形成されているのだと、軋みながらも歪と歪を負った歯車が蠢く世界なのだと――本当は心の底で、目を背けたくなるほどに理解していたのではないか。
認識していたのではないか。
異端と異常が、力と天才が成す世界だと、それが既知の事実だと昔から考えていたではないか。
そこに平凡が入り込む余地などどこにもなく、凡俗という言葉は存在しない。
狂った世界だ。
外れた世界だ。
外れてしまった世界だ。
関節もなければ骨格もない――泥々の血と、泥のような血みどろを啜って生きる世界だ。
世界に意味などない。
だからと言って、そんな世界に意味など求めていない。
だからこそ、僕は声出して言えよう。
それを享受するがごとく、大声で叫ぼう。
外れた世界で僕は生きている。
だからなんと言うことはない。
こんな展開もまた有りなのだろう。
予測していなかったと言えばそうだろう、予期していなかったと言えばそうだろう。
しかし、推理は所詮推理なのだ、それと同じように考えるならば、憶測の域を出ない推測も予測も予期も、所詮はそれなのだろう。
そうであるならば、僕はこうして彼女の言葉に耳を傾けることできる。
失った聴覚の中でも、微かに聞き取ることができる。
彼女は。
彼女は――
「あなたが死ぬまでこの連続殺人事件は終わりません。終わらせません――」
そう言って、奇妙に尖った犬歯を見せたのだった。
僕はこの時、初めて自分が生きているのだと知ったような気がした。
世界は外れてしまったけれど、
世界は外れてしまっているけれど、
僕も外れてしまったけれど、
僕も外れてしまっているけれど、
外れた《世界》で外れた僕は、外れたなりに外れながらも生きていこう。
そう思えた。




