殺人理由 Ⅰ
果たして、平凡で取り柄のない極々一般的な大学生が、都市伝説とまで称された殺人鬼を相手に対抗することができのかどうか――それ以上に、この場から逃げ出すことすら不可能なのではないだろうか、しかし、脳はそんなことを思考するよりも早く、体が神宮司 甘奈に向かっていた。
体だけが動き出していた。
冷静さを失って。
平常心を失って。
はっきり言って、それは無謀以外の何でもないことだったろう。
出刃包丁とスタンガンを持った相手に対して、丸腰で立ち向かうなど知慮浅薄な行動に違いない――実際、このときの僕は知慮に欠けていたし、頭に血が上り、顔面が真っ赤になっていたのだろう。
けれど、どうしてか不思議と『負ける』気がしなかった。
この場合の勝ち負けとはつまり、殺るか殺られるかなので、正しくは『殺られる』気がしなかった。
そして、もっと正しく言えば、『勝てる』気も薄々と感じていた。
冷静に思考できないせいで、そんな思い上がりも甚だしい妄想を描いてしまったのかもしれないが、少なくとも、無力化くらいできるだろうと考えていた。
いくら殺人鬼とは言っても、相手は女の子で、
いくら武装していると言っても、相手は細腕で、
小さな体躯で、矮躯に過ぎないのだから。
しかし、甘奈に立ち向かう行為と意思が正しくなく、概ね間違いであった理由はそれだけではなかった――僕は肝心の、事件の真相についての情報を得ていない。
何も訊き出さず、何も知らされず、何も得ず、あまつさえ余計な気掛かりと不安を募らせることになってしまったのにも係わらず、それを投げ捨ててまで特攻しようというのだ。
間違い以外の何でもない、正しいはずがない。
けれど、それでも。
それでも、僕の煮えたぎった血が脈々とこめかみを打つ。
それは決して静まることがなかった。
「本当に君が今回の連続殺人犯じゃなかったとしても――関与を否定したとしても、森巻 友香を――籠目ちゃんを殺した罪は消えないんだよ!」
僕は神宮司 甘奈に向かって飛び出していた。
飛びかかっていた。
歯軋りが鳴るほどに食いしばり、手のひらを広げて飛び出した。
狙うのは――首、首根っこ。
「君が過去にどれだけの殺人を犯してきたかは知らない、けれど、少なくとも今、目の前で、籠目ちゃんを殺した!」
あぁ……。
きっと、今の僕は目も当てられないほどの、正義のヒーロー振りをした少年に見えるだろう。
それはきっと、やはりきっと、とてつもなく滑稽で哀れかもしれない。
不似合いで釣り合いが取れていない、それこそ思い上がりも甚だしい姿になってしまっているに違いない。
熱血馬鹿を演じるなんて、僕には到底できないはずだったのに。
悪者を退治する正義のヒーローなんて、僕なんかには恐れ多いというのに。
どうして僕はこんなにも怒り心頭なのだろうか。
どうして僕はこんなにも冷静じゃないのだろうか。
籠目ちゃんが殺されたから?
籠目ちゃんを失ったから?
森巻 友香が殺されたから?
森巻 友香を失ったから?
得体の知れない『神宮司』が怖いから?
連続殺人事件を操っていたとしても過言でないから?
怒り?
恨み?
憤り?
妬み?
それは――何に対する感情だ?
「……ひひひっ」
甘奈は不気味に笑った。
不適に微笑んだ。
薄ら笑みを浮かべた。
そして、僕の手のひらは彼女の首を捕らえた。
躱すこともなく、避けることもなく、ましてや握った包丁を突き立てることもスタンガンを宛がうわけでもなく、彼女は――神宮司 甘奈は抵抗せず、両腕をぶらりと下ろした状態を保ったまま、僕の攻撃を受け入れたのだった。
全身全霊を賭した攻撃を何の風もなく、あっさりと許容するのだった。
それはまるで、死ぬ運命を甘受するかのような様だった。
いや、考え方によっては、それはただ余裕を見せているだけなのかもしれない――両手が塞がった無防備な僕に対して、いつでも包丁を突き刺すことができるのだと、活殺自在なのだと、そう暗に示しているのかもしれない。
しかし。
けれど。
甘奈はそんな素振りを一向に見せなかった。
おろか、不適に微笑むだけで、首から下が不随しているのではないかと疑ってしまうくらい、ぴくりとも反応を示さない。
僕の腕力に体を委ねているようだった。
両の手で回した首にも力が込められている気配がない――このままだと本当に、圧殺できそうなほどに無力で無抵抗。
僕は自然と力を緩めた。
緩めざるを得なかった。
過って殺してしまう可能性を恐れたというわけではなく、予期せぬ対応に混乱してしまった。
何より、彼女の四肢体が放つ不気味さと奇妙さが全身の筋肉を弛緩させた。
「あれぇ……」
甘奈は僕の手が緩んだことを察知して言う。
「――殺さないんですかぁ、お兄さん。殺したいくらいに憎いんじゃないですかぁ?信徒が敬い、崇める『神宮司』ですよぉ?言うなれば、今回の連続殺人事件の、本当の、真の、深層の真相の黒幕である『神宮司』ですよぉ?」
僕はその言葉に余計にわからなくなる。
余計に混乱する。
活殺自在の権を得た甘奈がどうして無抵抗なのか、そして、その上で挑発するのか――その矛盾は眉をしかめるのに十分であった。
「憎い……のか、僕は?」
「甘奈ちゃんを殺そうとしてるってことは、そうなんじゃなぁい?」
「僕は人を殺そうとは思わない。こうしてるのも君を気絶させれば事が収まると思ってるからだよ」
「間違って殺してしまうかもしれないのにぃ?そうなればお兄さんは立派な殺人鬼になっちゃうのにぃ?」
僕は沈黙した。
彼女の言う通り、僕が作り出した状況とは言え、これにもまた大きな矛盾が存在していた。
僕は殺人なんてしない、けれど、甘奈の首を掴んでいる――気絶と死の境界線を知らない僕が、こうして今、彼女の首を掴んでいる。
力を込めれば、それこそ本当に殺してしまえるほどに。
「どうして君は抵抗しないんだ……」
「だってぇ、殺人鬼に殺されるなんて、すっごく光栄なことじゃないですかぁ……光栄?ううん、違う違う、何て言えばいいのかぁ、生まれ変わった気分になるというかぁ、存在が昇華するみたいなぁ――」
籠目ちゃんと同じことを言う甘奈。
『神宮司』という呪われた名前に呪われ、画くべき一線を超越した感情を抱いてしまった彼女と同じことを言う甘奈。
妹――神宮司 甘奈の妹――籠目 紫。
「そりゃまぁ、甘奈ちゃんこう見えてお姉ちゃんですしぃ……あぁ、もういっか言っちゃっても、うひひひひっ」
「籠目ちゃんは『神宮司』に憧れていたんだよね、でも彼女自身が『神宮司』と血縁関係にあったってことだよね」
甘奈は引き攣った薄ら笑みを浮かべる。
それは暗闇によく映える悪魔の微笑みだった。
「――でぇ、お兄さん、殺すなら早くしてくださいよぉ。甘奈ちゃん、我慢が利く方じゃないんだよぉ。今にもお兄さんの横腹を刺したいくらいなのにぃ……」
本人は甘えた声を出しているつもりなのだろうが、残念ながら頭を撫でてやる気には露ほどもなれなかった。
「わからないな、何で我慢する必要があるんだよ、殺人鬼。君は類稀なる、存在も曖昧な都市伝説級の殺人鬼なんだろ。僕を殺すなんて簡単で造作もないことじゃないか。躊躇う理由もわからないな、実際、君は僕を殺しかけたんだ」
「…………?」
甘奈は上げた口角を元に戻し、首を傾げた。
それにより、添えられているだけの両手もつられて傾く。
「ひひひっ、甘奈ちゃんちょっとわからないですぅ」
目が点である。
いや、驚いているようではあるが呆れている様子はないので、正確な表現とは言えないかもしれないが。
「初めてっていうのは、案外思った以上にあっさりしてるものなんですよぉ。人を殺した感触なんて、二回目には忘れてるしぃ、三回目になっちゃえばコツ掴んで余計にあっさりしてるですよぉ。誰でも何でも、初めては怖いものなんだよねぇ。だってそれが本当に『怖いもの』かどうかわからないんですからぁ。でもねぇ、甘奈ちゃんは思うわけです。『怖いもの』って人を殺すことでも、人殺しでもなくって、自分なんだなぁって」
「自分が怖い……?」
「殺人衝動に駆られる自分、殺人を平気で行う自分、人を傷つける自分、傷つけたい自分、殺人鬼に殺されたい自分、殺されることを喜びに変換してる自分、傷つけられたい自分、傷つきたい自分――甘奈ちゃんは、自分が――」
怖い。
「自分の変化が怖いですよぉ。甘奈ちゃんは元々こんなだったですかぁ?生まれた時からこうだったですかぁ?そんなこと誰にもわからないよねぇ、誰にもわからないし、自分もわからない――だから、何もわからない自分と自分をわからない自分が怖いですぅ……」
自意識。
無意識。
自意識の中の無意識。
無意識の中の自意識――
それは取り繕った自分なのか、化けの皮を被った自分なのか、猫を被った自分なのか、仮面を被った自分なのか、或いは自分を隠した自分なのか、自分を晒した自分なのか、本音の自分か建前の自分か、妄想の自分なのか、空想の自分なのか、現実の自分か逃避する自分か、他人が見る自分なのか、自分が見る自分なのか、変わってしまった自分なのか代わってしまった自分なのか替わってしまった自分なのか換わってしまった自分なのか、過去の自分か現在の自分か、思い出の自分なのか回想した自分なのか、夢の自分なのか、夢のような自分なのか、誰かを真似た自分なのか、模した自分なのか、完成された自分か未完成の自分か――始まっているのか、終わってしまっているのか、現実なのか空想なのか、リアルなのかアンリアルなのか、リアルなのかフェイクなのか――
本物か偽物か。
外れているのか。
嵌っているのか。
世界が外れているのか。
自分が外れているのか。
世界に嵌っているのか。
自分は嵌っているのか。
『甘奈ちゃんじゃなくて、狂っているのは世界の方――』か。
そうだ、そうじゃないか。
僕たちが生きる世界は、僕たちが嵌った世界は――こんなにも外れている。
「ねぇ、ねぇ、ねぇお兄さん――」
甘奈は出刃包丁を握ったままだった左手を器用に薬指と小指で挟み、空になった三本の指で僕の腕を払った。
そこに乱暴さは皆無で、ゆっくりとした動作で行われた。
僕はそれにより両手を首から離した。
元々僕が取った行為は浅はかなものだったのだ、殺す度胸がない僕にとって首を掴むことには何の意味もない。
だから、離す。
手放す。
そして、甘奈は右手に持ったスタンガンを並べられた机の上に置き、空いた右手で僕の手首を掴んだ。
掴んで、手のひらを上に向ける。
まるで手相占いでもしているような図だが、そうではなく――甘奈は片方で握った包丁を僕の手のひらに乗せ、柄を握らせるように手を丸めたのだった。
それはつまり、凶器を僕に手渡したことを意味した。
活殺自在の権を、生殺与奪の権を譲渡した意味であった。
自然、僕は混乱する。
その行動の意味を理解することができなかった。
甘奈の意図を読み取るなど不可能で、判然としなかった。
「……ど、どういう――」
「甘奈ちゃん、やっと見つけましたよぉ。やっとやっと見つけましたよぉ。これも今までの行為が報われたと言えますねぇ……あぁいや、報われたのは甘奈ちゃんに殺された人の方かもしれないけどぉ」
甘奈は続ける。
「お兄さんさぁ、おかしいって言われたりしませんかぁ?言われますよねぇ?」
「おかしい……僕が?」
「前から思ってたんですけど、どうしてお兄さんは甘奈ちゃんを見て、そんなに平然としてるですか?襲った張本人を前にして、どうしてそんなに冷静してるですか?どうして甘奈ちゃんの話を聞いて喜んでるですか?どうして甘奈ちゃんの首を無表情に絞められるですか?どうして――」
どうして――
「どうしてお兄さんは、紫ちゃんが死んだ時、嬉しそうに白い歯を見せてたですかぁ?」
僕は……。
僕はそんな顔をしていただろうか。
いや、ありえない。
ありえないありえない――確かに甘奈を前にしても比較的冷静ではあったけれど、しかし、それは事件の真相を突き止める必要があったわけで、内心はすぐにでも逃げ出したかったのだ。
しかし、逃げる余地などなく、逃げる猶予もなく、逃げる勇気もなかった。
逃げても殺されてると思った。
逃げても逃げなくても同じだと思った。
「普通はさぁ、何も考えずに、なりふり構わず逃げると思うですけどねぇ……自分が殺されるかもしれないってのに、どうしてそんなに冷静ですかねぇ……」
「……僕は、籠目ちゃんが死んだ時、笑っていたのか?」
「です、はい、ですよ。それにおかしいと思ってたですよ、前々から。どうして好き好んで自ら殺人事件に首を突っ込むのか、甘奈ちゃんにはそれがわかりませんねぇ。実際、殺されそうになっているのに――あぁ、確かお隣のお姉さんが友人だったですねぇ、それでも死体への『慣れ』といい、『好奇心』といい、お兄さん、おかしいですよぉ?」
「君よりかはマシだと思うけど」
「人を殺したくない――それはお兄さんの本音だろうけどぉ、けど、人が死ぬのは平気なんでしょぉ?人が殺されるのは平気なんでしょぉ?自分に殺意を向けられることはともかく、他人が他人に向ける殺意は平気なんでしょぉ?」
死体への慣れ。
死への慣れ。
誰もが甘受しなければならない死を、誰だって常日頃から側に置いていることを、ずっと昔から自覚してきた。
人が人に向ける殺意を認識してきた。
僕はいつからか他人の死体を、自分の世界のものとは異なるものと隔離してきた。
こうして厄介ごとに首を突っ込む理由も、殺人事件という一線を画した領域に自ら足を踏み入れる理由も、己の意思で殺人犯であろう籠目ちゃんを呼び出した理由も――何も全て、八千代が隣にいるから、という理由だけではない。
僕は――
僕はいつからこんなだった?
『自分が怖い――』、確かにそれはわからなくもない話だった。
「だからねぇ」
甘奈は掴んでいた僕の右手首を引っ張る。
それは自然と、握られた包丁の切っ先を彼女の腹部に向けることになった。
「甘奈ちゃんは思うわけです」
甘奈は力を込める。
右手に――僕の右手首に。
「お兄さん、本当はただの大学生じゃなくて、『神宮司』じゃないんですかぁ?」
だったら、殺して下さい――と、甘奈は屈託のない笑顔をこちらに向けたのだった。
力が入る。
僕のではなく、甘奈の。
そして。
ぐっ、と。
ぐいっ、と。
瞬間、教室内に怒声が響いた。




