殺傷理由 Ⅱ
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「……う、うああぁぁぁぁああああああああっ!」
その怒声のような、悲鳴のような哭声が聞こえてから次の行動に移るまではほんの一瞬だった。
いや、僅かにタイムラグはあったものの、籠目ちゃんが奇声を上げたときにはすでに右手にナイフを握り締めていた。
アーミーナイフ。
軍用ナイフ。
無骨ながらも実戦に特化した、殺傷を目的とした刃だ。
手に馴染む柄から伸びた、およそ手のひらと同じくらいの長さを持つ刃が鈍く光る。
窓から差す微かな月明かりを反射して、一瞬、その輝きに目を奪われた。
奪われて。
見入った。
制止する余地などどこにもなく、気付けば籠目ちゃんはすでに行動に移していた。
握り締めたナイフを手に、けらけらと笑う神宮司 蓮二に向かって飛び込んだ。
「――か、籠目ちゃん!」
時すでに遅し。
籠目ちゃんはその制止を振り切るまでもなく、僕の声を黙殺する。
ぶすり。
ぐさり。
ずさり――
そんな効果音が果たして聞こえたかどうか、僕にはわからなかった。
けれど、間違いなくナイフが体の中心を抉ったのだと確信することができた。
脆弱な矮躯の薄い皮膚を裂き、弛緩した筋肉を貫き、間違いなく刃が臓器まで到達して破壊したのだと、刹那の出来事に理解が及んだ。
まるで、スロー映像を再生したかのようだった。
ほんの数秒の動画を数十分間に引き伸ばしたかのようだった。
一秒を数十フレームに分割したかのような錯覚。
刹那が一瞬で、一瞬が永遠のようだった。
ナイフが体を抉り、刃が人体の急所に達し、致命傷を与えた瞬間――僕はその後の展開を予知していた。
永遠の時間の中で、僕はそれを予見していた――
永遠にすら感じた一瞬を終え、再び動き出した時計。
地に伏したのは、籠目ちゃんだった。
対峙した神宮司 蓮二の足元に向かって、ずるりと力なく顔面から落ちた。
先に膝を地に着き、空いた左手で腹部を押さえながら、顔面を床に伏したのだった。
表情は見えない。
顔色も見えない。
目に映るのは、うつ伏せになった小さな体躯だけだった。
「うひひっ、まさか甘奈ちゃんが襲われるとは思ってなかったですぅ、はい。蓮二くんがいきなり引っ込んじゃうから、そしたら、どうしてか、意識が入れ替わった瞬間に殺されそうになるなんて――あれ、もしかして蓮二くんは死にたかったのかなぁ……」
彼女の表情が一変した。
陽気な様子が伺えた先とは異なる、見てるこちらが憂鬱にさせられる顔色だった。
「あぁ、そっかそっか……ここで殺しちゃうと、蓮二くんの主義に反することになるんですよねぇ。そうかぁ、そうだよぉ、相変わらず芸術性を求めるんだからぁ……」
確認しなくともわかる。
彼女は、神宮司 蓮ニの妹――『神宮司』のもう一人の人格、甘奈だ。
「あれ、あれ?そんなところで座り込んでていいのぉ?ほらほら、早く駆け寄ってあげないと、彼女、もう死にますよぉ?」
「…………っ!」
僕は固まった腰を上げ、覚束ない両脚に喝を注入して籠目ちゃんに駆け寄る。
床に飛び散った粘着性のある液体に構わず、最短距離で真っ直ぐに、最速で駆け寄る。
生暖かい液体を再び両の手に感じながら、僕は籠目ちゃんをうつ伏せから起こし、仰向けにした。
両腕に圧し掛かる体重を感じながら。
血液を失ったそれは非常に軽く、まるで赤子を抱いているかのようだった。
血まみれの側頭部。
真っ赤な頬。
鮮血が迸る腹部――押さえる左手。
冷たい右手。
微かな呼吸。
僅かな心拍音。
脈拍。
辛うじて保たれた意識。
目は開いている――けれど、そこに意思はない。
意識はあっても、意思のない生命を感じさせない虚ろな瞳。
暗闇に紛れるほど深く、黒く濁った瞳。
蒼白な素肌。
絵の具を塗ったような唇――青紫色の唇。
血色を失った唇が僅かに動いている。
何か――
何かを語っている。
何かを伝えようとしている。
「……あ、は、何、その顔…………」
息も絶え絶えで、籠目ちゃんの言葉には血が混ざっていた。
「どうして、泣きそうな顔、してるの……」
「君は――籠目ちゃん、君は『神宮司』に憧れた女子高生だったんじゃなかったのか……?どうしてこんなことを……」
「どうして、って……前に言ったでしょ。『神宮司』のあり方を、肯定してるわけじゃないって――それに、籠目ちゃんの、友達を殺した『神宮司』を、許せるわけがない……」
籠目ちゃんの友達を殺した――『神宮司』?
友達というのは森巻 友香のことか?
「……籠目ちゃん、それはどういう――」
「最後に……特別、大ヒント……」
籠目ちゃんは僕の質問を遮って、力なく言った。
そして、最後の力を振り絞って、力強く両腕を僕の首に回す。
体勢を起こし、血を混ぜた唸りを上げながら、耳元で囁く。
「ごめんね……今まで嘘ついてて。それから、この間のことも、ごめんなさ――」
籠目ちゃんは。
最後まで言葉を言い切らずに、両腕を落とした。
まるでぴんと張った糸を切った瞬間のように、筋肉が弛緩したのだと認識させるには十分だった。
彼女の糸も、意図も、僕の腕の中で絶えたのだった。
僕は籠目ちゃんの自制力を失った体をそっと床に置き、立ち上がる。
それは自然と――
『神宮司』に相対し、対峙する図であった。
『神宮司』は。
神宮司 甘奈は――
頬が裂けるほどに大きく開いた口から息を吸い込み、そして――
「うひひひひひひひひひひひうひひひひひひひひひひっひっひっうっうっひひひひっひっうひひっうひひっうひひひひひひひひっうひうひうひうひっひひひっうひひひうひひうひうひっうひひひひひひうひひひひうひひうひひうひひひひひひひひひひうひひひっひひひっうひひひひひっうひひひひひひひひひひっうひひっうひひひひひひひっ!」
爬虫類のように長い舌で血色の悪い唇を舐めまわし、言う。
「ほんとに、どうしようもない子だなぁ、甘奈ちゃんの妹はァ。ひひひっ」
事件の真相を突き詰めたと、甚だしい勘違をしていたことを思い知った。