の場合
一歩を踏み出す。
「かははっ、この辺でもう終わりにしていいか――」
また一歩。
「籠目ちゃんの正体も知られちゃったし、生かしてはおけねーよなぁ――」
さらに一歩。
「最後のヒントももう出したことだしよ――」
一歩ずつ。
「きひっ、きひひひっ、結局さ、キミもお姉さんたちも、警察も最後まで気付かなかったんだよなぁ――」
にじり寄る。
「この連続殺人事件がどうしてこれほどにまで混沌としているのか、そんなこと誰にもわからねーって――」
だから。
だから――
十五人目が死んで、終わりなんだぜ――
その声の持ち主が籠目ちゃんのものだと認識することはできなかった。
天衣無縫である彼女から発せられるべきではない声音だった。
何もかもが狂った、狂乱と狂気を滲ませる、人を圧倒するためだけに吐かれる黒い声――それが、それこそが籠目ちゃんの表の顔。
いや、裏の顔と言うべきなのかもしれないが。
「ちょ、ちょっと待った!」
左右に鈍く光る刃先を構えた籠目ちゃんはその声に足を止めた。
僕としてはまさに生死の境の静止であり、それを思うと、籠目ちゃんはよく制止の声を聞き届けてくれたと言える。
「んだよ、命乞いかよ……」
「最後に質問させて欲しいんだ。それくらい構わないだろう?」
籠目ちゃんは床に唾を吐くような表情をして呆れた。
肩を竦めて、唇を尖らせる。
「籠目 紫としてではなく、『神宮司 蓮ニ』として訊きたいんだけど……」
「何だよ、さっさと言え」
「――一連の通り魔事件は、君の妹でもある『神宮司 甘奈』の仕業なのか?」
その言葉に。
籠目ちゃんは沈黙した。
答えるべきでないと思ったのかもしれない、教えるべきではないと思ったのかもしれない、けれど、彼女の様子を見る限りそうではなく――答えることができない、そんな印象を受けた。
どちらも同じような意味かもしれないが、僕にはそれが埋まらない差異を感じさせたのだった。
圧倒的に異なるニュアンスを秘めた様子を感じ取ることができたのだった。
ぴたりと動きが停止して、歪んだ瞳で視線を送る籠目ちゃん。
瞬きもせず、呼吸すら止まっているのかもしれない。
どれほど沈黙が続いただろう。
僕も僕で、まさか籠目ちゃんが目を点にして沈黙するとは思っていなかったので、それを自ら破ることはできなかった。
そこで、籠目ちゃんはようやく口を割る。
通り魔事件は――
通り魔事件はね――
通り魔事件は、実はね――
通り魔事件の――
通り魔事件の犯――
通り魔事件の犯人――
通り魔事件の真――は――
「通り魔事件の犯人は、キミも会ったことがあるでしょ――」
その声は。
籠目ちゃんの声は。
『神宮司 蓮ニ』のものではない――普通の女子高生の、平凡な女子の、ありふれた若者の、凡俗と言ってもいい若年世代の声だった。
学校の在り方を否定し、授業を小馬鹿にし、恋に泣き、愛に笑い、友人関係を曖昧にし、或いは明確にし、親を貶し、時には親に助けられ、たまには親に感謝し、テレビやマンガの中の男性に憧れ、行き過ぎて腐り、大人への階段を逸早く上り、化粧を学び、恋愛感を修正しつつ失敗を繰り返して、僅かな成功にすら歓喜でき、時にはどん底にまで突き落とされ、我が儘な自分を呪い、嫉妬深い己を厭い、それでも泣いて笑い、リスタートを苦とも思っていなくて、百万機のコンティニューさながら不死身の愛の化身であり、そして人一倍貪欲で、人並みに好き嫌いが激しく、しかしながら人以上に傷つきやすい、男は女心を理解っていないと肩を竦め、同属嫌悪にも呆れ、その中で唯一見つけた希望すらも瞬く間に裏切ってしまう軽薄な人間関係に飽き飽きするのに、恋愛となれば一瞬にして我を忘却してしまう純情無垢と天真爛漫を併せ持つ、たまに仮面を被り、猫を被り、泥を被り、罰すらも被ってしまう女心と向き合いながらも華やかな思春期と淡く苦い青春を豊かに過ごす――ただの女子高生。
他と何ら変わりない、何の変哲もない、平々凡々な女子高生の姿がそこにあったような気がした。
殺人鬼でもない。
『神宮司』でもない。
そこにいたのは、ただの高校二年女子である籠目 紫だった。
「……騙してて、ごめんなさい。えへへっ、そんな顔してるでしょ?」
「最後まで騙されてたよ、籠目ちゃん」
僕は力無く倒れてきた籠目ちゃんの体を受け止めた。
涙を目尻から流しながら、安らかな笑顔と共に目を瞑る彼女の表情はまるで恋愛に失敗した女子高生のようだった。
籠目ちゃんの背中に回した腕から感じ取れる生暖かい液体の感触は言うまでもない――彼女の背後を音もなく襲った出刃包丁のせいだった。
高々と背中に突き刺さる刃の向こう側に『暗闇』がいた。
いや、暗がりの中でもわかる。
理解できる。
冷静な頭で認識できる。
『暗闇』は言った。
「うひひひっ、危ないですねぇ。お兄さん、もうちょっとで殺されそうでしたねぇ。うひひっ」
彼女の名前は神宮司 甘奈と言う。
僕はその姿を一目見て、六月八日の曖昧な記憶を明確に取り戻した。