の場合
何も見て見ぬ振りをしていたわけではない。
聞いて聞かぬ振りをしていたわけでもない。
何一つ疑問がなかったわけではない。
不安の一つすら払拭できていたわけでもない。
『それ』に疑問を抱く余地すらなくなるほどに僕は安心していたのだ。
けれど、僅かの疑問も抱かなかったというわけではなく、むしろその点に関して言えば疑問だらけだった。
矛盾しているかもしれないが、そうである。
一つだけ言い訳が許されるのであるならば、目の前で殺人事件がこんなにも連続したせいだ。
有り得ないほどに連続したせいだ。
有り得ない連続殺人鬼がいたせいだ。
六月八日に襲われ。
目覚めた六月十一日にも襲われ、その日に二つの殺人事件が同時に発生し。
次は会社ビル内殺人事件。
次は教室内殺人事件。
その日にまた襲われ。
目覚めて聞かされた二つの殺人事件。
そして、目の前で息絶えた女子高生殺人事件。
こうして並列してみれば、確かにその連続性が持つ違和感と奇怪を感じ取れよう。
言うまでもない異常性を実感できよう。
身に染みて、理解できよう。
けれど、僕はこれまでの間、何一つとして関与していなかったことがある。
勿論、さらに言い訳を続けるのなら、自分の体が一つである以上、複数の事件に同時に関わることができないわけなのだが――つまり、『それ』と言うのも、『連続通り魔殺人事件』のことである。
八千代や雪間さん、三間さんに任せきりで、その事件の詳しい情報すらも知らないのだ。
どんな現場だったのか、どれほど凄惨な死体だったのか、何も知らない。
唯一、奇妙だと聞かされた通り魔事件の内の一つ――六月十二日会社ビル内殺人事件と同時刻に発生した通り魔事件では、死体が明らかにそれではないという情報を八千代から聞いた。
それくらいで、それだけしか知らないのである。
僕は『神宮司』を追っていた。
八千代も雪間さんも『神宮司』を追っていた。
しかし、いつからだろう、僕たちは『神宮司』が兄妹で構成される関係だということを失念していたのではないだろうか。
目の前の事件を解決するに躍起になっていたせいもあろう、そのせいで忘却していたのかもしれない。
いや、それは違う。
忘れていたわけではないのだ、僕たちは初めから『神宮司兄妹』の犯行だろうと疑っていたではないか。
六月十一日に発生した大学内教授殺人事件と通り魔事件が彼らの犯行だと予想していたじゃないか。
そもそも、連続殺人事件の皮切りになったと言ってもいい六月八日の未遂事件が未だに好転しないのも、それが『神宮司』の犯行によるものだと暗に示しているからだろう。
確証や証拠などないけれど、それはそれだけで、『神宮司』の存在を知ってしまった今の僕ならば受け入れることができる。
だから。
だからこうして、目の前にいる『彼女』を『そう』だと認識することができる。
『神宮司 蓮ニ』籠目 紫ではなく――彼女が『神宮司 甘奈』なのだと。
「ダメですよぉ、お兄さん。他の人に殺されちゃ嫌ですよぉ、ふひひひっ」
ふらふらと体を左右に揺らす彼女。
片手に輝く出刃包丁。
片手に黒いケース状の物。
「殺し損ねちゃったんだからねぇ、だから、だから、甘奈ちゃんが殺すですよぉ。甘奈ちゃんは人がいっぱい死ぬの見たくないですぅ、うひひひ。あ、今のはウソなんですけどねぇ……」
「………………」
僕は動揺していた。
その上、混乱していた。
「……あれ、何も喋らないんですねぇ。知らない人についていくのはダメですけどぉ、喋るくらいならいいんですよぉ?ひひひっ」
躊躇なく籠目ちゃんを背後から刺したことに動揺したわけではない。
気配なく、音もなく暗闇から姿を現したことに混乱したわけでもない。
「そんなに、見つめないでよぉ、下さいよぉ。甘奈ちゃん、惚れちゃうじゃないですかぁ、きひひひ。惚れるのはこの場合、お兄さんですけどぉ」
僕は一瞬にして理解したのだ。
彼女は――こいつは、およそ人間の言葉で会話できないほどの化け物だと。
類稀な殺人鬼の、狂った人格と歪んだ歯車で動く思考を持つ『神宮司』なのだと。
本物の殺意を振り撒く、都市伝説級の殺人鬼『神宮司 甘奈』だと。
そうだ、そうなのだ。
この声は確かに聞き覚えがある、六月八日に襲われたあの時、薄れる意識の中で聞いたそれと同じものだ。
その奇妙で不愉快な笑い声も確かに聞いたのだ。
そして何より、彼女の格好がそれを裏付けていた――右手にスタンガン、左手に出刃包丁を持つ姿はあの時とまるで同じだ。
繁華街の路地裏で何の前触れもなく、躊躇いもなく刃を突き刺した彼女こそが、こいつこそが――神宮司 甘奈なのだ。
神宮司 蓮ニを兄として、彼の妹である彼女――神宮司 甘奈。
いや、待てよ。
妹が兄を刺した?
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
何の躊躇いもなく刺した?
それは、おかしいだろ。
「……神宮司兄妹、都市伝説級の殺人鬼――じゃないのか?兄を簡単に殺して、いいのか?」
会話ができる相手ではないと思いながら、しかし、訊かずにいられず、僕は恐る恐る言う。
暫く振りに声を出して、口腔内の粘膜が乾燥しているのに気づいたが、まるで金属を舐めている気分である。
「へへへっ、へへ……へっへっへ、へ?」
「…………」
にやり、と笑みを浮かべた後、目が点になる彼女。
「一連の連続殺人事件も全部お前たちの仕業なんだろう……?」
「へへへっ、へへ……へっへっへ、へ?」
「籠目ちゃんは――神宮司 蓮ニじゃないのか?」
籠目ちゃんは相変わらず動く気配はなかった。
安らかな顔で目を閉じ、体重を僕に預けている。
背中を包丁で刺されて即死するにはよほどの急所でない限り有り得ないはずだろうが、しかし、籠目ちゃんはそれでも生きている気配はなかった。
蘇生活動をすれば今からでも遅くはないだろう、救急車でも呼べば助かるかもしれない――が、その猶予はどうやら与えてくれそうにない。
甘奈は。
神宮司 甘奈はぶつぶつと難解な言語を呟いて一歩を前に踏み出した。
さらに一歩と。
もう一歩と。
籠目ちゃんが先ほど見せたように、僕に向かってにじり寄る。
そして、鼻頭が触れるほどにまで顔面を近づけた彼女は歪過ぎるほどに歪んだ表情を見せたのだった。
そこで僕は彼女の顔を初めて視認する。
左右非対称の異常な視点、乾燥して浮き出た唇皮、荒んだ肌、頬の切り傷――血の吐息。
それはまるで、僕が今まで見たことがある死体のような有様だった。
惨死体が生きて動いているようだった。
「こ、この人が蓮ニくん、なわけないでしょう、きひひひっひゃひゃっ」
「……蓮ニじゃない?」
「だって、蓮ニくんは、ここにいるんですからぁ」
と、彼女は顔を離し、人差し指で眉間を指した。
恐らく、僕の怪訝な顔つきは今まで以上に、より一層険しくなったことだろう。
都市伝説級の殺人鬼と称されるほどなのだから、化け物染みた人間だとは思っていたけれど、まさかここまで会話が通じない相手だとは思ってもいなかった。
会話がどうこうではない、僕とこいつはまるで違う言語を使用しているようだった。
他国出身者同士がそれぞれの母国語で会話しているような印象を受けた。
けれど、僕も彼女も使用している言語は間違いなく日本語だということが、尚更、その違和感を増幅させている。
正鵠を射た表現で言うなら、それは言葉を覚えたての子供と会話しているようだ。
意思疎通が難しいどころではない、相手が何を考えているのか、何を思って言葉にしているのかが全く見えてこない。
「……ここ?」
僕は言葉を反復する。
聞きなれない母国語を反復する。
「こ、こ」
彼女も反復する。
自分なりの言語で反復する。
「ぎゃはははっ、久しぶり!お兄さん!神宮司 蓮ニという死神です!なんちって!ぎゃはははっははっ!」
「…………………っ!?」
その声は聞いたことがあった。
いや、正確に言うなら、聞いたことがあるような声だった。
公園で雪間さんに一蹴された彼女の声でもない、ましてや籠目ちゃんのものでもない――それは、病室で目覚めたばかりの僕を馬乗りになって襲った――
「…………神宮司 蓮ニ――」
「そうです、俺様が噂名高い、都市伝説級の殺人鬼、神宮司 蓮ニです!お兄さんとは一週間振りくらいかぁ?いや、それよりもうちっと経つか。あの時は可愛らしい少女に邪魔されたっけか、ぎゃははは!俺様ってば決定力に欠けるぜぇ!」
「…………」
「んだよ、全っ然わかってねーって顔してんな。つまらねー、つまらねー」
「解離性同一性障害……?」
「いんや、俺様たちの場合は多重人格障害だぜ、ぎゃははっ!笑えるだろ!あくまで本体は妹だがよ。それにしても、『神宮司』がまさか一人だったなんてー!って顔してんぞ、お兄さん」
ちょっと待て。
落ち着け。
落ち着いて考えてみろ。
動揺しているのは自分でもわかっている、自覚している。
そんなこと百も承知だ。
その中で、混乱する頭脳に発破でもかけて回転させてみろ。
それはありえない。
『神宮司』が一人だったなんて、そんなことがありえるはずがない。
そもそも、同時刻に二つの事件が連続したからこそ『神宮司兄妹』二人の犯行だと思われていたのだ。
それが一人によるものだったなんて、物理的に不可能なはずなのだ。
時間的にも場所的にも、およそ一人で成し遂げることは不可能だ。
それなのに。
それなのに、『神宮司』が本当は一人だった?
『神宮司兄妹』は多重人格障害を持つ甘奈が生み出したもう一人の内なる人格だった?
そんなことが――
そんなことがあって――
「お兄さんは何もわかってねぇ、わかってねーよ。だからつまらねぇ。甘奈から生き残った唯一の人間だったってのによ。ちょっとは期待しちまった俺様が馬鹿みてー」
「…………」
「お兄さんも、そのお仲間の綺麗なお姉さんも、金髪の姉ちゃんも、犬以下のおっさん達も、何にもわかってねぇ。この連続殺人の裏で動いていた意図が何なのか、さっぱり理解してねぇ」
僕は沈黙せざるを得なかった。
状況が、状態が、思考が、心理が、精神が、何もかもが停止していた。
自覚できるほどに、僕は考えることを放棄していた。
「言っとくがよ、俺様と甘奈は殺人事件なんざ、何一つ起こしてねーんだよ」
その言葉は僕の脳味噌を熱く焦がした。